国宝溺愛マニュアル
ルナ帝国の朝は、私の「美学」が試される時間から始まる。
私が目覚めるよりも早く、寝室には帝国の至宝とも呼ばれる最高級の絹織物が運び込まれ、専属の侍女たちが十数人も控えている。彼女たちは私に触れる際、まるで「国宝の修復」でも行うかのように恭しく、震える手で身支度を整えてくれるのだ。
「……あの、皆様。私はただの人間ですので、そんなにピンセットで睫毛の角度を調整しなくてもよろしくてよ?」
「滅相もございません、アウレリア様! 陛下より『アウレリア様の服の産毛一本に至るまで、世界の秩序に基づいた配置を維持せよ』との厳命を賜っております!」
世界の秩序。もはや何を言っているのか分からない。
ハドリアヌス陛下の溺愛は、日が経つにつれて「過保護」という枠組みを軽々と飛び越え、一種の「狂気的なキュレーション」へと進化していた。
身支度を終えた私が向かったのは、宮殿の中央に位置する「空中庭園」だった。
そこには朝の執務を終えたハドリアヌス陛下が待っていた。彼は私の姿を認めると、彫刻のような端正な顔をこれ以上ないほどに綻ばせ、私の手を取って自分の椅子……ではなく、その隣に設置された「特等席」へと導いた。
「おはよう、アウレリア。今朝の君は、夜明けの光を閉じ込めたオパールのようだ。……ふむ、左足のアンクレットの角度が三度ほどずれているな。侍女たちには後で罰則が必要だ」
「陛下、朝から物騒な冗談はおやめください。……それで、この椅子は何かしら? 以前よりさらに、座り心地が『人間をダメにする』方向に特化している気がしますけれど」
「気づいたか。それは古代の魔導文明で使われていた『浮遊する安息の玉座』をベースに、君の魔力に合わせて最適化させたものだ。君が座るだけで、君の体温、心拍数、さらには魔力の放射効率を完璧な状態に保つよう設計されている。……いわば、君専用の『彫刻ケース』だね」
「彫刻ケース……。陛下、私はいつから美品になったのかしら?」
「彫刻などという静止した美ではない。君は『呼吸する芸術』だ」
陛下は私の横に跪き、当然のように私の指先に唇を寄せた。
その瞳には、私という存在を一時も逃したくないという、どろりとした執着が渦巻いている。この男、帝国の統治に関しては天才的な冷徹さを見せるくせに、私に関しては「理性」をどこかの異次元に置き忘れてきているらしい。
そんな私たちの甘ったるい(あるいは狂った)時間を遮るように、一人の初老の男性が足音を荒立てて近づいてきた。
帝国宰相、セプティムス卿だ。
彼はルナ帝国の理性を司る男として知られ、ハドリアヌス陛下の暴走を唯一止められる人物……と言われているらしい。
「陛下! またそのような……! アウレリア様を『国宝』として扱うのは重々承知しておりますが、予算の三割を『アウレリア様専用のなにか』に充てるのは、いくら何でも国家の私物化が過ぎます!」
「セプティムスか。分からんか。これは哲学のような深遠への探求なのだ。アウレリアが歩く床が硬ければ、彼女の美しい踵に微細な傷がつく。それを防ぐための魔法銀コーティングは、国防予算と同じくらい重要だ」
「なにを仰っているのかまったく分りません。……アウレリア様からも、何か仰ってあげてください!」
セプティムス卿が私に助けを求めてきた。
私はシャーベットを一口飲み込み、優雅に微笑んだ。
「セプティムス卿。陛下の仰ることも一理ありますわよ。……現に、私がこの庭園を歩いたことで、そこの枯れかけていた『千年樹』が、今朝から新芽を吹き出し、伝説の果実を実らせ始めたようですわ。……あの果実一つで、帝国の魔導師百人分の魔力回復薬が作れるはず。予算の三割程度、すぐに元が取れるのではなくて?」
「な……っ!? あれは、五百年前に絶滅したはずの『ルナ・リア』の果実……!?」
セプティムス卿が目を見開いて庭園の奥を見る。
そこには、私の「無意識の加護」を浴びて、狂ったように瑞々しく輝く黄金の果実が鈴なりになっていた。
「……アウレリア様。貴女様は、もしや歩く資源埋蔵地なのですか?」
「失礼ね。私はただの、ちょっとだけ『鮮度』にうるさい女ですわ」
私がクスクスと笑うと、ハドリアヌス陛下が私の腰を強く引き寄せ、セプティムス卿を鋭く睨みつけた。
「分かったか、セプティムス。彼女がそこにいるだけで、この国は、文字通り繁栄し、最適化される。彼女を甘やかすことは、帝国への投資なのだ。……さて、早朝会議は終わりだ。私は今からアウレリアに、新しく開発させた『思考を最適化するティアラ』を試着させねばならん」
「陛下……それは流石に、ただの洗脳道具では……」
「愛の囁きがより鮮明に聞こえるようになるだけだ。問題ない」
セプティムス卿は深いため息をつき、頭を押さえながら去っていった。
苦労人ですわね、あの宰相も。
