第18話 祥と歩く日
大坂から戻ると、俺の小袖が広げられていた。
祥が袖口を持ち上げ、こちらを見た。
「また、引っかけましたね」
天正十一年十月初め。
見せられた袖には、細く裂けたところがあった。兵庫の材の置場で板を運んだ時か、大坂の普請場で木の間を抜けた時か。どちらにも心当たりがある。
「着ている間は、気づかなかったよ」
「そのようですね。縫えば使えますから、これは直しておきます」
祥は小袖を女房へ渡した。
いつから着ていた物だっただろう。身の回りのことを任せていると、破れた衣がいつの間にか直り、寒くなる頃には厚い物が出てくる。それを当たり前のように着ていた。
俺は祥の袖を見た。
薄い色の小袖に、細かな模様が入っている。何度か見たことがある気もするが、初めてかもしれない。
「祥は、どんな色が好きなんだ」
唐突だったらしい。
祥が俺の顔を見て、それから自分の袖へ目を落とした。
「色でございますか。藍の薄いものは好きですけれど」
「明日、町へ見に行かないか。そろそろ寒くなるし、俺の分も作らなければならないだろう」
「反物なら、こちらへ持ってきてもらえますよ」
「一緒に出かけたいんだ」
言ってから、少し気恥ずかしくなった。
祥はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「では、歩ける支度をしておきます」
その返事が思っていたよりうれしくて、俺は翌日の用を早く終わらせたくなった。
◇
朝、常陸へ町へ出ると伝えた。
材の受渡しは昨日のうちに決めてある。弥九郎は船方のところへ行き、越中は工房にいる。急ぎの使者が来た時だけ、行き先へ知らせてもらうことにした。
「九兵衛をつけまする。あとは、いつごろお戻りになりますか」
「昼を過ぎたくらいには」
「承知しました」
それだけだった。
何か忘れている気がして、部屋を出る前に一度振り返ったが、常陸はもう次の者の話を聞いていた。
城門には祥が待っていた。
普段より歩きやすそうな装いで、女房が一人、少し後ろに控えている。九兵衛と供の男たちは先に道を確かめていた。
二人きりで町へ出るわけにはいかない。それでも、軍勢も荷駄も連れず、隣に祥がいるというだけで、いつもの道が違って感じられた。
「どちらから回ろうか」
「港へ下りる前に、寄りたい店がございます。女房たちが、よい布が入ったと話しておりましたので」
祥が迷わず曲がった。
この城下も彼女にとっては知った道なのだそうだ、頼もしいな我が妻は。
店先には、畳んだ布が積まれていた。
店の者は俺たちを見ると、慌てて奥へ声をかけた。亭主が出てきて頭を下げ、こちらへと座を空ける。
「今日は妻の買い物です。急いで片づけなくていい」
端へ寄りかけた客が、持っていた布を膝へ戻した。
祥はその隣へ座り、店の女が広げる布へ手を伸ばした。
薄い藍。赤みを帯びた茶色。遠目には同じに見えた物も、並べると少しずつ違っている。祥は指で厚みを確かめ、窓から入る光へ向けて見比べていた。
「こちらなど、いかがでございましょう」
店の女が、鮮やかな色の反物を広げる。
俺はそれがよさそうに思った。手触りもよいし、祥によく似合う気がする。
だが、祥が戻ったのは、初めに触っていた薄い藍の方だった。
「普段に着たいので、こちらを」
「そちらだけでいいのか」
口を挟むと、祥がこちらを見た。
「これが気に入ったのです」
俺は鮮やかな反物から手を離した。
高い物を買えば喜ぶだろう、では、相手を見ていることにはならない。分かっていたつもりだったが、いざ妻の物を選ぶとなると、何を目安にしてよいのか分からなくなる。
「なら、それにしよう。仕立て上がったところを見たい」
祥は布を膝へ載せ、口元を緩めた。
「お前様の方も、選ばなければ」
今度は俺が、何枚もの布を肩へ当てられた。
店の女と祥が、こちらが明るい、こちらでは顔色が沈む、と話している。俺は頭を動かさないよう言われ、じっと座っていた。
「もう少し、腕を」
言われるまま上げる。
外で九兵衛が、こちらを見ないようにしていた。
◇
買った布は供の者に預け、店を出た。
町には、買い物や用足しに行き交う者がいた。魚を入れた籠を抱える女、木屑のついた衣のまま道端で話し込む男、店の奥で子を叱る声。
知らない顔ばかりだが、皆どこかに勤め先や家があって、朝から働いていたのだろう。
通りの向こうを、俺の材の置場で見かけた男が歩いていた。小さな子供に袖を引かれ、立ち止まっている。
声はかけなかった。
店の並ぶ道を抜けかけたところで、祥が足を緩めた。
櫛を並べた小さな店だった。
木目の見える物と、艶のある塗りの物。店の女は、歯の細かさが違う二つを取り、祥へ見せている。
俺も横から覗いた。
「朝、使っているのは、こういう物か」
「ええ。ただ、いつもの櫛は、歯が一本欠けてしまって」
祥は明るい木地の物を選び、指でそっと歯を撫でた。
飾りの多い物ではなかった。
「それは俺から贈らせてくれ」
「先ほどの布も、買っていただきましたよ」
