困惑の中
広間へ続く通路で明かりをともしていた召使いたちは、私たちが横を通ると順に手を止めて膝を折っていった。その影が私たちの影と踊るように交わった。
「バルバロスさま」
通路を抜けバルバロスさまが薄暗い広間に足を踏み入れると、すぐに奥から声がした。年配者の聞き覚えのある低い声、誰だったかしら。バルバロスさまの背からそっと顔を出して奥を見ると、緑の軍衣を身につけた騎士ノースがいた。私をシファードまで迎えに来た騎士だ。あれ以来ほとんど姿を目にしていなかった。
「騎士ノース、聞いたか?」
「シファードからの一団のことでございましたら」
「まったく、どこまでも煩わせる。お前は迎えにでなかったのだな」
「は」
短く答えたノースの声に、バルバロスさまを守ろうという強い意志が見えた。シファードは攻めて来たわけではないのに、不愉快でたまらない。
広間には数人の魔術師たちがいて、遠くから不安げにこちらをみつめている。疑念の滲む視線に苛立ちが募った。
「イルメルサさまもご一緒でしたか」
「ああ。たまたま朗読を頼んでいてな」
「たまたま、でございますか。幾度となく我々を勝利へと導いてくださった、バルバロスさまの強運がご健在で安心いたしました」
ノースの言葉にバルバロスさまは気をよくしたのか、広間に明るい笑い声を響かせながら奥に進んだ。シファードが来たと知らせを受けたときのバルバロスさまは本心から驚いておられた。今日私を呼んだのは本当に偶然だったのだろう。強運。なるほど、こんな場所で戦い生き抜いてきた男には当然備わっているものなのかもしれない。
父はどうだったかしら、父から聞かされた戦の話はいつも、そう、助け助けられ……なんとか乗り越えてきたのだと……。強運なんていうものとはほど遠いわ。このことはあまり考えないでおこう。
「シファードの犬が逃げ出したそうだが捕らえたか」
急に投げかけられた問いに、ノースの古傷の残る頬がぴくと動く。犬。ロインをそんな風に呼ぶなんて。
「何事かございましたか」
抗議しようと私が口を開くより早く、ノースが言った。バルバロスさまは立ち止まり、意外そうな声をあげた。
「なんだ、聞いておらぬのか。先刻シファード接近の報の届いたのち、これの部屋に忍んで来おったそうだ」
バルバロスさまは“これ”としか言っていないのに、ノースは迷わず私を見た。鋭い視線に身が竦む。私の怯えを見て取ったノースが、片方の口角を小さくあげ笑った。
「まこと、強運でございますな」
「なれば一刻も早く捕らえてみせろ、行け」
命じられたら言葉に、ノースの笑みが消える。
「しかし」
「ここはいい、行け。なかなかの手練れと聞く、若いからと油断するな」
「……即刻捕らえ、戻って参ります」
物々しいやりとりに心がざわめいた。慌ててバルバロスさまの前にまわり出て、訴える。
「おやめください、初めから剣を向けさせるおつもりですか? あれは私に面会に来ただけ。中の不穏な気配を察して賊にでも押し入られたかと確かめに忍び入ったに違いありません」
「ノース、行け」
バルバロスさまは煩わしそうに私から視線をそらすと、頭越しにノースにもう一度命じた。後ろでがしゃ、と騎士の動く音がした。
「バルバロスさま! 乱暴なことはどうかお命じにならないで……」
「うるさい娘だ!」
「あっ!」
突然、一歩進み出たバルバロスさまに腕で胸を強く押された。口から息がもれ、足がよろけて床に倒れ込む。ざわ、と一瞬ざわめきが起こったけれど、私に駆け寄ってくれる者は誰もいなかった。バルバロスさまは振り返りもせず、奥の領主の椅子に向かい歩いていく。その背をみつめる私の視界に、黒い色が入ってきた。
ジーンの後ろ姿だ。私とバルバロスさまの間に入って低い低い唸り声をのどの奥で小さく響かせている。それを聞いて血の気がひいた。バルバロスさまの気分を害して斬られでもしたら。
「しっ、ジーン、静かに」
撫でようと手を延ばしかけ、やめる。気配を感じたのか、唸るのを止めたジーンが私を見た。黒い目が光っている。
「いい子ね……いいのよ、ジーン」
ロインなら大丈夫。体は大きいけれど素早いわ。あのアリアルス相手に、駆けっこでもかくれんぼうでもいつも手加減をしてくれていたもの。
しっかりするのよ、大丈夫。手を床につけゆっくりと立ち上がった。やっぱり私のところには誰も来ない。みな遠巻きにしているだけ。
顔を上げると、椅子に腰掛けたバルバロスさまのところには、胸当てやマントを手にした召使いたちが何人も駆けつけていた。バルバロスさまは煩わしそうにしながらも、身支度を整えられどこか満足げに見える。
戦がお好きなのかしら。そちらに意識が向いていたから、私の身にまだほんのわずかに残る魔力に気がつかなかった? ちらと思って、心が冷えた。駄目よ。戦なんてはじめさせては。
これからどうしたらいいの。
広間の中程で、ジーンとふたりぽつんと立ち尽くしていた私の耳に、遠くなにかの音が聞こえたのはそのときだった。
「しっ」
