3週目
臍の奥で歯車が噛み合う鈍い衝撃。それに続く、現実へと引きずり戻されるような浮遊感。
エイジは静かに目を開けた。ベッドの天井には、薄暗い光の中に浮かぶひび割れが、いつものように彼を出迎える。もう、飛び起きるようなことはしない。体を起こし、深く息を吸い込む。肺に冷たい空気が満ちる。三度目ともなれば、この異常な目覚めにも、ある種のリズムのようなものを感じ始めていた。
「……三ループ目か」
彼は呟く。声には、疲労と諦めに似た感情がにじんでいた。二度の死を経験した彼の内側では、恐怖よりもまず、「状況の確認」が最優先されるようになっていた。
窓の外からは、やはりパン屋の主人の声が聞こえてきた。
「おーい、エイジ! 今日も元気がないな!」
一度目は無視し、二度目は断った。今回はどうするか。エイジは少し考えた。もしかすると、この日常の些細なやり取りが、後の大きな流れを変えるのかもしれない。しかし、今の彼の目的は一つだ。あの老婆、そして「刻の輪廻」という言葉の意味を探ること。
「……ああ、ちょっと待っててください」
エイジは窓越しに返事をすると、素早く身支度を整え、宿を出た。パン屋の前には、主人が待ち構えている。
「おや? 今日は素直だな。ほら、いつもの黒パンだ」
「ありがとうございます」
エイジは小銭を渡し、パンを受け取った。そして、ためらいながら口を開いた。
「……ねえ、お願いがあるんです。街の東の商業地区の外れに、古い礼拝堂みたいな建物があるって知りませんか?」
パン屋の主人は眉をひそめた。
「礼拝堂? 商業地区に? んー……あの辺りは商店や倉庫ばかりだぞ。大きな女神様の大聖堂は中心部にあるだろ? 小さな礼拝堂か……思い当たらないな」
エイジの胸に、小さな失望が広がった。やはり、簡単には見つからないか。
「そうですか……ありがとうございます」
「どうした、急にそんなこと聞いて」
「いえ、なんとなく気になって」
エイジは曖昧にごまかし、パン屋を離れた。主人の反応からすると、あの礼拝堂は目立たない場所にあるのか、あるいは普通の人には認識できない何かがあるのかもしれない。二度目のループで感じた「空間の歪み」のような感覚を思い出す。
(とにかく、自分で確かめに行くしかない)
今回は、広場にも商業地区のメインストリートにも近づかない。目的はただ一つ、あの路地と礼拝堂を発見することだ。彼は街の東側へと向かう道を歩き始めたが、一度目や二度目とは違う、細い路地を選んで進むことにした。可能な限り、前回の経路を踏まないようにする。
道中、彼は街の様子をより注意深く観察した。衛兵の数が明らかに多い。そして、その表情は硬く、何かを警戒している。町人たちの会話にも、「西の国境」「魔物の群れ」「騎士団の出動」といった言葉が囁かれている。一度目と二度目は、自分自身の生死に必死で、こうした周囲の情報にほとんど注意を払えなかった。しかし、三度目の今、これらの情報は「魔物襲撃」という事件が単なる偶然の災害ではないことを示唆していた。
(もっと大きな事件の、ほんの序章に過ぎないのかもしれない……)
そう思うと、このループ現象の意味が、さらに重く感じられた。
ようやく商業地区の外れに差し掛かった。前回、魔物に襲われたエリアだ。しかし、時間はまだ午前中。襲撃が起こるのは午後だ。彼には時間があるが、油断はできない。経路が変わる可能性はすでに証明されている。
彼は前回の記憶を手繰り寄せながら、路地裏をくまなく探し始めた。しかし、どこを探しても、あの質素な礼拝堂らしき建物は見当たらない。倉庫や作業場、時折あるのは小さな雑貨屋くらいだ。焦りがじわりと心を蝕んでいく。もし今回見つけられなければ、また死んで四度目を迎えることになる。死の痛みは、慣れつつあるとはいえ、決して耐えやすいものではない。
(落ち着け……あの時、感じたんだ。あの「違和感」を)
エイジは路地の角で立ち止まり、目を閉じた。二度目の死の直前に感じた、微かな「空間の歪み」のような感覚を思い出そうとする。それは視覚的なものではなく、むしろ第六感に近い、肌で感じるような……。
ふと、ある路地の奥で、空気がかすかに濁っているような気がした。蜃気楼のように、景色がゆらめいている。普段なら気にも留めない、ごくわずかな異常だ。
(あれか……?)
