28・不規則なリズムで
運転席の夜男が差し込んだ鍵を捻ると、車が揺れて、エンジンがかかった。左手だけでハンドルを少し回し、右足を踏みこむ。道の端に寄せられていた車の鼻先が、道の真ん中へと誘導されながら車体が動きだす。
すぐに車は今まで走ってきた位置取りを取り戻し、夜の道路をいつも通りに流し始めた。
「ねぇ」
「ん?」僕の呼びかけに、夜男は振り返ることなく続きを促す。
「この車って、僕にも動かせるのかな?」
「ほーう」感心半分、からかい半分の笑い。
「なにさ」
「そういうこと言い出すのはお嬢ちゃんの方だと思ってたんだが、お前もいちおう男の子らしいトコがあるんだなぁ」
「いちおう、そうらしいよ」むっとしたが受け流す。「それで、どうなのさ?」
「だーめ。車を運転していいのは大人だけ」問われる前に、男は付け加えた。
「昔のしきたりでそうなっててな。だが、こうなっちまった今ではしきたりなんざどーでもいいかねぇ」
「なら?」僕は男の座る席とその隣の席の隙間から身を乗り出す。運転席から手の届く範囲には、細々としたレバー、ボタン、メーターがカチャカチャと備え付けられていて、それら全てに何らかの意図や意味があるのだと思うと、ついつい触ってみたくなってしまう。あの赤い三角形が描かれたボタンを押すとどうなるのだろう?
「でもお前、足とどかねぇだろ」男は残酷に言って、右足をあげた。車の速度ががくんと鈍り、僕は身体の半分以上を運転席側に引き出される。
それから男は足をいきなり踏み下ろす。地面が甲高い悲鳴をあげて、車が強引な速さで走り始めた。僕はその勢いに負けて、後ろの席に吹っ飛ばされた。ベルトを付けていたシロは隣で涼しい顔だ。
「こいつはこーやって動くからよ。足が下に届かねぇと無理なのさ」
僕は座らされた後部座席でぶらぶらと垂れる我が足を思う。真っ直ぐに下へ降ろして、やっと床に足裏がつく。
「気ぃ落とすな、少年」車をいつもの速度に戻しつつ、夜男は尊大な口調を作って言う。まるで優しい王様の真似をする道化師みたいだ。
「だがしかし。その時が来たらくれてやろう」
「え?」届かないって言ったばかりじゃないか。そもそも。「その時って何さ」
「その時はその時」片手運転で滑らかにカーブを曲がらせる。
「いつ来るんだよ、そんなの」僕は席を外され、壁に押し付けられる。
「いつか来るんだよ」カーブを抜けて、再びストレート。
「答えになってない」体勢を整えて、自分の席に身体を置く。
「まーまー。いつかはいいって事になるんだから、それでいいじゃあないか。乗りたいだろ?」夜男は僕を振りかえって、分かりきった問いをあえて投げる。
「そりゃ、乗りたいけど」
「じゃ、そーゆー事で。楽しみにしときな」前に伸びる道へと向き直る。
「しばらくは一直線が続きやがるから、少し飛ばさせてもらうぜ」言いながら、しかしもう速度は上がり始めている。「ベルト付けとけ」
***
灯を点されなくなって久しい灯台、街の一区画分はありそうな古びたお屋敷、ほのかに暖かなマホガニー色をしながらも鄙びてしまったログハウス……僕らは道路の傍らに現れては消えていく彼らを、一つ一つ見て回った。
だけどそれらには、眠っている大人も起きている大人も、そして起きている子供の気配もなく。人の居ない空間はどこか精彩を欠き、望遠塔ほどに惹きつけてくれるところなんて一つもなかった。
シロは時折、何かと理由をつけて一人で歩きまわった。
お屋敷で見失った時なんか、埃まみれの物置から女性ものの衣装がたっぷりおさめられた衣装部屋、果てはバルコニーを辿って屋根の上まで探しに行く羽目になった。
だけどその苦労はまったく報われず、シロは何時の間にやら正門前でけろりと笑って待っていた。
そのあんまりにもあからさまに作られた笑顔は、追求してやるには痛々しく。僕は「行こっか」と招く彼女に頷くことにしたのだった。
僕らが訪れた、これらの何某は全て、道沿いにぽつんと置かれていた。
道は一度も分岐することなく、二股にも三股にも枝分かれせず、ただ一本の道だけが曲がりくねりながら世界に敷かれているようだった。
***
人影のない人工物たちを、色褪せた有象無象たちを置き去りにして、車は一直線に夜道を駆ける。その輝く片目が夜を切り開いて先を照らす。
道の左右では敷き詰められや俯き花たちが地面を見つめ、その淡い燐光を途方もなく寄せ集めて仄かな光源と成っていた。
行く先からは、ひときわ大きな建物の塊が近づいてきている。
ライトで切り取られた可視空間ではその全貌を把握できず、外界と建物たちとを区切る低い壁がぐるりと一塊を囲んでいる様子と、そして真っ正面に伸びる道が、その壁に開かれた穴――門――に続いていることだけが伺い知れた。
まるで街のようだ。あれが隣街なのだろうか? しかし、あの建物群の上方にたゆたう空は暗い。黒い黒い黒を越えた夜色だ。青などそこには欠片もなく、陽光は月光に取って代わられてしまっている。まるで、僕らが後にしたあの街のように。
僕は全てを見せてくれないフロントライトに愛想を尽かし、そっと左手のガラス窓から見える俯き花の群れへと視界を逃がす。あるいは、意識も逃げていたのかもしれない。
反対側をちらと伺う。僕とは反対側に敷かれた花絨毯を、俯き花色のシロが俯き気味に眺めていた。彼女はにじり寄るように近寄ってくる建物たちに何の感想も漏らさなかった。
僕が左手側で、シロが右手側。僕ら二人は背中合わせの姿勢で窓を透かし見て、言葉を交わすこともなく、見慣れた燐光へと縋りつく。夜男はただ正面を見据えてねめつける。速度は一定に保ち、車遊びも何もしない。律儀で厳格な運転手に徹してしまっていた。
僕ら三人の、何もかも全てが交わらない。車の駆動音が不規則なリズムを刻み、心の臓腑をかき乱す。




