第1章 美月、薫子とともに伊勢へ
早朝の東京駅。
美月が指定された座席に到着すると、すでに専務の薫子はPCを開いて静かに作業をしていた。
「おはようございます」
声をかけると、薫子は軽く微笑み、今日の資料のリンクをタブレットに送ってくれた。
丁寧にまとめられた、今日の予定の資料に目を通しながら、美月は心の中で「しっかり頭に入れなければ」と気を引き締める。
今回の出張は、榊原社長の計らいで、美月は初めてグリーン車に乗った。車内は静かで、眠っている人も多い。
二人は声をひそめ、淡々と作業をこなした。
名古屋駅で近鉄特急に乗り換える。
車内はやや空いていて、ようやく周囲に気兼ねなく会話ができる。
「前に参加した伊勢ツアーのこと、覚えている?」と薫子がふと問いかけた。
「はい。ちょうどコロナ禍が開けた最初のツアーで、田村先輩のサブで添乗させていただきました。
江戸時代のお伊勢参りを辿るルートでした。熱田神宮に参拝して、宮きしめんをいただいて、桑名へチャーター船で渡って……そのあと松阪牛のしゃぶしゃぶで……」
薫子は思わず噴き出した。
「美月ちゃん、相当な食いしん坊さんね」
顔を赤らめた美月に、微笑んだまま薫子は続けた。
「それでいいのよ。旅先の感動って、その土地の食べ物にこそ宿るから。
うちでは、添乗員もお客様と同じ食事をいただく。感動を共に味わうために。
普通の旅行会社では、添乗員は裏で賄いを食べるのが通例だからね。
これも榊原社長のこだわりなの」
その言葉に、美月は大きくうなずいた。
「専務は、なぜこの会社に入られたのですか?」
少し沈黙があってから、薫子は静かに語った。
「前の職場では、それなりに評価されていたわ。
でも、数字ばかりを追い、妥協と忖度の毎日に疲れてしまった。
そんな時、社長に出会ってね。旅を“心の営み”として捉えている人だった。
利益だけじゃない、魂に触れる旅――そういうものを創りたいと思ったの。
採算度外視の社長の決断に、ハラハラすることもしょっちゅうだけどね」
「それにしても、社長の顔、広すぎませんか?今度のツアーも、ハリウッド映画の関係者って」
「俳優さんとか監督さんじゃないから、顔を見ても誰だか分からない方々よ。
でも実際に会ったら、オーラがすごいから。
これ、社長が公言しているから知っていると思うけれど、彼バツイチでしょ。その別れた奥様が、今ハリウッドで手広くビジネスをされているそうなの。別れても、ビジネスでは協力することができる。素敵な関係性よね。私は、別れた夫の顔も見たくないけれどね」
リラックスして、いつになく饒舌な薫子に、たじたじとなる美月であった。
伊勢に到着後、二人は挨拶回りへ向かう。最初に訪れたのは、ツアーの配車をお願いしているタクシー会社の伊勢さんぐうタクシー。
受付で、薫子が社名を告げると、奥から室田社長自らが対応に出てくる。そしてVIPツアーの担当ドライバー・伊月森氏と顔合わせをする。その人柄は誠実そのもので、説明に丁寧に耳を傾けてくれた。
「そういえば、伊月森さんの娘さん、斎宮資料館のガイドをしてるんじゃなかったかい?」
「そうです。明日、斎宮にいらっしゃるなら、連絡しておきましょうか。娘もきっと、喜んで協力させていただくと思いますよ」
「ぜひ、お願いします!」
思わず食い気味に答えた美月に、薫子が微笑む。
「タイミングが合っているときは、ご縁がこうして自然に繋がっていくのよね」
その後も、ツアーに関わる各所へあいさつ回りを続ける。外宮、昼食会場、内宮。
そして、VIP向けに選び抜かれた伊勢の魅力の詰まった訪問先――伊勢真珠の工房、伊勢木綿の織元、クラフトビールのブルワリー、地元の酒蔵などを訪問する。
各地で榊原と薫子への信頼を感じる歓迎を受け、美月はあらためて、榊原旅行企画が特別な会社であり、自分がその一員であることの有難さを実感していた。
夕刻、伊勢駅に戻り、薫子の列車の時間まで駅前のカフェで小休止をとることになった。
薫子が微笑みながら声をかける。
「お疲れ様。初めてのことばかりで、少し疲れたでしょう?」
「いえ、とても勉強になりました。ありがとうございました」
「あなたの本番は明日よ。斎宮で、よく見て、よく聞いて、よく感じて。あなたらしい企画を創ってね。がんばらなくていいの。そのままで、素直に感じればいい」
「……はい、分かりました」
「明日は、堀川さんも合流予定だから」
「堀川さんって、どういう方なんですか?歴史や古文書、古典に詳しい方だとは知っていますが、歴史ツアーを企画したことがないので、直接お話をさせていただく機会もあまりなくて」
「彼の本職は大学の講師で、専門は古代の和歌と呪、言霊とか祈りとか、そういうの。社長がまだ会社員だったころ、何かの学会で堀川さんの講演を聞いて、将来、自分が会社を立ち上げたら、ぜひツアーの監修をお願いしたいって口説き落としたって言っていたわ」
「社長の人脈を使って、カルチャーセンターの講師の仕事とか、雑誌への掲載のための出版社との橋渡しとか、堀川さんに色々便宜を図って、うちの仕事に専念してもらえるようにしているらしいの。
だから、堀川さんも社長には恩義があるって言って、こういう直前の無理な出張依頼にも応えてくれるのよ。
口数は少ないけれど、本当に古代史のことは詳しいし、人に届けるための言葉を、大切にしている人よ。
とても頼りになるから、なんでも質問して、相談するといいわよ。
彼と対話して、しっかりと言語化していくと、伝えたいことが、伝わる形になっていくから」
「それと、早朝の神宮参拝、すがすがしくておすすめよ。今日は、確認事項に気を取られて、しっかり感じることができなかったと思うから。たしか5時には開門しているはずよ」
「ありがとうございます。早起きして、行ってみます」
東京に戻る薫子と別れ、美月は翌日に備えるべく、ホテルへと向かった。
その夜、美月は、母親に宇治橋と内宮の鳥居の画像を送った。母親は父親とともに、早期退職をして、海外でボランティア活動を行っている。確か、今はベトナムにいるはずだ。
いつもは既読スルーのその母親から、珍しく返信が来た。
「懐かしい、伊勢ね。結子さんが、お好きでよく行っていらしたのよ」
母は、姑のことを結子さんと名前で呼んでいた。
「そうなんだ。知らなかった」
「そういえば、一度、『美月も連れて行ってやってください』ってお願いしたら、『美月はそのうち呼ばれて、行くようになるから』って、とっても意味深なことをおっしゃっていたのよ」
伊勢に呼ばれることを、祖母が予言していたのだろうか?
それは、美月の知らない祖母の顔だった。
祖母の言葉の真意を探るように、お守り代わりに持ってきた祖母の短歌手帖を、そっと撫でた。
祖母の優しい笑顔と共に、子どもの頃、祖父母の家で過ごした夏休みを思い出す。
歌人だった祖母からは、万葉集の手ほどきを受け、農学博士だった祖父からは、植物について学んだ。祖父も祖母も、美月を子ども扱いせず、対等な人間として、様々な知識を授けてくれたのだった。
その夜、祖父母との懐かしい思い出に包まれて、美月は眠りに落ちた。




