林檎に毒薬 -07-
王妃は部屋に入ると、三角巾を勢いよく投げ捨てた。まとめていた髪が解け、一筋の髪束がはらりと頬にかかる。
王妃は、それを払おうとして、その指先を止めた。手袋の先が汚れている。
何より、自身の指先が小さく震えていることに気が付いた。
先ほどまで、黒檀のような黒髪に触れていた指先。
「どうして、」
王妃は自問自答する。
鏡に映し出された白雪姫は、小人たちとうまくやっているように見えた。だからか、櫛を準備するうちに、どうにか、彼女を殺さないですむ可能性を探したくなった。もし、彼女が王宮に戻るつもりがないのであれば、そのまま、そっとしておけばいいのではないか、と思ったのだ。
だから、櫛は三つ用意した。そして、最後の一つを毒で染めた。
髪を梳いてあげようと持ち掛ければ、白雪は無邪気に髪を解いた。まずは、一番大きい櫛から、そっと黒髪に当てる。そして、雑談のように問いかけた。
「小人の家で何をしているの?」
「……森で迷子になったところを助けてもらったの」
大きな櫛から、中くらいの櫛へと持ち替える。
「お家には帰らないの?」
「……帰れないの」
中くらいの櫛をおいて、小さな櫛へ手を伸ばす。もし、白雪が望む答えをくれれば櫛を床に叩き落として割ればいい。
「帰りたい?」
「……わからない。あの場所に未練はないけど、傍にいたい人がいるから」
しかし、白雪の答えを聞いた刹那、王妃は、衝動的に手にした櫛を強く刺してしまった。
どうしてなのか、わからない。考えたくもない。
それに、遠くから、昼食を取りに帰ってくるであろう小人たちの歌声が響いてきて、王妃は、走り去ることしかできなかった。
崩れ落ちる白雪を、支えて、優しく横たえてやることもできずに。
王妃は、はっとしたように、鏡の前へと駆け寄った。
鏡に映るのは、炭が塗りたくられた醜い顔。王妃は思わず、手袋をつけたままの手で頬を強く擦る。普段なら、肌に負担がかかるから、と絶対にしない行為だ。しかも、手袋に炭はついたが、汚れた顔は赤くなるだけで、ちっとも綺麗になった気がしない。
王妃は諦めて、手袋を脱ぎ捨てると、深呼吸を一つ。
そして、覚悟を決めて鏡に問いかけた。
「鏡よ、鏡、この国で一番、美しいのはだあれ?」
映し出されるのは、世界で一番美しい死体であるはずだ。
彼女の体を傷つけないように、そして確実に殺せるようにと選んだ手段。
王妃の呼びかけに対し、鏡の表面が揺らいだ。
魔法の鏡は、いつものように告げる。
「あなたは美しい、お妃さま。しかし、小人と暮らす白雪姫はその千倍美しい」
揺らぐ鏡面は、夕暮れも近い昼下がりに、湖のほとりで髪を洗う白雪姫の姿を映しだした。豊かな黒髪を下ろし、美しい湖水ですすぐ姿は、まるで、物語の挿絵に描かれる妖精のように美しい。
しかし、王妃はまるで悪魔と対峙したように、その表情から血の気が失せる。
何故、白雪は、まだ、生きているのか。
身体の震えをどうにか収めようと、自身の肩に手を回す。しかし、肩を掴む手に、いくら力を入れても、震える身体を止められない。
鏡の中の白雪姫は、冬の澄んだ空気のように凛としている彼女にしては珍しく、毒の影響だろう、どこか気だるげに、緩慢な動きで髪を拭いている。
「白雪姫を殺さなければ。たとえ、わたしの命がなくなっても」
王妃は、鏡に映し出される白雪をなぞるように、鏡面に指を這わせた。
毒が効かなかったわけではないのだ、と王妃は思い直した。ならば、小人たちが白雪に毒が巡りきる前に、洗い流したのだろうか。
だとしたら、もっと確実に、彼女が毒に冒されるような、何かを用意しなければ。
簡単に洗い流したりできないように、例えば、甘い果実に毒を含ませ、それを飲み込ませればいい。
王妃は鏡に指をたてた。ちょうど白雪の唇を映し出していた箇所に、白い傷が浮かび上がった。
とんとん、と扉を叩く音。
白雪は少し眉を寄せた。無視するように、床を掃く手を止めなかったが、しかし、結局、手にした箒を壁にかけ、窓際に寄る。
案の定、そこには、彼女がいた。やはり、目深にかぶった濃い色のフード。
白雪は、まぶしいものを見るように目を細める。期待などしたくないのに、それでも、彼女の姿を見るだけで、心が湧きたつ自身に腹が立つ。
白雪は窓を開けると、彼女が何か言う前に「何か御用ですか?」と自ら声をかけた。
