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鏡面に爪痕 -04-

 北に位置するその国の冬の夜は、とても長い。その長い冬の夜の中でも、一番長い夜が明けた。王妃がこの国で迎える五度目の冬至の翌朝だった。


 差し込む朝日に、王妃は目を覚ます。窓にかかった冷気を遮断するための重たいカーテンが細く開いており、一筋の清潔な光が薄暗い室内を切り裂くように差し込んでいた。


 王妃の華奢な体躯には不釣り合いなほどに大きなベッド。乱れたシーツに残るのは、彼女一人の体温だ。王は事が済むと、王妃の部屋で夜を明かすことなく、自室へと戻ることが常だった。部屋の空気は冬の冷気とともに沈み込み、床の上で凍り付いたような静寂に耳が痛くなりそうだ。暖炉の勢いをなくした熾が、ぱち、と思いだしたように爆ぜる音がやけに大きく響いた。


 王妃は緩慢な仕草で身を起こした。ふと視線を落とせば、細い手首に、赤いあざが浮かんでいる。王妃は小さく息を吐いて、それから視線を逸らすようにガウンを引き寄せると羽織った。床に足を下ろしてみれば、覚悟していたよりは、冷気は沈んでいない。


 壁にかけた鏡に歩み寄る。薄闇の中、わずかな光を反射する鏡には、年の割には華奢な体躯の王妃の姿が映る。育った関節と、肉の薄い体躯が相まって、まるで人形のような容姿。乳白色の肌に、似つかわしくない赤い痕。


 王の寵愛を得ているという証だ。

 この体のすべてが、王が好むままでいようと、食事制限と美容にこだわり続けた結果だ。


 わずかな光を反射する金色の髪は、起きたばかりであることもあり、乱れている。手櫛で髪を整えて、鏡の中の自分と向き合う。


「鏡よ、鏡、この国で一番美しいのはだあれ?」

 習慣になった問いかけ。魔法の鏡はいつものように答える。


「それは、あなたです。お妃さま、あなたはこの国で一番美しい」


 決まりきったやり取り。


 王妃は大きく息を吐いた。安堵とも諦観ともとれるため息。そして、冷えた部屋を暖めるために、暖炉に薪をくべるより先に、差し込む光に誘われるように窓辺へと近寄る。ひやりと一段と冷たい空気が頬を撫でた。


 王妃がカーテンを開ければ、途端、まぶしいほどの陽光が、彼女の網膜を焼いた。眩む視界に、恐る恐る目を開いてみれば、ガラスの向こうに広がるのは一面の銀世界だ。

 夜のうちに雪を降らせた雲は、どこかに流れて行ってしまったのか、透き通った朝の光は、新雪の表面で乱反射し、世界を輝かせていた。


 この国に来たばかりの冬の日を思い出させるその景色に、王妃は、黒檀の窓枠に手をかけると窓を開け放った。とたん、切るような冷たい空気が頬を撫でる。はぁっと息を吐き出せば、白い粒子がきらめきながら舞い上がり、まるで妖精たちが躍っているようだ。


「お母さま!」


 ひょこり、と庭木の陰から姿を現したのは白雪だ。銀世界の中、目をくらませるほどの強いコントラストを生む鮮やかな黒髪と、濡れた黒スグリのような瞳。朝の散歩だろうか、暖かそうな毛皮のショールに身を包んでいたが、寒さのためか、肌は白く透き通っている。一方で、歩き回ったせいなのか、その頬と唇は、血をより一層透かしたように赤く染まっていた。


「おはよう。姫はお散歩?」

「はい、雪が降った朝はいつも。空気がきれいだから」


 王妃が挨拶をすれば、白雪は嬉しそうに駆け寄ってくる。まるで、子犬のようだと王妃は小さく笑う。


「習慣なのね。風邪をひかないよう、」


 王妃の言葉に、白雪ははぐらかすようにふっと視線をそらした。みずみずしい黒い瞳が、夜の湖のように揺らぐ。しかし、それは一瞬のことで、王妃の気が付くことはなかった。


「故郷の冬は、本当につらかったけれど、この国に来て冬がとても美しいものだと知ったわ」

 きらめく世界に王妃は目を細める。特に、雪の次の日は、白雪が言うとおり、空気が澄み切っていて、本当に美しい。

「冬が好きなの?」

 白雪の素朴な問いに、王妃はうっとりと銀世界を見やる。


「そうね、冬が好きになったわ。……この国の冬は寒さを楽しむだけの余裕があって、」

 祖国の貧しさを口にしかけた王妃は、小さな姫の前であることを思い出し、誤魔化すように笑う。

「特に姫のお名前にもある雪が好きだわ。地上のすべてを銀色で覆いつくして、朽ちた木々をきらめかせて、春になって融ければ大地を潤すし、融けかけた雪から除く若い花芽も愛おしいわ」

