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降り注ぐ光が、これほどまでに疎ましく感じられる日が来るとは思わなかった。
王宮の「黄金の間」は、その名の通り、壁という壁に金箔が施され、天井からは数万個のクリスタルが連なる巨大なシャンデリアが吊り下げられている。床に敷かれた深い真紅の絨毯は、貴族たちの靴音を吸い込み、代わりに室内には弦楽四重奏の優雅な調べと、扇子の隙間から漏れ出る毒を含んだ笑い声が充満していた。
「――クィンティリア・オクタウィウス公爵令嬢! 貴様との婚約を、たった今、この場を以て破棄することを宣言する!」
頭上で鳴り響いたのは、演奏を切り裂くような傲慢な声。
私の婚約者であり、この王国の第一王子、アウルス・ウィテリウス。
彼は隣に寄り添う一人の女――燃えるような赤髪を露わにし、不似合いなほど露出の多いドレスを纏ったフルウィア・ウェンティディウス男爵令嬢の腰を引き寄せ、勝ち誇った顔で私を見下ろしていた。
その瞬間、私の頭の中で何かが「パチン」と弾けた。
視界が白く染まり、情報の濁流が脳内に流れ込んでくる。
熱い。頭蓋骨の内側を焼かれるような熱量。
(……え? 何、これ。私、は……?)
意識の深淵から、今の私とは全く異なる、けれど紛れもなく「私」である記憶が浮上してきた。
それは、灰色をしたビルが立ち並ぶ世界。満員電車に揺られ、毎日パソコンの画面と格闘し、夜な夜な異世界転生もののweb小説を読むことだけを唯一の癒やしにしていた、一人の日本人女性としての記憶。
(そうだ。私、死んだんだ。徹夜明けの仕事帰り、横断歩道で背中を押されてトラックに――)
同時に信じがたい事実が判明する。
今、私が立っているこの世界。アウルス王子、フルウィア、そして「クィンティリア」という名の公爵令嬢。
これらはすべて、前世で私が死ぬ間際まで読んでいた未完の長編小説『没落王子と影の騎士』の設定そのものだった。
そしてクィンティリア。私だ。
彼女はこの物語における「悪役令嬢」ですらない。王子の心変わりを責め立て、嫉妬に狂い、やがては暗殺者に手を染めて狂気さ故に、処刑(暗殺)されるか、あるいは辺境の修道院に送られて惨めに孤独死する――主人公たちの愛を盛り上げるためだけに使い捨てられる、救いようのない「踏み台」キャラクターだった。
(……冗談じゃないわよ)
脳内が冷徹に状況を分析し始める。
これまでの私は、アウルスの顔の良さと王家との繋がりという重圧に囚われ、彼の浮気にも、私に対する冷淡な態度にも、ただひたすら耐えてきた。彼に愛されたい一心で、自分を殺して、公爵令嬢としての完璧な仮面を被り続けてきた。
けれど記憶を取り戻した今の私からすれば、アウルスはただの「顔がいいだけの無能な浮気者」に過ぎない。
この後、彼はフルウィアの甘言に乗せられて国政を疎かにし、隣国の侵攻を許して国を傾かせる戦犯になる男だ。そんな泥船に、誰が好んで乗り続けるというのか。私は私であって私ではない。
「どうした、クィンティリア。あまりの衝撃に言葉も出ないか? これまでフルウィアに対して行ってきた数々の嫌がらせ、私の耳に入っていないとでも思ったか!」
アウルスが声を張り上げる。周囲の貴族たちがヒソヒソと囁き合う。
「まあ、あのアウルス様が……」
「クィンティリア様も、あれほど執着されていては見苦しいですわね」
嫌がらせ? そんなもの、一度もやった記憶はない。フルウィアが勝手に階段で転んだり、自分でバシャッとお茶を被ったりして、私に罪をなすりつけただけだ。いわゆる自作自演のテンプレート。
私はゆっくりと、深く息を吸い込んだ。
俯いていた顔を上げ、背筋をピンと伸ばす。コルセットの窮屈さが心地いいほどの緊張感に変わる。
「……アウルス殿下」
私の声は、思いのほか澄んで響いた。
泣き叫ぶことを期待していたのであろうアウルスの眉が、不快そうに跳ねる。
「何だ。弁明なら聞かんぞ」
「いえ。弁明などいたしません。殿下のご意思、確かに承りました。婚約破棄、喜んでお受けいたしますわ」
その場にいた全員が、一瞬、静まり返った。
アウルスも、彼に寄り添うフルウィアも、目を見開いて硬直している。
「……何だと?」
「ですから、承諾したと申し上げたのです。これからはそのフルウィア様を、どうぞ正妃として大切になさってください。私のような『つまらない女』のことは、どうぞお忘れくださいませ」
私は完璧なカーテシーを見せた。優雅に、淑女の鑑として。
けれどその内心は、清々しさで溢れていた。
さようなら、アウルス。さようなら、ストレスまみれの片想い婚約者生活。
私は踵を返し、出口へと歩き始めた。
背後で「待て! まだ話は終わっていない!」とアウルスが喚いているが、完全無視虫カタツムリだ。公衆の面前で一方的に婚約を破棄したのはそちら。後の始末――公爵家への謝罪や、王家としての責任――に追われるのが誰か、まだこのバカ王子は理解していないらしい。
人混みを掻き分け、広間の巨大な扉へと向かう。
衆人環視の中を堂々と歩きながら、私の心はすでに「次の目的」へと向かっていた。
この物語『昏き月のアルカディア』。
私がこの小説を熱狂的に愛していた理由は、あのクズ王子ではない。
その陰で、誰よりも誠実に国を守り、そして無惨に散っていった一人の男。
私の「最推し」であり、クィンティリア――つまり私にとっての、淡い初恋の相手。
(ウェスペリウス……!)
