第一話 夜会帰りの公爵令嬢
公爵令嬢クラリス・レーヴェンハイトが婚約破棄された夜、王都には雨が降っていた。
王宮での夜会はまだ続いている。
けれど、クラリスは、もうそこにいることを許されなかった。
帰宅予定の時間よりもずっと早く、公爵家の迎えの馬車はまだ来ていなかった。
王宮の使用人に辻馬車を呼ばせるなど、公爵令嬢としては褒められた振る舞いではない。
それでも、今は体面よりも、王宮の灯りから少しでも早く遠ざかることのほうが大事だった。
やってきた辻馬車に乗り込むと、黒い外套を着た御者の男が尋ねる。
「どちらまでですか?」
「レーヴェンハイト公爵家まで……」
クラリスの言葉が止まる。
帰って何を言うのか。
婚約破棄されました。
王太子殿下に、冷たい女だと断罪されました。
そんなことを父に報告するのか。
「いえ……どこにも行かなくていいわ」
「どこにも、ですか?」
「ええ。ただ、走らせて。止まらないで」
「……わかりました」
御者は黙って手綱を軽く鳴らした。
馬がゆっくりと歩き出す。
雨が馬車の幌を打つ音がする。
姿勢を正して黙って乗っていたクラリスは、気づくとすすり泣きを始めた。
御者は最初、何も言わなかったが、クラリスがずっと泣き続けていることに気づき声をかけた。
「話したくなければ、話さなくて構いません」
「……」
「ですが、話して楽になることもあります」
クラリスはすすり泣きをしたまま、何も話をしなかった。
御者もそれ以上は何も言わなかった。
しばらくすると、クラリスは少し落ち着き始めた。
そして息を整えるように大きく深呼吸をした。
「お名前は何と仰るのですか?」
クラリスが御者に尋ねた。
「……僕ですか? アルトと言います」
「そう、アルトさん……。自分の恥を晒すようで話したくなかったのですけれど……」
雨に濡れる窓を見ると、王宮の灯りはすでに遠くになっていた。
「どうせ明日には王都中に知られることだわ」
クラリスが大きくため息をつく。
「私はクラリス・レーヴェンハイトと言います」
「レーヴェンハイト公爵家……名家ですね。確かご令嬢は王太子の婚約者でしたよね」
「つい先ほどまではね」
アルトはそれ以上、尋ねなかった。
王宮の夜会。
ただ一人だけの早い帰宅。
公爵令嬢の涙。
そして、「つい先ほどまで」という言葉。
何があったか察するにはそれだけで十分だった。
「私がその公爵令嬢で、つい先ほど王太子殿下に婚約を破棄されたのです」
「理由をお伺いしても?」
「……私、冷たいんですって」
「冷たい、というのは?」
「聖女候補……ミリア・フローレンスという方がいらして……とてもお優しい方で、王都の民の方々にも人気があるんです」
またクラリスがため息をつく。
「その方に比べて、私は民の方々と向き合わず、実務ばかり気にする冷たい女だと言われて……」
「実務、ですか」
クラリスは続ける。
「孤児院の毛布を、冬の前に百枚増やしました」
「炊き出しには、毎日パンが二百個届くように手配しました」
「薬草商との契約を見直して、施療院の薬代を下げました」
「戦死した兵士のご遺族へ、補償の費用を計算し、支給が遅れないよう予定を組みました」
「他にも、私にできる限りのことを……」
クラリスは自嘲するように小さく笑った。
しかし、その笑みはすぐに消えた。
「私がすることは人を癒しもしなければ、励ますことでもない。ただ書類仕事をしているだけなんですって……。王太子妃に相応しいのは、私ではなく、ミリアのような女性だとはっきり言われたんです」
「炊き出しにパンを必要なだけ手配することが冷たい人のすることなのでしょうか?」
「え?」
「毛布が百枚あれば、百人が夜を越せます。薬代が下がれば、薬を受け取れる人が増える」
アルトは前を向いたまま言った。
「それは、本当に冷たいことでしょうか」
クラリスはその問いに直接答えることはしなかった。
「私は、誰かを救えるほど立派な人間ではありません。ただ、親のいない子供も、病に苦しむ人も、お腹を空かせている方も、夫を亡くされたご婦人も、明日を諦めずに済むようにしたかったのです」
「では、なぜそれが冷たいと?」
「私はミリア様のように、民の手を取って一緒に涙を流すことはできませんでした。
