林檎に毒薬 -02-
土埃を上げて去る馬車を白雪は、茫然と見送った。
耳に残るのは、王妃の拒絶の声。
「……どうして」
まばたきとともに、暖かい雫が頬を伝う。白雪はそれを拭うこともせずに、ただ、そこに立ち尽くした。
馬車が立ち去る直前まで、彼女の白魚の指先は、白雪の頬を辿り、唇に触れ、髪を撫でていたではないか。それが、すべてを差し出すといった白雪に対する答えではなかったのか。少なくとも白雪は、彼女が自身を欲してくれたと思ったのに。
辺りには何もない。森の陰には、昼間だというのに湿った空気と薄闇が漂っている。今は鳥の声が聞こえるが、夜になれば野生動物が活動を始めるだろう。獰猛な生き物が跋扈する森の夜を越せる気はしない。
おそらく、今夜、ここで死ぬのだ。
血にまみれた死体は汚いだろう。あの人が褒めてくれた容姿が汚れるくらいならばいっそ、白骨化するまで見つからないといい。そうでなければ、美しい水底に沈むのもいいかもしれない。
白雪は立ち上がる。近くには湖があると御者が言っていた。
どうせ死ぬのならば綺麗な死体でありたい。あの人が、もう動かない私を見つけた時、まるで物語の小川に落ちて溺れ死ぬ悲恋の娘さながらに、美しい人には美しいものを、と、花を捧げられますように。
しばらく走り続けた後、従者は馬車と止めた。
「妃殿下、大丈夫ですか?」
従者が馬車の扉を開ければ、ずっと扉に手をかけていたのだろう王妃が倒れこんでくる。血の気が失せ、紙よりも白い顔に、従者は慌てて王妃を抱え上げると、座席に座らせた。
「おひいさま、今からでも戻りましょう! 白雪姫のこと、妹のようにかわいがっていたじゃありませんか」
肩を寄せた王妃は、かわいそうなほど震えている。従者は痛ましげに、顔をしかめた。
「大丈夫ですよ。気が動転したのだと言えば、白雪姫だって強くは責めないでしょう。白雪姫だって、おひいさまのこと、姉のように慕っておいででしたから」
従者は王妃の部屋の窓を見つめる白雪を、よく見かけていた。白雪姫が王妃を慕っていることを知っているからこその言葉だ。
「……ダメ、いずれ結婚させられてしまうもの……今はまだ、大丈夫でも、いずれ……かわいそうだわ」
しかし、王妃は頑是なくかぶりを振るばかりだ。
「おひいさま、」
従者の呼びかけに、王妃はふっと顔を上げた。しかし、視線の焦点は定まらない。
「……もう、どうしたらいいのかわからないの」
零れ落ちた王妃の言葉に、従者はなだめるように彼女の肩をさすった。不安がる幼い娘にそうするように。
「大丈夫ですよ、おひいさま。どうぞ私にお任せください」
しかし、王妃は頷くこともなく、ただ、ぼんやりと虚空を詰めるばかり。
小人たちが人間のお姫さまを見つけたのは、いつものように、仕事を終えての帰路の途中だった。
湖のほとりに、彼らのねぐらがある。湖の向こうに沈む夕日に浮かぶシルエット。小人よりも随分と背が高い。おそらく人間の女だ。
ごくまれに、見る光景である。否、そうであったのであろうと思わせる光景である。大体は、彼女たちは白く膨らんだ体で見つかるからだ。
小人は人口の増減に、さほど興味はない。だが、人間が浸かった後の湖は、そこを統べる精霊が不安定になり、しばらくの間、小人たちの生活に支障を与えるのだ。
だから、小人たちは足を止めた。
「おや」「珍しい」「人の子だ」「綺麗なドレスを着て」「染料が素晴らしい」「裾が濡れてしまうんじゃないか」「一体どうしたって言うんだい」
声をかけてみれば、人間の子は顔を上げた。白い肌に黒い髪と瞳、赤い唇と頬。人の子は小人たちの問いに答えることなく、じっと見返してくる。困った小人たちは、こそこそと輪になって相談を始めた。
「馬車も何もなかった」「ここは国境近くの鉱山」「われらドヴェルグの土地だ」「じゃあどうして人の子が」「決まってる」「いつものやつさ」「若い人の娘は簡単に命を捨てる」
小人たちの言葉に、人の子はわずかに鼻梁に皺を浮かべる。しかし、小人たちは頓着しない。彼らは彼女に向き直ると、不躾に提案した。
「どうせならそのドレスをくれないか」「上等な絹を濡らしてしまう前に」「繊細な縫製だ」「織だって素晴らしい」「色合わせは悪趣味だがね」「人間はあれが素敵なんだろうさ」「なんにせよ、丁寧な手仕事だ」
どうせ死ぬのならば、素晴らしい手仕事を保護しようと提案すれば、人の子は不愉快そうに、ようやく口を開いた。
「……あなた方は、」
小人たちは憤慨する。彼らの世界において、手の内を見せないのに、こちらの手の内を探る行為は礼儀作法違反だからだ。
「失礼なお嬢さんだ」「自らを説明する前に尋ねるなんて」「まぁまぁ、」「話を聞いてみようじゃないか」「聞くまでもない」「若い人間が死にたがるなんて」「どうせ悲恋の物語だ」
