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彼女が死んだ朝


 北見アズサが死んだのは約ひと月前。克真の記憶に寄れば五月の下旬に差し掛かる頃だった。GWが終わり、中間テストが近づいて校内は少し浮足立った雰囲気だった。


 その日は週が明けた月曜日。さらに朝からあいにくの雨模様で憂鬱度はピークだった。

 窓際の一番前の席の克真は机に突っ伏し、教室の窓にあたる水滴が流れるさまをぼんやりと眺めながら、このまま雨が止まないようであれば、直接よろず食堂に行こうかと考えていた。

 普段、学校はバス通学で、食堂と部屋の行き来は自転車なのだ。


(ちゃんとしたレインウェア買えばいいだけのことなんだけどな……)


 とはいえ“ちゃんとしたレインウェア”は数万円もする。祖母の持ち物である無料の住まいと両親から多少の仕送りがあるとはいえ、進学含め、今後克真の人生がどうなるかはわからない。とりあえずわからないうちは、極力慎ましい生活を送っておきたいと、克真は思う。


(まぁ、最近はよろず食堂でメシ作って食ってるから、食費もあんまりかからなくなってるけど……)


 よろず食堂の冷蔵庫や冷凍庫は、克真の知らない間に常に補充されており、基本的に買い出しはそれほど頻繁ではない。なので基本的には、あるもので適当にざっくりした食事を作る。リクエストがあった場合は受けられそうだったら受ける。

 そうやってあのゆるくて適当な食堂は成り立っているのだった。


(居心地が悪いってわけじゃないんだけど、早く借りを返したいんだよな。果たしていつになるんだか……)


「はぁ……」


 なにを考えているのかまったくわからない、謎の男、竜胆夜壱の姿を思い浮かべながら、克真は深いため息をついた。

 そこでガラリと教室の前のドアが開いて、一瞬教室に静寂が満ちる。


「あ、ハタモリ先生」


 入り口に近い席に座っていたクラス委員の女子生徒が、目をぱちくりさせ椅子から腰を浮かせた。


「どうしたんですか?」


 教室に顔を覗かせたのは畑森由紀はたもりゆきといい、この二年B組の担任の女教師だった。年ははっきりとは知らないが、聞くところによるとアラサー、担当教科は数学で独身らしい。

 華奢な体型をしていて、いつもどんなときでも黒ぶち眼鏡と白いシャツと黒のパンツスーツの組み合わせを外さない。人生で一度も染めたことがなさそうな黒髪は背中の真ん中くらいまであり、そっけないゴムでまとめている。顔立ちは切れ長の一重まぶたが印象的なすっきりとした美人で、素材は悪くないがメイクはいつも最低限だ。

 融通が利かなさそうな生真面目な雰囲気で近寄りがたくもあるのだが、生徒たちからは『なんだかんだいって面倒見がいいよね』という評価を受けている。

 確かに、ひとりぐらしではあるが一応名目上は祖母と同居というていを取っている克真も、二年に上がったばかりの頃、呼び出しを受けて『困ったことがあってもなくても相談するように』と言われたことがあった。

 その時は驚いたが、その後も特に彼女に相談することはなかった。さすがにあやかしの集まる食堂を任されているとか、ヤクザまがいの謎の男、竜胆夜壱に脅されているなどということを話せるはずがないからだ。


(でもちょっと嬉しかったんだよな……)


 少なくとも――彼女のような教師が克真の小学生時代の担任だったら、“あんなこと”にはならなかったのではないかと、克真は思ったのだった。

 自分にとっては、あれはどうにもならない過去だが、そう思わずにはいられない。


「――みなさん、おはようございますっ!」


 普段あまり焦ったりしない、ポーカーフェイスな畑森が珍しく焦った様子で教室の入り口に立ったまま、呼びかける。


「一時間目は自習になりました。よろしくお願いします!」


 生徒たちの注目が集まった後、畑森は早口でハキハキと言い放つと、また慌ただしく姿を消してしまった。ちなみに時間割の一限は彼女の数学だったはずだ。


「――自習だって」

「ハタモリちゃんの数学じゃん」


 教室にいる面々はそれを聞いて一瞬ざわつきはしたが、すぐにリラックスしたムードになり、「ラッキー♪」とささやきあった。


(HRにすらまだ少し早いのに……なにかあったのかな)