「そちらは冬の支度だ。これは、俺が贈りたい」
祥が櫛を持ったまま、俺を見る。
「よろしいのですか。 では、頂きます。」
包んでもらった櫛は、供へ渡さなかった。
祥が自分の懐へ入れた。それを見て、俺も疲れが吹き飛んだ気がした。
◇
港の人混みを避け、少し離れた海の見えるところで休んだ。
女房が包みを開いた。小さく切った餅が並んでいた。
「小西殿から頂いた砂糖を、少し使わせました」
祥が餅をこちらへ寄せた。
「まだ残っていたのか」
「取っておいたのです。大坂から戻られたら、お出ししようと思って」
礼を言って口へ入れた。
噛むと柔らかく、甘かった。
思わず、もう一つへ手が伸びる。
祥はそれを見て笑い、九兵衛たちにも分けるよう女房へ言った。
九兵衛は少し離れた場所からこちらを見ながら、受け取った餅を口へ入れていた。すぐには噛まず、しばらく味わっている。
海には、帆がいくつも見えた。
風を受けて沖へ進む船を見ていると、自分たちが借りた一艘はどこにいるだろうと考える。今日は堺で荷を受け取っているはずだ。
だが、弥九郎に任せてある。
俺はもう一度、餅の包みへ手を伸ばした。
「祥も食べたか」
「食べております。お気になさらず」
「なら、これはもらうぞ」
最後の一つを取ると、祥が海へ顔を向けた。
「父上も、甘い物があると、すぐになくしてしまいます」
「義父殿が?」
「食べてしまったのかと尋ねると、まず兄上の名を出されます」
恒興の顔が浮かんだ。
娘の部屋へ荷が積まれていると知った時には、あれほど怖い顔をしていた男が、菓子のことで息子へ罪を着せるとはなんともいえない一面だ。
「義兄上は、何も仰らないのか」
「御自分も食べておりますから。二人とも黙っている時は、大抵、もう残っていません」
今の俺も、あまり違わない。
空になった包みを見ていると、祥が懐から文を出した。
「昨日、父上から届きました。お前様が大坂で何をしていたか、ご存じでしたよ」
「もう伝わっているのか」
「三好は、今度は木を売るのか、と」
どこまで広まるのが早い家なのだろう。
祥は文を少し開いて続きを確かめた。
「私が寒い思いをしていないか、飯は食べているか。あとは、困ったことがあれば書いて寄越せと」
「何と返すつもりだ」
「今日、布を買っていただいたことを書きます。それから、櫛も」
「甘味のことも頼む。俺が全部食ったようには書かないでくれ」
祥は笑ったが、文をしまったあとも、少し海を見ていた。
「義父殿に会いたいか」
尋ねると、素直に頷いた。
「ええ。声を聞きたい時はございます。文では、こちらが笑っていても伝わりませんもの」
困っているとは、一度も言われていない。
商人が来れば膳を増やし、工房へ行けば使う者の話を聞く。俺は助かると思っていたし、祥も嫌な顔をしなかった。
それで、この暮らしに何の寂しさもないと、勝手に思っていた。
嫁いでから、まだ半年も経っていない。俺には会いに行ける叔父たちがいて、昔からそばにいる爺も常陸もいる。祥は俺の家へ来て、俺の都合で動く毎日を始めたのだ。
「では会えるように、義父殿へ文を書く。落ち着いたら美濃へ行かせていただくと。兄上にも会いたい」
「無理なさらなくてもよいのですよ」
「いや、これで良いのだ。いつか、そのうち、ではまた冬になる」
祥がこちらを向いた。
「お前様も、ご一緒に?」
「もちろんだ。義父殿の弱点を知ったからな」
祥の顔がほころんだ。
その顔を見ながら、恒興と元助にも見せたいと思った。
俺と一緒になってくれたあなたの娘は、ちゃんと笑って暮らしている。そう知っていてほしかった。
◇
城へ戻る道で、祥が俺の袖へ触れた。
「少し、ゆっくり歩いてくださいませ」
「足が痛むのか」
「いいえ。まだ、常陸殿との約束の時間までは早いので」
俺は歩みを緩めた。
帰ったら片づける用を、もう頭の中で並べ始めていた。何時までに戻るかを考えずに歩くことが、ずいぶん久しぶりだった。
並んで歩くと、祥の足に合わせるくらいでちょうどよかった。
「楽しかったな」
俺が言うと、祥は頷いた。
「また、出かけよう。今度は、今日とは違う道を」
「行きたいところがあるのですか」
「今日歩いていたら、もう少し先も見たくなったのだ」
港から城までの道には、荷を運ぶ者のほかにも、こんなに大勢の人がいた。祥はどこで足を止め、何を手に取り、何を見て笑うのか。それだけで、半日が短かった。
城門をくぐると、常陸が廊下の先からこちらを見た。
俺は手を上げて応じた。常陸は一礼し、持っていた書付を小脇へ挟んだまま、別の部屋へ入っていく。
まだ、少し時間があるらしい。
祥の部屋まで一緒に行った。
彼女は座ると、懐から今日の櫛を取り出した。包みを開き、もう一度手の中で眺めている。
祥が櫛を文箱のそばへ置き、筆を取った。
「父上へ、お返事を書きます」
俺は少し離れて座った。何を書くかまで覗くつもりはない。
墨を含ませた筆が紙へ触れる。
途中で祥が、何かを思い出したように小さく笑った。
俺は、聞かずにおいた。




