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第1話 平凡な生活

 煉獄の森プルガトリオ・ボスキにある透き通った湖の上に、真っ黒な服を着た美しい少女が立っていた・・・・・


 森は穏やかで、辺りは風一つなく、湖はまるで鏡のように空の色を反射している。

 とは言え、湖とは一言で行ってしまえば、巨大な水たまりに過ぎない。

 その表面に立つことなど、質量を持った生き物であれば、およそ不可能な所業であることは火を見るより明らかだった。


 それなのに、その小さくも美しい少女は、目を瞑り、何かに集中しているかのような表情で、湖の境界に立ち続けている。


 静かな光景、何も変化がなく、このまま一幅の絵画に残せばそれは永遠を象徴する特別なものになるだろうと思われた。


 ――しかし、そんな静寂を破壊しようとする者が一匹。


 先ほどまでさざ波一つ立たなかった湖面を、滑るように移動する物体が現れた。


 もしこの場にその様子を観察する者がいたとして、良く目を凝らして見れば、それが巨大な魚の背びれであることが、理解できただろう。


 そして、その者が仮に帝国に所属する冒険者組合ギルドの冒険者であるのなら、その生き物がなんと呼ばれているかもたちまち理解したかもしれない。


 鬼魚オーガ・シリュールと呼ばれる、頭部から生える巨大な二本角と、およそ魚とは考えられないほど強靭で鋭い牙が特徴の、5メートル近い巨大魚であり、水辺で戦うには分の悪すぎる魔物として有名な魔物であると。


 湖面に立つ少女は、そのことを知ってか知らずか、目を瞑ったまま、静かに佇んだままだ。

 空気の読める人間なら、彼女の瞑想の邪魔をしようなどとは、誰一人として考えないことだろう。


 けれど、魔物にとって、そんなことはどうでもいいことだった。


 鬼魚オーガ・シリュールは、少女の集中を遮ることに躊躇など全く感じておらず、その水上に現れた背びれを徐々に少女のもとへと近づけていく。


 ざざざ、と水をかき分けていく音が、他に何の物音もしない森の中に不穏な音を響かせた。


 そして、とうとう、その魚は辿り着く。


 彼女の、正面へ、獲物へと食いつける距離へ。


 それを本能的に悟ったその魔物は、その身を一旦湖の奥底へと潜らせる。


 きっと水の底まで身を沈めたのだろう。


 巨大な魚の影が、一瞬、湖から消えた。


 そのまま何処かへ行ってくれれば、そう思いたくなる辺りの静けさ。


 けれど瞬間、耳に響いてくるのは水底から確かに巨大な質量が近づいてきていることを示す怪音だった。


 地響きに似たその音は、どどどどど、とまるで水底に太鼓でもあるかのように低く響いて不安をあおってくる。


 そしてその音がとうとう水面近くまでやってきたとき、巨大な魚の影は、水の底ではなく、空気ある場所へとその巨体を躍らせたのだ。


 鬼魚オーガ・シリュールは、狩りをするとき、水底から飛び上がり、大口を開けて獲物を飲み込み、水底へと引きずり込む。

 その巨大な口は人ひとりくらいなら丸呑みに出来るほどの大きさを持っていて、実際、少女に飛びかかった魚の口は少女程度の大きさの生き物なら、何体のみ込んでも余裕がありそうに見えた。


 魚の口が徐々に近づく。少女を飲み込むべく、咀嚼するべく、近づいていく。


 あぁ、少女はこれで、その儚げな命を散らしてしまうのか。


 そう思われたそのとき、少女の閉じられた目が、ぱちりと開き、目の前の巨大な魚を瞬間的に見据えた。


 そこに宿っているのは、蒼き冷徹。


 けれど、魚を目視した瞬間、それは朱い殺意へと変わり、巨大な魔物をも気圧する巨大な圧力となって魔物を貫いた。


 魔物はその瞬間、自分が決して手を出してはならない危険な生き物へと飛びかかってしまったことを悟るも、時はもう元には戻らない。


 魔物が飛びかかるよりも早く、少女は突然生じた不思議な闇の中から巨大な剣を取り出すと、一瞬でそれを構えて、魔物の距離が近づくのを待った。


 ――交錯は、一瞬で終わる。


 魔物が、少女の背後へとその身を運び終わった時、既にその首は落とされていたのだ。


 ぷかり、と湖に浮いたその魚の巨体を、少女の体から何の脈絡もなく吹き上がった闇が包み込んでいく。


 数秒の時が過ぎたそのとき、湖の上には何も存在しなくなっていた。


 少女の姿は勿論、あの巨大な魔物の死骸すらも。


 ◇◆◇◆◇


「……帰ってきたの」


 がちゃり、と扉が開く音と共に、ついこの間から我が家、煉獄の森プルガトリオ・ボスキの小屋に一緒に住むことになった萌の声が聞こえた。

 彼女と住むにあたり、共同生活を送る上での約束事もいくつか作ったので、今、帰宅したのはそのうちの一つを彼女が達成したという事だろう。


 私は彼女を出迎えて、その成果について尋ねることにする。


「お帰り、萌。今日の晩御飯の材料は?」


「今日はお魚なの。でも、ちょっととりすぎたの……」


 共同生活の掟その一。

 森にいるときは、食材は分担して確保すること。

 もちろん、この森にどんな生き物がいて、どんな植物があって、どんな部分が食べれて、どういう料理をすればいいのか、という事について萌はあまりにも無知だったので、私がその点についてはたまに一緒に森を歩いて教え込んでいる。