しかし、人の子にとっても小人たちの態度は、決して礼儀正しいとはいなかったのか、彼女はいささかむっとしたように眉間に皺を寄せた。
「失礼なのはどちら?初めて会った女性にドレスを脱げだなんて、蛮族の所業だわ」
逆なでするような物言いに、しかし、小人たちは激高しなかった。彼らは一転、横一列に並ぶと、恭しく一礼。彼らは納得さえすれば、とても素直な種族なのである。
「これは失礼、お嬢さん」「われわれは、宝石を掘るのが仕事のドヴェルグ」「今日も一仕事終えて、ねぐらへ帰るところさ」「我々は美しいものが好きでね」「君のドレスは本当に美しい」「溺死体をくるむには上等すぎる」「ガラスケースに入れて飾りたいくらいだ」
人の子は、彼らの礼を受けると、湖から足を引き抜いた。そして、靴も履かずに膝を曲げ、王宮仕込みのカーテシーを披露した。
「はじめてお目にかかります、ドヴェルグの皆さん。私は、この国の王女、白雪と申します」
白雪の言葉に、小人たちは首をひねる。
「はて」「確かに」「この国には年頃の姫がいる」「黒い髪」「白い肌」「赤い頬と唇」「姿は噂通り」
納得できない小人たちは、白雪に詰め寄った。
「しかし」「どうして従者も連れずに」「迷子かな」「迷子と言うには無理がある」「そろそろ夜も更ける」「獣が出る」「あまりにも無防備」
小人の言葉に、白雪は目を伏せた。
「置いていかれてしまったの」
そして、吐き出した言葉に、自らが傷ついたかのようにその瞳を揺らした。
「政権争いかね」「反乱か」「なんにしろ王女なのだろう」「城に帰りたければお送りしよう」「この国の王様は我々の宝石に価値を与えてくれる」「我々の手仕事にも」「ちょっとした恩返しだ」
可哀そうに思った小人たちの提案を、しかし、白雪は緩くかぶりを振って、辞退する。
「違うわ。でも……帰らないわ。帰れないの」
白雪の瞳に、水の膜が張る。彼女は、どうにか誤魔化すように瞬きを繰り返すが、そう長く耐えることができなかった。雪解けの水のように、一度決壊した瞬間、涙はとめどなくあふれ出した。まだ幼さを残す輪郭に軌跡を残し、いったん顎の近くでとどまるが、耐え切れずに雫となって、地面に落ちては足元を濡らす。
小人たちは顔を見合わせた。変化の少ない性質を持つ小人は、変化の中に美しさを見出し、貴ぶ文化を持つ。だからこそ、白雪の涙を美しく思い、彼らは白雪に同情した。
「捨てたのは王宮の人間か」「戻れば殺されるといのなら」「今夜はうちに来るといい」「君は少し背が高すぎる」「だが我々の家に入るだろう」「もし我々の家の中の仕事を引き受けてくれるのならば」「気が済むまでいるといい」
小人たちの気のいい提案を、白雪は再び緩くかぶりを振って辞退した。
「ご親切に、ありがとう」
白雪は指先で目元を拭う。しかし、その表情は晴れない。白さを通り越し、青ざめた顔で、誰ともなしに呟いた。
「……でも、もういいの。守りたいと思った人から拒絶されてしまったから」
そして、とうとう、自身の体すら支えきれず、力なくへたり込む。視線が下がり、小人の一人と視線がかみ合った。小人たちはあきれて、肩を竦めて見せた。
「やはり」「なんて意外性のかけらもない」「失恋か」
「ひどいこと言うのね。誰かを想ったことはないの?」
小人の会話を白雪が遮れば、小人たちは困惑するしかない。
「我々は石から生まれる」「大地の一部という意識がある」「だがら個の区別はしない」「したがって愛という感情がない」「必要ないからだ」「恋もしない」「必要ないからだ」
「……うらやましい。だってこんなにも苦しい。いっそ消えてしまいたい」
胸の前で握りしめられた拳。とぎれとぎれの吐息。
泣き止まない白雪に、小人たちは途方に暮れる。
「しかし」「ひどい相手だろう」「そうだ」「いくら別れたからって」「本当に捨てるなんて」「さっさと忘れてしまえばいい」「人間はたくさんいる」
「……あんな綺麗な人、いない。私のことだって、美しいって言ってくれたのに」
この肌だって、髪だって、唇にだって触れてくれたと、ついには子供のように泣きじゃくる白雪に、小人たちはどこか不思議そうに尋ねた。
「我々は理解できない」「だから興味がある」「なぜ苦しむのかね?」「愛とやらも恋とやらも自らを殺めることも」
黙り込んだ白雪に、小人の一人が告げた。
「溺れて死ぬのはとても苦しい」
「……でもきっと一瞬だわ。この痛みが続くよりはきっと楽。あの人も水に浮いた私を見て傷つけばいい」
自棄になった白雪に、小人が残酷に告げる。
「溺死体は美しくない」
黙り込んだ白雪に、最後の小人の慰めるように囁いた。
「物語の挿絵ではウンディーネのようだがね」




