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第三話 動揺

次の日の朝。

まさかそこにリクが居ると思わず、長谷川は自動ドアの中央で一瞬足を止めた。

考えて見ればリクが作品を委ねている画廊なのだから、いても別に当然なのだが。

“リクという原石を見つけだしたのは自分だ”と豪語するオーナー佐伯の画廊『無門館』は、

まだ開店直後で他に誰もいない。

そのほぼ中央でリクは他の画家の描いた絵をボンヤリ眺めていた。佐伯の姿はない。


自然光になるべく近づけたライトの下で、ふわりと軽くウエーブしたくせっ毛が柔らかく栗色に光っている。

肌の色や目の色素が薄い事を考えると、あの色は生まれつきのものだろうと長谷川は思った。

均整の取れた細身の体は、それ自体がファッション誌から切り取られた画像のように感じられる。


「絵の搬入?」

何の前置きもなく長谷川が歩み寄りながら話しかけた。

リクは振り返り、特に表情を変えるわけでもなく長谷川を見た。

「いや、佐伯さんが食事でもしないかって」

「なんだ、デートか」

「変な言い方やめてくれよ。世話になってるしね。来てみた」リクは視線を絵に戻した。

「そう」

長谷川はチラリとリクの横顔を見る。

「グリッド、もうすぐ校了だよ。長い間ありがとね」

「僕は何もしてないよ。玉ちゃんに言ってあげたら? 長谷川さんからそう言われたら、きっと彼うれしがると思うよ」

玉城の感激する顔を思い浮かべたのか、リクは楽しそうに柔らかく笑った。


ザワリとした感覚を胸の辺りに感じて長谷川は目をそらす。

「玉城はいいよ。あいつは仕事だから。・・・それよりさ、あんたは個展とかやらないの?」

「個展?」

「もっと自分の知名度を上げようとか、多くの人に作品をみせたいとか、売れて欲しいとか、普通思うんじゃないの? 画家ってさ」

長谷川は壁に並ぶ他の画家たちの絵を見ながら言った。


「そうなんですよ! 私もそれを言おうと思って今日呼んだんです」

佐伯の声がフロアの端から響いてきた。ニコニコしながらこっちへやって来た。

どんだけ耳がいいんだ、と長谷川は軽くためいきをつく。

もう少し、リクと二人で話を進めたいのが本音だった。

「私が主催するから是非やってほしいと以前から何度も説得してるんですがね」

「いいよ、個展なんて面倒だし。今くらいでちょうどいい」リクが素っ気なく言う。

「これだもの!」

外人俳優さながらなオーバーリアクションで佐伯はこんどは肩をすくめた。


「やりなよ、リク。あんたは贅沢なんだよ。こんなに期待されて、環境も整ってるっていうのに」

「長谷川さんには関係ないでしょ?」

美しい容貌というものは時に氷のように冷たい物質を解放する。長谷川はカチンときた。

「まあ、あんたには親が残していってくれた財産があるからね。絵が売れなくたって別に食うには困らないんだろうよ。私には関係ないことだったよね」


なぜだろう。そんな事を言うつもりは長谷川の中には少しも無かった。

心とは裏腹に言葉が出て来てしまうことなど、今まで無かった。しかも、リクの傷に触れるような事を。

リクが冷たい、ガラスのような瞳を長谷川に向けてきた。

何かがおかしい。

崩れる。

一瞬目を反らしたかったが長谷川は踏みとどまってその視線を受け止めた。

「いや・・・ごめん、リク。そんな事言うつもりじゃ無かった」


“逃げるな”“相手の動きを見極めろ”

体に染みこんでいた柔道の教えが場違いなこの瞬間、脳裏を駆けめぐった。


「私が見たいんだよ。あんたの絵を。ただ、それだけなんだ。ごめん、忘れていいよ」

長谷川はじっと心を探るように見つめてくるリクの視線から目を反らした。

ダン!と体が床に叩きつけられる音を聞いた気がした。

投げたのは自分か。それとも投げられたのが自分か。


長谷川は「じゃあ、また」とリクに言い、佐伯に軽く一礼するとその画廊を後にした。

“逃げたな”と、自己分析してみる。


近頃の自分はどうかしている、変だ。

今日は休日だし、久しぶりに無駄に陽気な知人のやってるレストランに行って気を紛らわそう。

次の予定を決めると長谷川は、ちょうど通りがかったタクシーに向かって手を挙げた。


             ◇


「柳さんって、嘘うまいですね。ほんと。兄貴ら納得してましたもん」

感心したように赤木がまたその言葉を口にした。今日3何度目だ。

赤木は何度も同じ事を言う癖があった。

「受け取りの失敗のことか? まあな。弱い奴は弱いなりにいろんな武器を使って生きながらえなきゃな」

寂れた商店街のアーケードのを歩きながら、柳は言う。

「好きだなあ、柳さんのそういうとこ。イキってカッコつけないとこが」

「お前は俺をからかってんのか?」

柳は背の低い後輩を少し語気を強めてたしなめた。


「でも今日は失敗は無しだ、赤木。ガキの使いみたいな仕事だからな。あの店の親父はなかなかの大ダヌキらしいが、今日はきっちりショバ第巻き上げるぞ」

「少し前に出来たデート喫茶ですよね。表向きレンタルビデオ店なんて看板出して、ふざけてますよね」

「まあ、勝手にシマ張っておいてミカジメ料取ろうっていう俺らもふざけてるけどな」

「それ、大きな声で言わない方がいいですよ」

赤木は笑った。

笑うとまるで中学生のように幼く見える。

お前は何を間違ってこんな所にいるんだ? 柳はつい、そう言いそうになった。


足を速める。

ゆるゆるしていたら、この湿った地面の下から黒い手が伸びてきて絡め取られそうな気がする。

妖しげなホビーショップの脇に、2階へ上がる狭い錆びた階段が見えてきた。

その上が目的地だ。更にジメッとした空気を感じる。

迷うな。余計なことを考えるな。自分に気合いを入れて階段の手すりを握った。


「あれ? 柳?」

脳内のモヤををガサッと持っていくような太い声にハッとして、柳は振り返った。


「良く会うね、最近。こんな所で何やってんの。仕事?」

柳と赤木の前に、やはりカッチリとしたスーツを着た長谷川が立っていた。

「ボス!・・・は、はい。仕事です」

なぜここに? やっと絞り出すように返事をする柳。

「へえ。いろんな所に出向くのねえ。大変だ、流通の仕事も」

「はい。忙しいんです。流通の仕事も」

引きつりながら、柳はかろうじて笑顔を作った。


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