 だから、以前の彼女のように、食うに困ってどうしようもなくなる、みたいなことはありえない。

 まぁ、そもそも、彼女が食うに困っていたのは血液の確保が出来なかったからで、それが出来るのなら食材の確保くらいは魔族・吸血鬼ヴァンパイアであるところの彼女にとってはそれほど難しいことではないだろう。

 人間を食料として確保するのは、警備している人間や、魔族を追いかける人間がいるから魔物や動物をとっつかまえるよりある意味で何倍も難しいのである。


 料理についても、彼女はほとんど何も知らなかった。

 ある日、どうやって魚や動物を食べるか聞いてみたところ、生でばりばり食べようとし始めようとしたものだからあわてて止めた。

 まぁ、刺身とか、ユッケとか、そういうものはあるかもしれないが、およそ文明的に生きる人間にとって、生とは言えそれすらもまたある程度の加工がなされているものであるのは間違いない。


 切り身にしたり形を整えたりせずに、そのままばくり、とはいくらなんでもないだろう。

 私はそのことを訥々と説明し、萌に納得してもらった。

 ただ説明しただけでは、首を傾げていたので、実際に料理を作り、しっかり加工すればこんなにおいしい、ということを説明したら、物凄い勢いで頷いていたので分かってもらえたのだろうと思う。


 とは言え、料理すら知らないとは、両親がいるときはどうだったのかと思い、遠回しに尋ねてみたのだが、どうやら当時は人の血を飲んでいただけで、およそ通常の食事というものをすることが無かったのだと言う。

 だから、その味も知らず、したがって、食べるのは一応のエネルギー確保のための手段でしかなかったから、生だろうがなんだろうがどうでもいいと考えていたと語った。


 吸血鬼ヴァンパイアは、人の血を飲めば、それだけで十分な活動を維持できる、ある意味でとてもエコな人たちである。

 その理由は、人の身に宿る魔力を摂取して、何倍にも増幅することができ、それを身体の維持に活用できるからで、だからこそ吸血鬼ヴァンパイアは人の血を求めるのだ。

 さらに、一定期間人の血を摂取しなかった吸血鬼ヴァンパイアは身体に不調が出てくるらしく、だからこそ他の食べ物で代用する、ということが難しいのである。


 ただ、エネルギーの補助として、通常の食事を取ることは出来るし、味覚も人とほとんど異ならないらしいことは吸血姫に聞き、また実際に目の前で証明してもらったことがあるので、萌については私の血と普通の食事をしていれば問題ないだろう。


 一つ心配があるとすれば、私の血を飲んでいることによって何か問題が発生しないか、ということだが、まぁ、それはおそらく大丈夫なはずである。

 プラスな方向に働くことはあったとしても、マイナスな方向に働くことはない。

 そういうもののはずだから。


 萌からとりすぎたと言う魚を受け取るべく、家の裏手にある解体場へと一緒に向かう。

 そこで萌が自らの魔力で作った影空間アイテムボックスから取り出したその魚は、鬼魚(オ-ガ・シリュール)と呼ばれる巨大魚だった。

 確かにとりすぎであり、二人で全て消費するのは不可能であるが、まぁ、余った部分はナードラの知り合い連中におすそ分けでもすればいいだろう。

 鬼魚オーガ・シリュールはその生息する場所の故の戦いにくさのため、中々市場に出回らない高級魚である。素材のままでも要らないという料理人は少ないはずだ。


 萌の使用した影空間アイテムボックスは私が教えたもので、私自身も使用できる。

 しかも私のそれは、内部空間の時間経過がゼロになっているため、萌のものより長い期間、というか原理的には永遠にものを保存することが出来るので、さっさと解体してそこに突っ込んでおけば、今度ナードラに行ったときにでも分ければそれで足りるだろう。


 ちなみにであるが、この煉獄の森プルガトリオ・ボスキの小屋と、ナードラの家とは転移魔法陣でもって繋がっており、行こうと思えば一瞬で行けたりする。


 だから、明日か明後日に行って、みんなに鬼魚オーガ・シリュールを分け与えようかと思った。


 そのときのために、萌と一緒に巨大な鮪包丁を持って、魚の解体に勤しむ。


 どこをどう切ったらいいか、そういう説明を萌はよく聞いていて、向上心が感じられてとてもいい。


 最近の私の生活はこんな風に過ぎ去っていて、とても幸せである。


 永遠にこんな時間が続けば。


 そう思えば思うほど、そう言った期待は裏切られると分かっていても、思わずにはいられなかった。

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