期待と不安を胸に、エイジはその路地へと足を踏み入れた。路地は行き止まりのように見えた。しかし、よく見ると、壁に沿ってさらに細い通路が続いている。そこを抜けると、そこには――ぽつんと、古びた小さな建物が建っていた。
そう、間違いない。あの礼拝堂だ。
しかし、なぜか誰もこの建物に近づこうとしない。通りかかる人々の視線は、まるで建物そのものを認識していないかのように、すっと建物を避けて通り過ぎていく。エイジだけが、それを「見て」いる。
(これが……あの感覚の正体か)
彼は緊張して喉を鳴らした。この建物は、普通の人には見えないのか、あるいは意識できない何かがあるのか。自分にだけ見えるのは、この「ループ」能力と関係があるのだろうか。
覚悟を決めて、エイジは礼拝堂の扉に手をかけた。扉はきしみながらも、簡単に開いた。
中は薄暗く、静かだった。窓から差し込む微かな光が、塵の舞う様を浮かび上がらせる。内部は質素で、祭壇らしきものと、いくつかの長椅子が並んでいるだけだ。そして、祭壇の前で、一人の老女が跪いて祈りを捧げていた。灰色のローブをまとったその姿は、二度目のループで見たそれと全く同じだった。
老女はエイジが入ってきたことに気づくと、ゆっくりと振り向いた。その顔は深い皺に覆われているが、目は驚くほど澄んでいて、鋭い洞察力に満ちていた。その視線は、エイジの体、特に臍の辺りをじっと見つめる。
「……来ましたね、“刻を紡ぐ者”よ」
老女の声は低く、しかししっかりと響いた。
エイジは息を詰まらせた。彼女は自分の来ることを、ある程度予期しているようだ。
「あなたは……あの時、『刻の輪廻』という言葉を……」
老女は微かに頷いた。
「ええ。あなたが二度、時の流れに抗って戻ってくるのを感じ取りました。しかし、それは苦痛を伴う、未熟な“輪廻”です」
「時の流れに抗って……? つまり、この、死んだら朝に戻る現象は、あなたの知っていることなんですか?」
エイジの声には、長い間抑えていた疑問と切実さが込もっていた。
老女は静かに立ち上がり、エイジに近づいた。
“刻の輪廻”。これは、稀なる者が、絶体絶命の危機に瀕した時、時に目覚める禁忌の力です。時間を――ごく短い期間ですが――過去へと巻き戻す力。あなたはそれに目覚めたのです」
「なぜ僕が? 僕はただの……どこにでもいる凡人です!」
エイジは思わず声を荒げた。
「“刻の輪廻”が目覚める理由は、人それぞれです。強烈な“未練”や、“果たせぬ使命”を持つ者……あるいは、単なる偶然の産物かもしれません」
老女の目が細められる。
「しかし、あなたの場合は……少し様子が違う。普通、“刻の輪廻”は一度きり。二度起こることは極めて稀です。ましてや三度も……これは、“輪廻”そのものが何かを求めているのか、あるいはあなたの運命が、この一日から大きく逸脱することを許さないのか……」
エイジの背筋が寒くなる。
「つまり……このループから抜け出せないってことですか?」
「現時点では、そうです。あなたはこの“運命の日”を繰り返しています。そして、今日の午後、あなたは必ず死ぬ。それが、この“日”の決められた結末のようです」
「でも、僕は避けようとした! 広場から離れたのに、魔物の経路が変わった!」
「ええ。それは、“運命の修正力”とも呼ぶべきものです。小さな変更は許容されますが、この“日”の核心的な出来事――あなたの死、そしておそらくはあの魔物の襲撃そのものを変えることは、極めて困難です。流れを変えようとすればするほど、世界はそれを元に戻そうと強く作用するのです」