 克真は頬杖をついてぼーっと、畑森が出て行った入り口のドアを眺めていたが、すぐにそのことを忘れて、また机の上に突っ伏し目を閉じた。


 克真が目を覚ましたのはそれから三十分後だった。

 廊下から女子の悲鳴が聞こえて、それからバタバタと複数人が走る足音がした。


「おいっ、落ち着けっ!」

「待ちなさいっ!」


 生徒ではない。教師の声だろう。かなり切羽詰まった気配に、克真は突っ伏していた机から顔を上げ、ふわふわとあくびをする。


(ん……?)


 完全に寝ぼけていた克真は、教室の中を見回したが状況を理解している生徒はいないようだ。不思議そうな顔をしてお互い顔を見合わせている。中には窓枠に身を乗り出すようにして廊下を見ている生徒もいたが、結局わからないままだった。


(ねぼけた……?)


 そして克真はあくびをかみ殺し、頬杖をついたまま窓の外を眺める。

 さっきよりもずっと雨脚は強い。まるで灰色の幕がかかっているかのようだ。


(やっぱり食堂には直で行こう……)


 そう思った瞬間、グラウンドを弾丸のような何かが、校門に向かってまっすぐに縦断していく姿が見えたような気がして、克真は目をパチパチとしばたたかせた。


(ん……? ひと?)


 だがこの雨の中、傘もささずに走る人間がいるだろうか。しかも見た限りでは、その人物はすらりと背の高い、セーラー服の女子だった気がする。


(この雨の中を走ってた?)


 さすがにそんな酔狂な女生徒がいるとは思えない。

 克真は見間違いをしたのだろうと、また目を閉じた。


 そして二時限目からはなにごともなく授業が再開された。いつもの学校生活だ。けれど昼休み、突然、A組の北見アズサの訃報が校内を駆け巡った。

 発端はA組の女生徒で、スマホを片手に「アズが死んだって!」と叫び、それが二年生の廊下をさざ波のように広がっていく。


「なんで、いつ?」

「事故だって」

「ええーっ!」

「うそでしょーっ!アズサーッ」


 ほかのクラスの生徒も次々に教室から顔を出し、廊下はあっという間に、北見アズサの死を嘆く生徒でいっぱいになった。



 そう、北見アズサは通学途中の事故で死んだ。

 遅刻ギリギリではあったけれどいつもの時間、いつもの横断歩道を渡っているときに、前方不注意のトラックに跳ねられた。ほぼ即死だったらしい。翌日の夜に通夜、その翌日に葬儀と告別式が行われた――。


 克真が聞いた北見アズサの情報はその程度だった。


(むしろあの学校だと全然知らないほうだろうな)


 克真は閉じていた目を開けて、カウンターの前でじっと座っているアズサを見下ろした。


「あと、俺は告別式には行ってないけど、行ったやつが“外傷はほとんどなかったらしい”って言ってた」

「そうなんだよねー。本当、打ち所が悪かったみたいで」


 アズサは克真の問いかけに、うんうんとうなずいたあと、少し笑って頬杖をつく。そしてもう一方の手で、隣の椅子の上に丸くなっているセンベイさんの背中を優しくなでていた。

 その様子は相変らず達観して見えて、やはり克真は違和感を覚えずにはいられなかった。


(いくらもう死んでるからって、普通はこんな理不尽な死に片したら、もう少し、怒ったり、泣いたりするもんじゃないか? なのにどうしてこいつは、こんなに落ち着いているんだろう……)


 彼女が自分の前に姿を現したのは、それが関係しているのだろうか。



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