昼下がり。
平和(?)なルナ帝国に、招かれざる客が再び訪れた。
……といっても、今回は国境の檻から引きずり出されたわけではない。
ソリス王国から亡命してきた「元貴族」の一団が、正装(とはいえ、加護を失ってボロボロになった服を必死に繕ったもの)をして、謁見を求めてきたのだ。
彼らの中には、かつて私を「魔力の無駄遣い」と罵っていた侯爵夫人、リヴィアの姿もあった。
「……アウレリア様! ああ、お会いできて光栄ですわ!」
リヴィア夫人は、わざとらしいほどに深く頭を下げた。
だが、その顔には私の最適化魔法が解けたことによる「加齢」の波が容赦なく押し寄せており、首元には贅沢のしすぎで溜まった老廃物が、醜い皺となって刻まれている。
「リヴィア夫人。……随分と、お顔の『鮮度』が落ちましたわね。市場に並んでいたら、二束三文でも買い手がつきそうにありませんわ」
私の言葉にリヴィア夫人の顔が引きつる。
「お、おほほ……相変わらずお厳しい。……実は、私たちは貴女様にお願いに参ったのです。……見てください、ソリス王国はもう地獄ですわ。食べ物はすべて苦くなり、絹は肌を刺すトゲに変わり、あろうことか王子殿下は……あの輝かしい髪をすべて失われました。……どうか、一度だけでいいのです。我が国の領土にそのお手をかざしてはいただけませんか?」
「お断りしますわ。……私はもう、あの国の『防腐剤』ではありませんもの」
「そんなことを仰らずに! ……実は、私たちは貴女様の力を研究し、ある結論に達したのです。貴女様の魔法は、周囲の人間を『若返らせる』効果もあるのでしょう? ……ならば、私たちにその魔法をかけてくだされば、私たちはルナ帝国で貴女様の『忠実な僕』として働くと誓いますわ!」
リヴィア夫人の瞳の奥に、卑しい欲望が見えた。
彼女たちは、私の力を自分たちの「美容」と「延命」のために利用しようとしているだけだ。
かつて私を蔑んでいたくせに、自分たちが腐り始めると、恥も外聞もなく縋り付いてくる。
私はハドリアヌス陛下の顔を見た。
陛下は信じられないほど冷ややかな笑みを浮かべていた。
「アウレリア。この醜い肉の塊どもに、君の清浄な魔力を一滴でも分けてやる必要はない。……だが、彼らが『若返り』を望んでいるというのなら、叶えてやってもいいのではないか?」
「あら、陛下。貴方がそんな慈悲深いことを仰るなんて」
「フフ……。君の魔法で、彼らの『細胞の活性』を、最もエネルギーに満ちていた時代まで――具体的には『赤ん坊』の頃まで巻き戻してやるのはどうだ?」
陛下の提案に、元貴族たちが色めき立った。
「赤ん坊の頃のような肌に!? まあ、素晴らしい!」
……彼らは気づいていない。
大人の知識と記憶を持ったまま、肉体だけが赤ん坊になれば、それは単なる「無力な肉塊」への退化であることを。
そして私の『最適保存』は……一度固定すれば、そこから「成長」することさえ許さないということを。
「よろしいでしょう。皆様の熱意に免じて、私の魔力を『最適化』して差し上げますわ」
私は立ち上がり、優雅に指を鳴らした。
翡翠色の光が、リヴィア夫人たちを包み込む。
「さあ、戻りなさい。貴方たちが最も『純粋』で、まだ誰の役にも立っていなかった、あの無垢な時代へ――」
――次の瞬間。
謁見の間には、山のように積まれた「豪華なドレスの残骸」と、その中から聞こえてくる「オギャア、オギャア」という、数十人分の凄まじい泣き声が響き渡った。
そこには、シワシワの元貴族たちの姿はなく。
ただ、プライドだけは大人並みに高い、扱いづらいことこの上ない「赤ん坊の集団」が転がっていた。
「……陛下。これ、どうしましょう?」
「セプティムスに命じて、帝国の養育施設に送れ。……ただし、彼らが大人になるまで成長することはない。死ぬまでその『若々しい姿』で、一生を保育園で過ごすことになる。……かつて君を蔑んだ罰としては、妥当なところだろう?」
陛下は、泣き叫ぶ赤ん坊たちをゴミのように見やり、私を抱き上げた。
「さあ、不快なゴミの処理は終わった。……アウレリア、君が消費した魔力を補充しなくては。今夜は、君の全身に『魔力を活性化させる秘薬』を塗り込む儀式をしよう。……もちろん、私の手でね」
「……陛下。その儀式、裸になる必要はありませんわよね?」
「国宝のメンテナンスに、衣服という遮蔽物は不要だ」
皇帝の腕の中で、私は確信した。
ソリス王国を腐らせ、元貴族を赤ん坊に変えた私の復讐は、順調そのものだ。
けれど、この「溺愛」という名の底なし沼から抜け出す方法は……どうやら、私の最適化魔法を以てしても、一生見つかりそうにない。
まあ、それも悪くないかしら。
だって、この男の隣にいる限り、私は一生「鮮度」を失うことなく、愛され続けることができるのだから。