私は、哀れな民を見て泣くより、明日のパンや毛布や薬が途切れないようにしたかったのです」
クラリスの声が少し震える。
「けれど、王太子殿下にとって、大切なのは『心』なんですって。そう言われてしまったら……正直に言うと、私は王太子殿下を愛していなかったわ。心がない、というのはそのとおりかもしれない。婚約破棄されて当然ね」
声の震えが止まる。クラリスは少し落ち着いたようだった。
「聞いてくださってありがとう。少しすっきりしたわ」
「ではお帰りになりますか?」
「……いえ、もう少しだけ走ってくださる?」
「かしこまりました」
馬車はまた、雨の王都を進んだ。
しばらくして、クラリスは窓の外を見て眉をひそめる。
濡れた街灯。
閉じたパン屋。
薬草の絵が描かれた看板。
見覚えがあった。
「アルトさん。この道、先ほども通らなかったかしら」
「三度目です」
「三度?」
「はい」
「……迷っているの?」
「迷っているのは、馬車ではありません」
アルトは手綱を握ったまま、静かに言った。
「あなたは迷っていらっしゃるようだ」
「私が?」
クラリスが少し驚いたように言った。
「この馬車には、少し変わった力があるのです」
「どういうことですか?」
「探しものの馬車というものを、ご存じですか?」
「……いえ」
「ときおり、クラリス様のように、行き先をお持ちでないお客様がこの馬車に乗られます。そういった方の本当の探しもののある場所へ連れていってくれる馬車のことです」
「この馬車が、その馬車なのですか?」
「はい」
アルトが言葉を続ける。
「この馬車が同じ道を巡っているということは、クラリス様ご自身が、まだ何を探しているのか分かっていないのでしょう」
「……私は何を探しているのでしょう」
「それを探すために、走っているのかもしれません」
馬車は夜の王都を走り続ける。
やがてまたクラリスが口を開く。
「あなたも、何か探しているものがあるの?」
アルトは少しの間、沈黙した。
「不思議なもので、この馬車は、御者の僕の探しものは見つけてくれないのです」
「何を探していらっしゃるの?」
「……婚約者です」
クラリスは息を呑んだ。
「十年前、僕にも婚約者がおりました。リディア・エーヴェルトという女性です」
アルトの声は、雨音に消え入りそうなほど静かだった。
「その頃の僕は、アルト・ヴェルナーという名の、侯爵家の令息でした」
「ヴェルナー侯爵家……。確か……」
クラリスが言い淀む。
「はい、もうありません。父は王宮の不正を調べていたのですが、逆に横領の罪を着せられました。家は潰れ、僕も貴族ではなくなりました」
「そんな……」
「婚約者のリディアは、侯爵家の容疑を晴らすため、王宮へ向かいました。証拠を持って戻る、と言って」
アルトは濡れた夜道を見つめた。
「それきりです」
雨が、幌を打っていた。
「僕はそれから、辻馬車の御者になりました。王都中を走っていれば、いつか彼女に辿り着けるのではないかと思って」
「十年も?」
「ええ」
「それでも、まだ探しているのですか?」
「はい。探している間だけは、まだ終わっていない気がするのです」
その言葉は、雨の音とともに、クラリスの胸の奥へ落ちた。
自分もそうだったのだ。
王宮を追い出されたあと、アルトにどこにも行きたくないと言い、止まらないでほしいと願った。
止まれば、終わってしまう気がしたからだ。
王太子妃になるはずだった自分も。
王太子妃になるため努力してきた自分も。
民のために積み上げてきたものも。
手配や支払いのことばかり気にする冷たい女だったと決まってしまう気がしたからだ。
「私も……終わらせたくなかったのかもしれません」
クラリスは、雨に濡れた窓の向こうに、夜の王都を見た。
「王太子殿下の愛を探していたわけではありません。婚約者の地位を取り戻したかったわけでもない。公爵家へ帰りたかったわけでもない」
雨に滲む街灯が、遠くに揺れていた。
「私は……私の心が、どこにあるのか知りたかったのかもしれません」
その瞬間、車輪の音が変わった。
アルトは手綱を強く引いていない。
ただ、握り直しただけだった。
それなのに馬は、初めて行き先を知ったかのように、雨の王都を駆け出した。