絶望がエイジの心を覆おうとした。しかし、彼は歯を食いしばった。
「それでも、諦めろと? 何度死んでも、この日を繰り返せと?」
老女はしばらく沈黙し、エイジを見つめた。その目には、わずかな同情と、そしてある期待のようなものが光っていた。
“……刻の輪廻”が三度も続くということは、何かしらの“変化”の兆しかもしれません。あるいは、あなたがこの運命を断ち切るための“何か”を、まだ見つけていないだけかもしれません」
「何を……見つければいいんですか?」
「それは、私にもわかりません。しかし、ヒントはあるでしょう。この“日”の中で、あなたがまだ気づいていない“真実”が。例えば――」
老女の言葉が途中で止んだ。彼女の顔色が一瞬で曇る。
「……来ましたね。早い」
外から、遠くで悲鳴と破壊音が聞こえてきた。魔物の襲撃だ。しかし、時間はまだ早い。前回よりも、ずっと早い。
「今回は……こんなに早く?」
エイジは顔を強張らせた。明らかに、彼の行動が襲撃のタイミングを早めてしまったのだ。
「あなたがここに来たことが、流れを変えたのです。しかし、結末は変わらない……今のところは」
老女は深くため息をついた。
「逃げなさい。今のあなたにできることは、生き延びて、次なる“ループ”で新たな知識を持って挑むことだけです」
「でも、あなたは? あの魔物は――」
「心配には及びません。この礼拝堂は、俗世の災厄からは守られています。あなたこそ、急ぎなさい」
エイジは躊躇った。しかし、外で近づく破壊音を聞き、彼は決断した。ここで死んでは意味がない。得た情報を次に活かさなければ。
「ありがとうございました! 次に会う時まで……!」
エイジは礼拝堂を飛び出した。路地へ出ると、すでに人々がパニック状態で逃げ惑っている。魔物の咆哮が、すぐ近くまで迫っている。
(今回は、真っ直ぐ逃げるぞ!)
彼は人混みをかき分け、メインストリートへと向かった。しかし、その途中、彼はある光景を目撃してしまう。
路地の一角で、衛兵たちが魔物に立ち向かっていた。しかし、その戦い方にエイジは違和感を覚えた。彼らは確かに魔物を攻撃しているが、その剣戟は、どうにも「本気」に見えない。むしろ、魔物をある特定の方向――商業地区の外れ、つまり礼拝堂がある方向へと、誘導しているように見えた。
(まさか……?)
その疑問が頭をよぎった瞬間、エイジの足元が大きく揺れた。魔物の放った衝撃波か、あるいは破壊の余波か。彼はバランスを崩し、転倒する。
「ぐっ……!」
這い上がろうとしたその時、影が彼を覆った。魔物が、すぐ目の前に立っていた。赤い双眸が、エイジを捉える。
(また、か……)
諦めにも似た感情が湧く。しかし、今回は違った。彼はただ死を待つのではなく、最後の瞬間まで観察しようとした。魔物の様子、周囲の状況――。
そして、魔物が致命的一撃を繰り出そうとするその時、エイジははっきりと見た。魔物の首元に、光る首輪のようなものがついているのを。それは明らかに、自然の魔物が持つものではない、人工的な装飾品だ。
(あれは……?)
思考が続く間もなく、魔物の爪が閃いた。
痛み。そして、闇。
視界が白み、意識が遠のく。三度目の死。
しかし、今回は恐怖よりも、強烈な「疑問」がエイジの心を支配していた。衛兵の不自然な動き。魔物の首輪。そして老婆の言った「この日の核心的な出来事」。
(次こそ……あの首輪の正体を……)
歯車が噛み合う衝撃。エイジの意識は、再び「運命の日」の始まりへと投げ戻された。
四度目の朝が、彼を待っていた。