見えない助け
「おお汝、漆黒の……」
「そこまで」
詩の途中、突然止められ戸惑いつつも口を閉じた。薪の爆ぜる音がして、本から顔を上げると入り口の方を見つめるバルバロスさまの姿があった。誰か来たのかしら。思いながら私も振り返り、それは確信に変わった。
ジーンも立ち上がって部屋の外を見ていたから。尻尾が警戒してゆっくり揺れている。あの様子では、近づいて来ているのはラスティではないわね。
そばを舞う火の粉から本を守りながら閉じ身じろぎすると、バルバロスさまの視線が一瞬だけこちらを確かめるのがわかった。距離を測っているのだわ。いつだって、そうされている。
また薪が爆ぜた。その頃には私の耳にも、近づいてくる足音が届いていた。間もなく、ほとんど駆けるような足取りでまだ若い兵士が部屋に飛び込んで来た。男は一瞬私を認めぎょっとした表情を見せてから、乱れた息もそのままにこう言った。
「見張り塔から伝達が。シファードの旗を掲げた一団がこちらに向かって来ていると。数は十五。日没前には到着するとのことです」
シファード。お父さまたちが来たのだわ。一瞬で胸に湧き上がった喜びは、部屋に満ちた重い雰囲気に気が付いてすぐにかき消えた。バルバロスさまが私を見つめ、ゆっくりと立ち上がり、椅子が軋んで音を立てた。影が揺れながら床を這い、こちらに伸びてくる。
「バルバロスさま」
呼びかける声が震えた。なにかに縋りたくて、本を抱きしめる。その手も震えた。なぜ震えるのかよくわからない。
「なんだ」
「婚礼に参列するために、お父さまたちは来られたのです」
「そうだな、僅か十五では、戦を仕掛けに来たとも思えぬ。だがどうしたことか、取り決めたより幾日も早く、事前の知らせもない。先日飛び込んできた騎士からもなにも聞かされてはおらんのだぞ、礼を失するにもほどがあるわ、不愉快な」
並べられた言葉はあまりに正しく、反論できない。彷徨いそうになる視線をなんとかバルバロスさまの胸元に向け、言葉を探した。
「申し訳ございません。きっと、私の、体調を案じて……」
「我が城には術者も薬も揃っておる、そうは思わぬか? シファードの姫」
「は、はい」
そう言われてはもうなにも言えない。押し黙って俯く私に、バルバロスさまはわざとらしくため息をひとつついてみせてきた。
「来てしまったものは出迎えるしかなかろう、迎えの兵を送れ。万が一にも伏兵を潜ませておらぬか確認するのを怠るな。気配の察知に敏い魔術師を複数連れて行け」
「はっ、すぐに」
兵士が駆けていく足音が遠ざかって行く。私はどうなるのだろう、部屋に戻されるのかしら。監禁されたりはしないはずよ、バルバロスさまがさっきおっしゃった、お父さまたちは戦に来たわけではないのだもの。
「さて、姫」
私の視界に、バルバロスさまの靴のつま先があらわれた。大丈夫、怖くない、殺されやしないわ。殴られたりも多分しない。だってお父さまが、すぐ近くまで来られているのだもの。そう思って自分を勇気づけ、ぎゅっと唇を引き結んで顔をあげた。
「立て」
本を床に置いて、命じられた通り立ち上がる。軽くよろけたふりをして一歩バルバロスさまから遠ざかった。視界の端に、こちらを向くジーンの姿がうつる。そうよジーンだっているんだもの、怖くない。
「指輪をはめておけ」
これにも素直に従った。袋に指を入れ、先に触れた方を手早くはめる。手袋の上からつけた指輪はそれでも少し大きかった。
「少しは明るい顔をしてみせんか、こちらまで陰鬱な気分になる」
呆れ声で言われた。これからどう扱われるかもわからない、その上死人から奪った時代遅れの指輪をはめて、明るい顔をしろだなんて。腹が立って、無理に笑いはしなかった。笑うかわりに背筋を伸ばし、顎をあげてバルバロスさまを見上げると、バルバロスさまの表情がみるみる不愉快そうになって蛮勇を少しだけ後悔した。
「ついて来い」
だから、短く言って歩き出したバルバロスさまに、おとなしくついて部屋を出た。どこに行くのかしら、広間でお父さまたちを待つ? それともまた城壁に登る? 今からあそこまで行くのは骨が折れるわ。そこまで体力は回復していないもの。
どこに行くにしても、もう少しゆっくり進んで欲しい。先を歩くバルバロスさまの背中が次第に遠ざかっていく。まるで部屋を出たとたん、私をお忘れになったみたいだ。