 明るく言い切って、白雪に向き直ると、白雪に尋ねる。


「姫は?」

「冬は寒いからあんまり。秋の方が、暑くも寒くもなくて好き」


 問われた白雪は、少しだけ考えるそぶりを見せた後、はっきりとした口調で答えた。あまり、自己主張をしない白雪のいつにない言葉に、王妃は少しだけ驚いて、まぜっかえす。


「あら、だったら、春は? 春だって暑くも寒くもないわ。お花も咲くし」

「秋の麦畑が揺れるのが好き。山もきれいで好き。なにより、果物がいっぱい実るのがいい」

「花よりも果物なのね」


 結局、子供みたいな理由に思わず王妃が笑う。白雪は少しだけむっとしたように唇を尖らせた。笑う王妃を、白雪はじっと見つめていたが、ガウン姿の王妃に、眉を顰めた。


「お母さま、そんな薄着で寒くないの?」

 よかったら、これ、と自身が纏うショールを脱ごうとする白雪を王妃は止める。


「大丈夫よ。姫こそ冷えてないの? 頬どころか耳まで赤いわ」

 王妃の言葉に、白雪は恥ずかしそうに一旦俯いたが、何か意を決したように顔を上げた。黒い瞳が朝陽を反射し、ダイヤモンドダストのように煌めいている。


「お母さまの頬こそ林檎みたいに赤い……噛り付きたいくらい」


 言いながら伸ばされた白雪の手を、王妃は自身の頬に触れる前に掴んだ。思っているよりも冷えていない指先に安堵とともに小さな笑みを浮かべる。それでも温めようと、その手のひらを両の手で包み込めば、一度驚いたように目を見開いた白雪は、一転、うっとりと目を細めた。にこにこと浮かべる笑みは無邪気で、年相応にかわいらしい。


 しかし、小さな頃の出来事が思いだされ、気をよくした王妃が、白雪の手に息を吹きかけようと、包み込んだ白雪の手を引き寄せたその時、するりとガウンの袖が肘まで落ちた。


 刹那、「お母さま、怪我してる!」と白雪が声を上げた。


 搾りたての甘いミルクのような肌には似つかわしくない、青紫色の痣が、ちょうど彼女の華奢なつくりの手首に巻き付くように浮き出ている。王妃は慌てて、白雪の手を離すと、自分の腕を引いた。


「大丈夫よ」


 隠すようにガウンの袖を引きながら、数歩あとずさる。しかし、白雪はそれを許さなかった。白雪の伸ばした手は、王妃の腕を掴む。そう強い力ではない。白雪だってまだまだ幼さを残した少女なのだ。しかし、不意を突かれた王妃の腕は、窓枠の内側の海面と深海の間のような薄暗い空間から引き抜かれ、清潔な朝陽の下にさらされた。

 白雪は痛ましそうに、痣が浮かぶ王妃の手首を見つめる。


「きっと、袖飾りのレースで擦れたのね」


 王妃は、誤魔化すような笑みを浮かべ、離してほしいと軽く手を引いた。しかし、白雪は王妃の手を離すそぶりはなく、ただ、顔を上げた。そして、ふと、気が付いたように、腕を掴んだ手と逆の手を伸ばしてきた。


「ここにも痣が……」


 白雪の指が、王妃の首筋に触れるか触れないかで、王妃は、ばっと身を引いた。空を切った指先に、白雪は一瞬だけ傷ついたように目を眇めたが、王妃は羞恥のあまり、白雪を見ることができなかった。慌てて掴まれた逆の手で、ガウンの襟を合わせる。


「……新しい襟巻のせいよ」


 顔をそむけたまま、震える声で弁明を口にし、ガウンの襟を握る手に力を入れる。

 白雪が触れようとした、耳の下から、頤に沿った稜線は、昨晩、王が口づけていたあたり。


「もう、部屋に入るわ。手を離してちょうだい」


 思わず突き放したような物言いに、白雪はきゅっと唇を引いた。いつもは血を透かしたような赤い唇と頬が、少し青ざめている。

「姫も部屋に戻って、温かいスープでもいただきなさい」

 王妃は自身を落ちるかせるために、ふっと小さく息を吐くと、小さな子供を安心させるように、極上の笑みを浮かべて見せた。


「姫ももう戻りなさい」


 言い含めるように繰り返せば、白雪はようやく王妃の手を解放した。

 そして、王妃は白雪の答えを聞く前に、拒絶するように窓を閉める。深海に沈むように、部屋の奥へ向かおうとする彼女を引き留めるための白雪の声が、窓の外から追ってきたが、王妃はあえてそれを無視した。

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