「……こんにちは、お嬢さん。なに、うちで取れた果物を持ってきたんだ」
見るからに怪しい風貌に、白雪は憐憫にも似た感情が沸き起こる。
少し意地悪な気持ちで、白雪はフードの下から覗き込むように、ぐっと顔を近づけた。ミルク色の滑らかな肌には、ひび割れた蝋が塗りたくられ、かろうじて老人の肌のように見えなくもない。そのくせ、まろやかな稜線を描くたるみのない輪郭。フードが作る影でもわずかに煌めくライ麦色の髪。
やはり、王妃だと確信する。
こんな雑な変装で、彼女は、本当に騙す気があるのだろうか。
おそらく、ないのだ。王妃には、白雪を殺す気などないのだ。
なんて残酷な人。
白雪の唐突な行動に、王妃は驚いて、「ひっ」と小さく息をのむと、身体を反らした。
「あら、ごめんなさい。知り合いに似てるような気がして」
「そ、そう? でも、私にはお嬢さんみたいに美しい知り合いはいないねぇ」
白々しく嘯けば、やはり王妃もとぼけて見せる。
しかし、こんな状態でも、彼女の美しいという言葉は嬉しいのだ。思わず口元に浮かびそうになる笑みを、どうにか必死にかみ殺す。
「ふうん……まぁ、ありがとう」
白雪の濁した返答に、王妃はどう思ったのか、「ほら、林檎はいかが? よく熟れているでしょう?」と、話題を変えるように、手にした林檎を差し出してきた。
「まぁ、おいしそう。でも、何ももらってはいけないと言われているの」
白雪姫は断るも、王妃はさらに勧めてくる。
「そう言わないで、一番おいしそうな林檎をあげましょう」
王妃の言葉に、懐かしい思い出を探るように、白雪は僅かに目を眇めた。
それでも受け取らない白雪に、王妃は焦れたように「毒でもはいっていると思いなさるの?」などと宣う。
簡単に罪を告白する王妃の危うさに、白雪は軽い眩暈すら覚えた。
「まあ、ごらんなさい。二つに切って、半分は私がたべましょう」
しかし、どんな稚拙な謀りごとだとわかっていても、白雪は、王妃の差し出すものを抗えないのだ。
彼女は、覚えているだろうか。
幼いころ、白雪が差し出した林檎。食べやすいようにと切り分けられた林檎を王妃と白雪とで分け合ったことを。あの時、食事制限を課していた王妃は、白雪が差し出した林檎を一つ食べると、「おいしいわ。姫もどうぞ」と、二つ目を白雪に差し出してきた。
ためらう白雪に、王妃は無邪気な笑みを浮かべ「あーん」などと、促すものだから、幼い白雪は思わず口を開いたのだ。ついで、差し込まれた林檎に歯を立てれば、しゃくっと果汁が溢れ、王妃の手に零れた。
「よくうれた赤い方を、どうぞ」
差し出された彼女のすらりとした手指には、あの日と同じように、割った林檎から果汁が垂れている。
白雪は、その簡単に折れてしまいそうなほどに細い手首に自身の指先を絡めた。
あの日と違い、痣のない、綺麗な手首。
白雪が王妃の腕を掴んだ拍子に、王妃の手からは、半分の林檎が滑り落ち、土の上に転がった。しかし、白雪は頓着しない。そのまま力任せに、王妃の腕を引き、自分の口元に寄せた。
そして、驚きに見開いた王妃のその琥珀色の瞳に見せつけるように、血のように赤い唇を開いた。白い歯の奥から差し出された赤い舌は、それこそミルクを掬う猫のそれのように、王妃の手のひらに溜まった果汁を舐めあげる。
甘いはずの果汁が触れた舌先には、混じる毒のせいか、焼けるような痛みが走る。
白雪は、王妃の腕を掴んだ手はそのままに、空いたもう片方の手を王妃の口元へと伸ばす。王妃は驚きのあまり、抵抗することすらできずに、されるがままだ。
王妃の唇に触れた白雪の指先は、王妃の口元を汚す蝋を拭いとった。
現れるのは、それこそ熟れた林檎のような赤い唇。
そして、それは白雪にとって、ずっと噛り付きたかった果実だった。
白雪は、今度こそ、その甘美な果実を味わおうと、王妃の体を引き寄せた。
これから先は、皆さまがご存じの通り。
機械仕掛けの王子様、グリム兄弟が編纂する以前のお話では、王様の儀式によって、白雪姫は目を覚ます。目覚め方も幾通り、お妃さまのお取り扱いは残酷なものから、語らぬものまで。
しかし、ご安心ください、いずれにしてもこの物語はハッピーエンド。
なぜなら、これはお伽噺。
パックじゃない私がお約束しましょう。
And happy ever after、とね。