ジーンがなにごとかと問いたげに時折私を見上げながら、少し先を歩いてくれていた。ジーンくらい体力があれば置いていかれたりしないのに。もう、このまま逃げ出してしまおうか。
ふとそんな思いが浮かび、足が止まった。一瞬遅れてジーンも止まる。すでにバルバロスさまの姿は、階下に通じる階段に吸い込まれ見えなくなっていた。誰もいない。今この通路にはジーンと私だけだわ。
逃げ出す。お父さまたちのところまで走って逃げて、全部話すの。どんな恐ろしい目にあったか、ぜんぶ――。
「なにをしておる!」
夢想はすぐに破られる。無理だわ。バルバロスさまの声が響いてきた。張りのある、よく通る声。
「イルメルサ、どこだ!」
「ここに!」
叫んで返事を返し、足を踏み出した。足がよろける。呼びつけられ、詩を読まされて。ラスティにもらった魔力ももう底を尽きはじめている。こんな体では、城の外まで走るなんてできやしない。
それにお父さまに会えても、訴えたいことはなにも話せないのだ。話せば契約の効力がなくなって妹を守れなくなる。妹のために契約したんだもの、あれだけは破るわけにいかない。
「すぐに参ります」
聞こえないとわかっていたけれど、小さく呟いてからまた歩きはじめた。階段の上にたどり着いたときには、バルバロスさまはすでに下で、駆けつけてきたらしい騎士のひとりと言葉を交わしていた。
バルバロスさまがちら、と視線で私を見ると、騎士も追ってこちらを見上げた。見られたのは一瞬。すぐに二人は私に興味をなくし、話に戻っていった。何を話しているのかしら。
耳を澄ませて盗み聞きながら、ゆっくりと階段を降りる。砦、火球、知らせ……そんな言葉が漏れ聞こえてくる。伏兵を恐れているのね、見つけしだい火球を上げて知らせろと、そんな話をしている。
じわじわと不安が心に滲む。お父さまたちが傷つけられでもしたら。
「シファードの騎士と魔術師の所在はわかっておるのだろうな」
「魔術師はご命令通り塔に。騎士は少し前、午後の兵たちの訓練に混じって過ごしている姿を見ております」
「そうか、シファードの者から決して目を離してはならん、捕らえる準備を整えておけ」
捕らえるなんて。
「バルバロスさま、あんまりなお言葉です、みな私たちの婚礼のためはるばる……」
「そなたも領主の娘。逆の立場であればゲインも備えるだろうとは思わぬか?」
聞き返されて言葉を失った。そうね、逆なら……ガウディールの一団が事前の連絡もなく来れば、父も警戒する。
「これに背格好の似たものを用意しておけと前に命じたな」
押し黙った私に蔑んだ視線を向けたあと、バルバロスさまがまた騎士に話しはじめた。私に似た者?
「は。何人か目星をつけております」
「着飾らせ城壁に立たせておけ」
「御意に。では火球があがれば……」
「首を斬って投げ捨てろ。忘れず、髪に油を染み込ませ火を放てよ。焼けておればしばらくは誤魔化せよう」
さらりと語られた言葉、その意味を理解して息が詰まった。私がされるのではない、それはわかっていても、血が凍えるほど恐ろしい。
「その者もガウディールの領民ではございませんか。 どうかお考え直しください、あまりに残酷にございます」
震えながら進言した。言わずにいられなかった。
「ひとたび戦が起これば領民は大量に死ぬ。敵の戦意をひと時でも削げるのであれば無駄な死ではない」
「シファードは戦など起こしません、私が立ちましょう。お前、私を連れてお行き」
最後、騎士に顔を向け言うと、ふん、とこちらを馬鹿にする声があがった。バルバロスさまだ。
「そなたの死に場所はそこにはない。これのことはいい、行って命じたことをやれ」
「は」
ガシャン、と騎士は音を立てて私たちに礼をとると、拍車を鳴らしながら大股に歩いていってしまった。
「お待ち!」
私の声に立ち止まりもしない。
「しつこいぞ。謀がなければ城壁に立つ娘にもなにも起こらぬ。それともその慌てよう、なにか知っておるのか? シファードの騎士からなにを伝え聞いた?」
ロインから。問われた瞬間、父からの手紙が脳裏に蘇った。もう燃やしてしまったあの手紙。
「なにも……」
必ず助ける、信じて待て、愛している。
書かれていたのはそれだけ。
「なにも聞かされておりません、なにも」