バルバロスさまにも聞こえたのか、鋭い制止の声が広間に響いた。静寂。そしてまた。高く鋭い、なにかがはじける音。それが遠くで鳴った。バルバロスさまが肘掛けに手を置き、中腰をあげる。まさか、火球が。心臓が早鐘のように打ちはじめた。
火球をあげる時、こんな音は鳴ったかしら、ずっと昔に見たはずなのに思い出せない。
「何事だ」
と、バルバロスさまの困惑の色の濃いつぶやきが耳に届いた。では、この音は火球をあげた音ではないのだわ。良かった。でも安堵と一緒に、不安と疑問がわき起こった。なら、なにが起きたの。
服の下の、ラスティの魔石の硬い感触に縋りたくて、無意識のうちに手が胸のあたりにいった。ぎゅ、と押さえるとじわりと彼の魔力が滲む。
そうこうするうちに、今度は遠くから人の騒ぐ声がしはじめた。やっぱりなにかあったのよ。思った瞬間また音。今度は大きなものがぶつかり合う低く重い音が響いてきた。地響きも。怖い。
「敵襲では!」
広間の隅に固まっていた魔術師たちが声をあげた。敵、その言葉の不穏さにはっと顔をあげる。でも、予想に反してバルバロスさまは首を横に振った。
「簡単に侵入を許す城ではない」
ゆっくりと立ち上がったバルバロスさまの落ち着いた様子に、魔術師たちはほっとしたのか緊張がゆるんだのが見て取れる。
前に立った見張り塔を思い出した。あの高さに厚さ。堅牢な城壁、訓練された多くの兵士たち。そうよ、前に侵入を許したのは三十年も前だとバルバロスさまがおっしゃっていたじゃない。
「騒ぎは北で起きている。なにをぼさっとしている魔術師塔の方角だ、行って確かめて来ぬか!」
「は、はい!」
鋭い一喝に、魔術師たちが泡を食って広間を飛び出していく。それと入れ違いに、青ざめた顔をした下働きの者たちが数人、広間に飛び込んできた。粗末な衣服のその者たちは私と、奥のバルバロスさまを見てなお一層顔色を悪くした。
場違いだ、と思ったのだろう。シファードと違いここでは、下働きの者たちは姿を隠すよう命じられている。
彼らは入り口から少し入ったところで、足が凍りついたように動きを止めた。なにか知っているはずだけれど、私が声をかけて良いものかどうか……。
「あ、う」
一番先頭にいた男が、枯れた藁色をした髪に指を指し込み、迷うような困ったような様子をみせている。
「バッカ野郎邪魔だどけ!」
突然罵声がしたかと思うと、藁色の髪の男が突き飛ばされ倒れ込んだ。その後ろから同じような身分の者たちが、男も女も混じり合ってどっと広間に流れ込んできた。魔術師や兵士の姿も中に数人見える。広い入り口のあたりが、まるで祭日の通りみたいに。
「バルバロスさまがおられるぞ!」
「領主さま! お助けを!」
あとから来た者たちは私が見えてないのか、わらわらとバルバロスさまのいる方へ駆けて行く。私に肩をぶつけていく者までいた。あっという間に、人と音の洪水に巻き込まれてしまった。体を碌に清めていない者ばかりで、くさいにおいもする。
困惑しながら奥を振り返ると、人の頭の波の向こうに、バルバロスさまの顔が小さく見えた。あんなに遠い。
と、くん、と服を引かれる気配がした。
見下ろすと、ジーンが私の服の裾をくわえ、人の流れに逆らうように入り口の方へひっぱっている。行こうというの。どこへ。まだみながやってくる入り口へ視線をやった時だった。赤い色を見た気がした。
「熊が!」
「魔物でたって!」
「塔から煙があがって悲鳴が」
「お助けください!」
「怖い! どこへ行けばいいの!」
色々な声は音でしかなかった。足は勝手に動き出した。気がつくと私は、まるで操られでもしたかのように、人の波に逆らって歩き出していた。
「女を止めろ!」
広間を出たとき、遠くにバルバロスさまの声を聞いた。気づかれたわ。急がなければ。さっき確かに、こっちに赤い髪の者がいた。そう思ってやってきたのに、広間を出た通路、その奥にいたのはラスティより明るい色の赤毛をした、見知らぬ女だった。私が近づくと、女はぼんやりとした様子で顔を上げ、頬をこわばらせた。
先ほどみかけた下働きの者たちよりなお粗末な衣服で、裸足だった。陽に焼けまだらに黒くなった顔を不安げに青ざめさせ、赤ん坊を背負い松明の下に立っている。ひどくこの場にそぐわない。けれど。
もし、リュイが私の庇護なくここで生きていけばこんな風になるのかしら。そう思ったからだろうか、つい声をかけてしまった。
「お入り」
「……え?」
私たちの横を、なおも幾人もの人間が駆け抜けていく。
「お前も中へお入り、私が許します」
広間を指差しそれだけ言って、私はその場を立ち去った。きっと私も女に負けないくらい青ざめた顔をしているだろう。バルバロスさまに逆らってしまった。広間を出るのを見られてしまったわ、もう戻れない。そう思うと恐怖で指先が震えた。
ジーンが、少し先で私を待って立ち止まっている。どこに行けばいいの。思い迷いながら歩く。
追ってくる者はいなかった。みな恐怖に歪んだ顔をして、私には目もくれずなにかから逃げようとして走っていくだけ。
それを幸いに、ただ、ひたすら足を動かした。人のいない方、いないほうへと選んで進んでいくと、それは自然魔術師塔の方角へと、私を運んだのだった。




