鏡面に爪痕 -05-
その日は、雨上がりの湿度が高い初夏の日だった。王妃が嫁いで七回目となる夏至祭を控えた頃で、祭に合わせて開かれる宴で城中が慌ただしい雰囲気である。
宴では、王妃もチェンバロで数曲披露することが恒例となっており、その練習に明け暮れていた。明るい宴に相応しく、軽やかなメロディの曲を選んだため、彼女の細い指先は、鍵盤の上を忙しく駆け回らなければならないのだ。
宴にて披露する予定の曲を、王妃が奏でていると、白雪がノックもなく部屋へと入ってきた。人の気配に、王妃が振り返ろうとするも、白雪は「止めないで、続けて」と言って、チェンバロへと歩み寄った。
初めて会った時よりもすっきりと伸びた手足と、裏腹な幼い笑み。王妃はちらりと彼女を見て、そのまま指を止めることなく、変声期前の少年のような音色を紡ぐ。
「お母様の指がダンスをしてる」
白雪はチェンバロに手をつくと、その手に頬を寄せた。王妃が叩く鍵盤が生み出す振動を楽しむように、その口元に笑みを浮かべる。無垢な笑みは宗教画家が描く天使のそれだ。
王妃は最後まで弾ききると、「淑女ならば、ノックをしなさい」と咎めた。しかし、本気で怒っている様子はない。白雪も慣れたように「だって演奏を止めて欲しくなかったから」と悪びれた様子もなく言い訳を口にする。
「家庭教師の時間でしょう?」
王妃の問いに白雪は「先生がドレスを引き取りに行くから、今日はもうおしまいって」と答える。王妃がさらに、「そういうあなたはドレスを選んだの?」と問いかければ、白雪は不服そうに頬を膨らませた。
「どうせ、侍女と先生が選んだ“適切なドレス”を着ることになるもの。私の意見なんてないのと一緒」
王妃と出会った頃は、小さい素直なお姫さまだった白雪は、近頃、思春期に足を踏み入れかけているのか、どこかで仕入れてきたませた物言いをする。王妃は彼女の成長を微笑ましく思いながらも、不満を口にする白雪を窘める。
「時間、場所、機会にあったドレスを選ぶのは難しいのよ。どうやって彼女たちが選んでいるのか学びなさい」
「どうせまた、お父さまのご機嫌を窺うための、お金だけかけた子供っぽいドレスよ」
「良いものを与えるのは愛の証拠よ」
「……愛があるなら、もっと考えてくれたって」
「殿下はとても忙しいのよ」
王妃の慰めに、白雪は納得できないように「だって」と口にしたが、王妃は「姫、」とだけ呼び、白雪の口をつぐませた。
王妃には素直な白雪は気を取り直したように、「……お母さまとまたドレスを仕立てたいわ」と甘えてくる。王妃はわずかに口元をほころばせると、「そうね。冬の聖夜祭に向けてドレスを作っていただきましょうか」と同意した。そのことに気をよくした白雪は、「約束よ。ね、お母さま、あの曲を弾いて」と無邪気にねだる。
「……あの曲、」
白雪がねだる曲は、王妃の祖国の曲である。繰り返される簡単なメロディで、本当に小さな子供から大人までみんなが知っているような曲だ。興が乗ったときにはみんなが踊りだしたり、即興で歌詞をつけたりする。
王妃は苦笑し、しかし、思いついたように椅子から立ち上がった。
「姫の練習の成果を見せて?何か弾いてちょうだい」
白雪は王妃の言葉に、少しだけ顔をしかめながらも、促されるまま椅子に座る。まだオクターブをつかめない手のひらを鍵盤の上に置くと、ゆっくりとした曲調の初心者向けのワルツを弾きだした。鍵盤の重さに対して力が足りない彼女の演奏は、強弱のふり幅が狭く、お世辞にも上手とは言えない。
しかし、王妃は微笑みを浮かべてチェンバロの拍子木の上に人差し指と中指をついた。そして、白雪が奏でるメロディに合わせるように、人差し指と中指を交互に浮かせながら手首をひねる。まるで、人差し指と中指がワルツを踊っているようなその仕草に、白雪は笑う。
白雪が、わざと緩急をつければ、王妃はそれに合わせて人差し指をゆっくりと落としたり、中指を素早く持ち上げたりしてみせる。白雪が音を飛ばすように、曲をせかせば、王妃の淡いバラ色に染められた指先が、拍子木を叩いて、かつん、鳴った。