呟くと不安で目に涙が滲んだ。なにが起ころうとしているのか、なにもわからない。
「そうであろうな、でなければ城壁に立つなどと言おうはずもない。さあ、時間が惜しい、広間へ向かうぞ」
そう言ったバルバロスさまが、踵をかえし歩き始めた。遅れまいと懸命に追っていると、広間に続く回廊のひとつに行き当たった。上から差し込む日射しはまだ強く、日没まで間があると教えてくれる。
回廊には、慌ただしく行き交う兵士や魔術師に混じって、ガウディールではめずらしく、荷を抱え立ち働く召使いたちの姿も幾人かあった。婚礼の準備に、シファードの領主の出迎え、急に忙しくなったのだものね。
こんなに人がいる城だったの。
「ご報告いたします!」
「今度はなんだ」
大勢の人の姿に圧倒されていると、その中から男の召使いがひとり、転がるように抜け出て来てバルバロスさまの前に膝をついた。男は肩で息をしながら、思わせぶりな視線を一瞬私にむける。なに。
「騎士ロインさまが、その、イルメルサさまの部屋に忍び入って参りまして」
なんですって、ロインが私の部屋に? 思わず手を上げ口元をおさえた。
「居合わせた魔術師たちが捕縛の術を使いましたが、かなわず」
「は! 逃がしたのか馬鹿どもが。先ほど兵と戯れておると聞いたばかり。霧のようだな、消えるもあらわれるも自由きままか。我が婚約者の寝所に陽の高いうちから忍び込むとは、誰かその男にここをシファードではないと教えてやれ!」
「そのような物言い、おやめください!」
呆然としていたけれど、聞き捨てならない一言に反射的に言い返した。まわりに召使いたちが大勢いるのよ、ありもしない不貞を匂わされては、黙っているわけにはいかない。
「与えられた部屋はあそこひとつきり。私に面会に来た者は全て寝所を訪れるのです、モルゴーなど、出ていけと言ったのに強引に押し入って来た日もあるのですよ! それに」
伝達に来た召使いとバルバロスさまが……いいえ、その他にも。このあたりにいる者がみな、私を見ていた。視線の圧に挫けそうになりながら、必死で言葉を続ける。
「それに、“居合わせた魔術師たち”とは? その者たちこそ許可もなく、私の部屋で一体なにをしているのです」
「それは……」
跪いたままの召使いを上から睨みつけながら言うと、男は視線を彷徨わせ言葉を濁した。助けを求めるようにそれがバルバロスさまに向かおうとしたのを遮って、一歩前に出る。
「私の物に手を触れたわね、卑しい真似を」
「責めてくれるな、その者たちは命じられたことを行ったまで」
返事は後ろから返ってきた。
「シファードの使者からなにか受け取ったのではなかろうかと思い探らせたのだ。非礼はお詫びする、イルメルサさま」
バルバロスさまのそつのない言い訳に、私は黙るしかなかった。大勢に見られる前で謝罪をされてしまって、言えなくなった文句が胸の中で渦を巻く。
「バルバロスさまが思い描かれているようなものが、私の部屋から見つかるなど、有り得ぬことです」
それだけ言うのが精一杯だった。
“部屋にはない”
「……そうか」
私の意図を読み取ったのだろう、バルバロスさまの声は不愉快そうな響きを含んでいた。
周囲の者たちが緊張を孕んだ眼差しで私たちを見つめている。その中の多くが、私に蔑みの視線を向けていた。バルバロスさまが、わたしを怒鳴りつけでもすればいいと期待している顔をして、隣同士視線を投げ交わしている。
怖くないわ、ジーンがいるもの。撫でられないけれど足元に熱を感じる。手に息使いも。怖くない。そう心で繰り返し必死に自分を奮い立たせていると、突然記憶の中に光がさして、ラスティの言葉を照らし出してみせてきた。
“俺の犬のことだが”
“数日ここに置いてくれないか”
数日のうちになにか起こると、彼は知っていたんだわ。だから私が心細くならないように、ジーンを置いていってくれた。私を頼るふりをして。
「どうした、涙など浮かべて?」
「目に、埃が。ここは人が多ございますから」
「ふん、かわいげのない娘だ。行くぞ」
手袋をはめた指でそっと目尻をおさえた。大丈夫怖くない。なにか起こるとラスティが知っていてくれているのなら、怖くないわ。大丈夫。私はここでひとりぼっちなのじゃない。
「ジーン、私から離れないでね」
そっとつぶやいてから、バルバロスさまの背中を追った。




