プロローグ
都心から電車でわずか10分。駅から歩いて約5分。
駅前の遊歩道を抜け、一本路地に入り、小径を曲がると、緑に囲まれた白い壁に青い窓枠の洋館風の住宅が現れる。
築30年の二世帯住宅だったこの家は、5年前、旅行会社「榊原旅行企画」のオフィスとして生まれ変わった。
旅のプロとして、日本各地を巡り、数多の町並みや建築に触れてきた社長・榊原一樹の感性とアイデアに、友人の建築士が応え、渾身のリノベーションが施された。
外観はレトロな趣を残しつつ、自然素材をふんだんに使い、周囲の景観に溶け込んでいる。その佇まいに、地元の子どもたちは「アリエッタの家」と呼ぶという。
1階がオフィス、2階がオープンスペース、ロフトは榊原のプライベートスペース。
2階はリビングダイニングだが、料理好きな榊原が、時折、社員との食事会や顧客を招いたレセプションを開く、会社の内と外をつなぐ開かれた空間となっている。一角にはホームシアターも完備され、旅の資料映像を観ながら、次の企画のイメージを膨らませることもできる。
1階の玄関を入って右手がオフィススペース。従来のオフィスのような、各自の固定席はなく、中央に年輪も節もそのままに生かされた無垢の一枚板の丸テーブルが鎮座する。まるで呼吸をしているかのようなそのテーブルは、見る者に安らぎをもたらし、榊原旅行企画を支える巨木の“根”のような存在感を放っている。
東側の窓際にはカウンター席があり、外の緑を眺め、小鳥のさえずりを聞きながら資料作成やアイデアを練ることができる。
玄関を入って左手には、資料室、打ち合わせスペース、オンライン会議用のブースが備えられている。
玄関の正面は応接スペース。常連客がふらりと立ち寄り、旅の相談をする姿も日常の一部だ。
季節は9月初旬。秋の気配はまだ薄く、午後の日差しが差し込む。
この日、中央の丸テーブルには全社員が集まっていた。恒例のアイデア会議が、まもなく始まる。
会議といっても堅苦しいものではない。社長のひと声から始まる、準備も資料も不要のオープンダイアログ。むしろ事前準備は禁止されている。
決められているのは、たった三つのルールだけ。
一、他人の意見を否定しない
二、話を遮らない
三、最後まで聞く
「さて、今日のお題は――伊勢だ」
コーヒーを一口含んだ榊原が立ち上がり、テーブルを囲む面々をゆっくりと見渡す。
「遷宮まで、あと8年。地元ではもう準備の行事が始まっている。これから徐々に関心も高まり、さらに多くの人が伊勢を訪れるだろう。
だが俺たちは、観光地としてではなく、“祈りの場”としての伊勢に焦点を当てたい。魂に触れるような旅を、俺たちらしい形で届けたいんだ」
その言葉に、全員の表情が引き締まる。
「式年遷宮って、いつ頃から始まったんですか?」
新人の西口沙羅が口を開く。
「約1,300年前だよ」
即座に答えたのはベテランの田村雄一。
「1,300年前……奈良時代ですね」
「奈良時代といえば、美月ちゃんの専門分野よね? 大学で専攻していたんでしょう?」
専務の張本薫子が、入社5年目の伊藤美月に、微笑みながら声をかけた。
「はい。平城京と万葉集が卒論のテーマでした」
「平城京と伊勢神宮って、何か関係がある?」
「もともとは宮中で祀っていた天照大神を、よりふさわしい場所でお祀りしようということで、伊勢に遷座することになったんだ。確か、そうだったよね」
田村が沙羅の問いに補足して、美月に問いかける。
皆の視線が、美月に集まる。
「奈良時代の伊勢について、旅にできる何かあるか?」
榊原が促す。
「私の調べた範囲では、当時の伊勢神宮は、今のように誰でも訪れることができる場所ではなかったようです。参拝できるのは天皇のみで、生涯に一度あるかどうか」
「交通の問題もありますが、それ以上に“一切の穢れを持ち込まないように、日常から隔離された聖地”という感覚があったようです」
社員たちは耳を傾ける。
「参拝する代わりに設けられたのが、斎王の制度です。未婚の皇女が天皇の代わりとして伊勢に派遣され、神に仕える。そのための斎王の住まいが、斎宮と呼ばれました」
しばしの沈黙ののち美月は、意を決したように言葉を続けた。
「社長、今回のツアー、斎宮をテーマにしてはどうでしょう?