扉の脇に、彫像のように直立する一人の騎士がいた。
銀灰色の甲冑に身を包み、腰には長剣。漆黒の髪を短く整え、その瞳は夜の海のように深く、静かだ。
近衛騎士団の副団長であり、アウルス王子の警護を務める男、ウェスペリウス・リウィウス。
彼は没落しかけた名門貴族の嫡男で、実力だけでその地位に登り詰めた「氷の騎士」と謳われる男だ。
小説の後半、彼はアウルスが引き起こした内乱を鎮めるため、たった数百の兵で数万の敵軍を無謀に食い止め、矢の雨の中で立ち無残な死を遂げる。なぜか無駄にこだわった接写で、悲劇的なラストだ。
クィンティリアとしても、幼い頃に一度彼に助けられて以来、ずっと彼に心のどこかで憧れていた。けれど公爵令嬢という立場と、王子との婚約がそれを許さなかった。次第に過去として忘れていった。
扉の前で私は足を止めた。
ウェスペリウスと視線がぶつかる。
彼の無表情な顔に、わずかな動揺が走ったのを私は見逃さなかった。今の騒動、彼はすべて見ていたはずだ。
「……クィンティリア様。馬車の手配をいたしましょうか」
低く、心地よく響くバリトンボイス。
前世の記憶が私の心拍数を一気に跳ね上げる。
本物だ。私が紙面で、画面越しに何度愛でた、あのウェスペリウスが目の前にいる。
(決めた。絶対に死なせない)
この国がどうなろうと、あのバカ王子がどう堕ちようと知ったことか。
私は私の知識を使い、権力を使い、そして前世で培った「愛」の情熱を注ぎ込んで、この気高く孤独な騎士を救ってみせる。
彼が誰かに利用され、捨て駒にされる未来なんて、私が叩き壊してやる。
「いいえ、ウェスペリウス。馬車は自分で手配できますわ」
私は彼に一歩歩み寄った。
周囲の目が注がれていることも構わず、私は彼の硬い籠手の隙間に、そっと自分の手を重ねた。
ピクリ、と彼の指先が震える。
「それよりも……明日、お話がありますの。公爵邸まで来ていただけますか? 近衛騎士としてではなく、一人の男性として。……私に、あなたの時間をください」
ウェスペリウスは目を見開いた。
その頬が、かすかに、けれど確実に朱に染まる。
氷の騎士が溶けた!
「……御命のままに、クィンティリア様」
彼は深く頭を垂れた。
その光景を背後に、私は今度こそ迷わず「黄金の間」を後にした。
雨上がりの夜風が心地いい。
空に輝く月は、まるで私たちの未来を祝福するように冴え渡っている。
さて。
まずは、公爵家の資産を整理して、アウルスが軍事資金を使い込む前に手を打たなくては。
それから、ウェスペリウスを死に追いやる「あの事件」の首謀者――隣国の間諜を洗い出す。
クィンティリア・オクタウィウスの人生は、ここからが本番よ。
浮気王子の隣で飾り物の人形をやっている暇なんて、一秒だってないんだから。
「待っていてね、ウェスペリウス。今度は私が、あなたを幸せにする番よ」
闇夜に溶けていく私の決意は、誰にも邪魔させない。
破滅のシナリオは、たった今、私が書き換えてみせる。
夜会を照らす王宮の明かりを背に、私は迷いなく、闇の先にある「ハッピーエンド」へと歩き出したはず。