「姫が弾いていたのか」
リズムがめちゃくちゃなワルツの間に、ふいに男性の低い声が割って入ってきた。王妃はチェンバロから身を離し、ノックもなしに部屋に入ってきた男に対し向き直ると、慌てて膝を折る。
「ご機嫌麗しく、殿下」
白雪は不服そうに、チェンバロから離れ頭を垂れる王妃を見やり、自身の手を止める。
「お父様、どうしてこちらに」
「なに、王妃の出し物が心配になってきてみただけだ」と、暗に白雪の腕を揶揄する王は人の悪い笑みを浮かべ、何かを思いついたように白雪に向き直ると、「姫、私にも聞かせてごらん」と言った。
王はその身分に相応しくない、どこか下卑た笑みを浮かべながら王妃の傍へと歩み寄った。王妃は王が抱きよせるままその身を預ける。様子だけ見ればほほえましい家族の光景だが、王妃の瞳は透きとおった硝子玉のように焦点が曖昧になり、白雪は、普段は自身のことなど気にもかけない王のいつにない行動に、訝しげに眉を顰める。
しかし、逆らう術などなく、大人しく鍵盤の上に手を乗せた。
「そら、王妃も。先ほどのように指先でワルツを踊って見せるんだ」
白雪が、今度はゆっくりと、できる限り正確にワルツを弾き始めれば、王は王妃の手を拍子木へと乗せる。王妃は、王の行動が読めないことに、いくばくかの不安な表情を浮かべたまま、先ほどと同じように人差し指と中指を突いた。
白雪は先ほどとは打って変わって、拍子を乱すことなく、つたないながらもワルツを紡ぐ。白雪はちらり、と王妃の踊る指先を見やる。緊張のためか、王妃の白くなった指先から、染められた爪が不自然に浮いて見えた。
かつん、と王妃の指先が跳ねた。
不自然にリズムから外れた指先は、相手の足を踏んだ粗忽な淑女のようで、王妃はその淑女さながらに、慌てたように、ごめんなさい、と口にした。
「気にしないで続けるんだ」
王妃に代わり、王は白雪に演奏を続けるように告げたが、その表情はにやにやと人の悪い笑みを浮かべている。彼は王妃の華奢な体に覆いかぶさるように身を寄せ、片方の手はまるで、拘束するかのように彼女の腰に回していた。
王妃は緊張のために身を竦ませ、それでもワルツに合わせて指先を動かす。しかし、集中しようにも、王の白雪からは見えない方の手は、彼女のスカートを捲し上げ、その細い足を撫であげてくるのだ。
真面目な表情でチェンバロを演奏する姫の前でひそやかに行われる行為に、嫌悪感が生じるが、何よりも裏切るのは自分の体の反応だ。慣らされた体は、彼の大きな手がはい回るたびに、ぞわぞわとした感覚を拾い上げようとする。湧きおこる羞恥心を抑え込み、それを無視するように、指先に集中しようとすればするほど、王の悪戯な手は、無慈悲にも、膝小僧を撫で、太ももの内側をたどり、さらには皮膚の薄い場所をさするように、邪魔をしてくるのだ。
かつん、と、王妃の指先が再び跳ねる。
それは、白雪が奏でるワルツが終わる音と、ちょうど重なった。
「おかあさま、具合が悪いの?」
王妃の様子に白雪が椅子から立ち上がり歩み寄ろうとすれば、王妃は彼女を制した。
「いいえ、大丈夫よ」
「姫、ドレスは選んだかい?」
王妃の言葉につなげるように、王が尋ねれば、白雪は「いいえ、どうせ侍女が決めるもの」と告げる。
「そろそろ自分で選んでもいい年ごろだろう」
王の言葉に白雪はやはり不服そうに視線を伏せたが、元より聡い白雪は言外に席をはずせと言われていることを察し、素直に部屋から退出した。
王妃は絶望にも似た気持ちで、扉が閉まる音を聞いた。
「さて、王妃。今度は君の出し物を聞かせておくれ」
そう言いながらも、王はチェンバロの椅子を引くではなく遠ざける。王妃は促されるまま、鍵盤の前に立った。そこに抵抗はない。しかし、自分のすぐ後ろで立つ衣擦れの音から逃れるように、鍵盤の上に指を置いた。