都を離れ、家族とも別れ、神に仕えた女性たち。彼女たちにとって“祈り”は、日常そのものでした」
思いの丈を吐き出すように、言葉を紡ぐ。
「斎宮と聞くと、厳格で禁欲的な印象を持たれがちですが、実際には、和歌を詠み、文化を育んだ場でもあったんです。出土品の数々からは、豊かで生き生きとした日常が感じられます」
社員たちは静かに、美月の言葉の続きを待つ。
「神に仕え、国のために祈るという使命に誇りをもち、日々を前向きに生きた女性たち。そんな彼女たちの息吹を感じるような旅を、形にできたら……」
榊原は一瞬、目を伏せた。
短い沈黙ののち、再び顔を上げる。
「……いいね。面白い。今までにない視点だ」
そのひと言に、会議室の空気が変わった。
「斎宮、しかも奈良時代――きっとまだ誰も辿ったことのない旅になる」
「“祈り”を儀式としてではなく、“営み”として見つめ直す……
俺たちらしい、魂の源流に触れるような旅になるはずだ。今の時代にこそ、必要かもしれないな」
微かに笑みを浮かべ、すぐに引き締まった声で続ける。
やがて彼は、視線を美月から専務の薫子に向ける。
「薫子さん。明日の伊勢出張に、美月を同行させてくれ」
不意にそう言ってから、美月に向き直った。
「来月、俺が案内する予定の海外ゲスト向け伊勢ツアーがあるだろう。明日その下見に専務が行く。同行して、現地の空気を感じてきてほしい。必要があれば一泊しても構わない。急だけど行けるか?」
「はい。行きます。専務、よろしくお願いします」
美月は静かに、榊原と薫子に頭を下げる。
榊原は静かにうなずいた。
「美月らしい、いいものを頼むよ」
その夜。出張の準備を終えた美月は、押し入れの奥に手を伸ばしていた。
大学の卒業論文の資料の中に、斎宮に関する文献があったはずだ。
資料の束を探っていると、一冊の手帖が目に入った。祖母の結子が大学入学祝いに贈ってくれた短歌手帖だった。歌人でもあった祖母は、美月が国文学科に合格したことを、ことのほか喜んでくれていた。和綴じの手帖で、表紙は深い紺色の背景に、銀色の満月と、天の川のような金色の流水模様が、銀河のような美しい手帖だ。
“美月へ”――そう添えられた控えめな筆跡。
ページを開くと、1ページに1首ずつ、美月の誕生や成長を喜び、祝う歌が、達筆な筆でしたためられている。
美し月みどり子の頬光浴び明日への希望響け世界へ
(孫・美月の誕生に寄せて)
星月夜抱き上げた子の手を伸ばす常世の神秘に触れる指先
(美月3歳の誕生日)
一条の月の導く旅立ちの幸う明日祈りとともに
(美月の成人に寄せて)
どの歌にも、祖母のあたたかな眼差しと祈りが宿っていた。
だが、改めて読んでみると、明らかに美月に関係のない、あるいは意味が判読できない歌も、何首か含まれていた。
美し月をことほぐ旅人にあい見てのいつきの森のせかるる滝川
「“美し月”は私のことだと思うけれど、“ことほぐ旅人”“いつきの森”って……?」
魂のまどいを綾なすこの調べ数にもあらずただなるかたち
「私の魂が惑うの……?」
まるで、別の時間や世界から響いてきたような、不思議な短歌たち。意味はわからない。けれど、どこか懐かしい響きに思えた。
まるで、自分が知っていたことを思い出せないまま、その余韻だけが胸の奥に漂っているような、この感覚は何……。
翌日の出張に備え、振り切るように手帖を閉じ、気持ちを切り替えた。
(……お守り代わりに、持っていこう)
ノートをそっと旅行鞄にしまい込んだ。明日は伊勢だ。
カーテンの隙間から射し込む月の光が、美月の眠るベッドの上を静かに移動する。
この旅が、祖母が紡いだ祈りの系譜へとつながっていくことを、まだ誰も知らない。