27・飛ぶ想い、落ちる指
風の無い海岸には冷たい空気が吹き溜まっていて、されどその零度を撃ち抜く陽光が、その温もりが微かな道しるべになっていた。僕は光を辿って、海へとひた走る。
海水までまだ少し距離のある地点で、何かにぶつかりそうになって立ち止まった。
「先に見させてもらってるぜ」ぶつかられそうになった彼は、海を見たままそう言った。「こりゃあ良いな」
「でしょ?」海と岸の境界線に立つシロが言う。その胸元では風船大の空が、全方位に暖かな光を振りまいていた。
シロはこちらを振り返る。胸元に浮かぶ陽光に照らされた彼女の緑は、初々しくも晴れやかで、その背後に無限の夜を背負わされてなお朗々とあった。そんな彼女は僕を視界に認めると、少し意外そうな顔をする。
「……ああ。着替えは夜男にもらったんだ」
「なんでそんなもの持ってたの?」彼女の興味は夜男に移行する。
「昔から、お前たちぐらいの子供を待ってたのさ」その真意を追求しても答えてはくれないだろう。そういう口調だったから、僕もシロも何も問わない。
僕は寄せも返しもしない海水に気を配りながら、シロと青空の隣まで行く。だが、夜男は僕を見送るようにして、一歩たりとも動かなかった。
「この青空について話したいんだ。もっと近づこうよ」
「……夜目が利くせいで眩しすぎるんですって」代わりにシロが言い、夜男は鷹揚に頷いた。
「だが、それでも分かるぜ。いいもんだな、晴れた空ってのは」彼は一瞬、街の大人たちが僕らの青を見るような、見上げるような目付きをした。
「本当に、いいもんだ」懐かしがる夜男の表情は、涙を堪えているようにも、何かを悼むようにも、それでいて嬉しそうにも見える、多種多様な感情をまぜこぜにして浮かべた解きがたいものだった。
僕は僕らがつくった、夜の中でも色褪せない青を見やる。
今を逃したら、僕はきっとこの大言壮語を握り潰す。その前に。
「僕はこれを、もっと大きくやりたいんだ」
「いいじゃねぇか」
夜男は意外なほどに、意外でもなさそうに僕の夢想を肯定してくれた。勇み足を踏んだ僕の心は、拍子抜けの拍子にぐらりよろめく。
「少年少女よ夢を持て」歌うように男は寿ぐ。「お前はもっと多くの夜を、青空で上塗りするつもりなんだろ?」問われて、僕は慌てて心の佇まいを取り戻す。
「ああ。もっともっと大きい青空を作って、もっともっと世界を明るくするんだ」
「デカい話だ……しかも明るい。最高だね」
「で、私に大量の夜を飲ませるつもりね」シロは青空をいじくりまわしながら茶々を入れる。
「いやぁ、でもほら。僕もそのぶん空を流すわけだしさ」
「それならもっと高いところでやった方がいい」
夜男は僕らのやってきた方、望遠塔を指差す。
「空ってのは高みにあるもんだ。そもそも低く溜まってるのが不思議なのさ」
思い返す。望遠塔で流した僕の空は、夜色の夜の中でも、広く大きな夢を見せてみせた。
「塔の上で流した空は、もっと力強くて、広かった」
「だろ?」
「でも触らないと夜色を奪えない。塔から届く範囲には限りがあるわ」シロは必要以上に浮かれないよう心掛けながら、問題点を洗っていく。「青にできるのは、塔の周りだけよ」
「飛べばいい」夜男のあまりにも簡潔かつざっくばらんな返答に、シロの澄ました表情が崩れてしまう。
「いや、あのね。確かにソラは浮いてたけど」
「ならいいじゃねぇか。飛べよ」夜男は楽しそうに、面白そうに、愉快そうに黒い口の端を持ち上げる。黒い唇が持ち上がり、夜色の犬歯がむき出しになった。「少年がお嬢ちゃんを引っ掴んで、塔のてっぺんから跳べばいい」
「あのねー……」正してやりたい気持ちだけはあるけれど、何を正せばいいのか分からない。そんな調子で少女は呻きに近い呆れ声だけを漏らした。
「……飛ぼう」
「ソラ?」柔らかな緑色を纏っているとは思えない、甲高くもすっとんきょうな声が上がる。
「空瓶を詰めた鞄は飛んだよ、シロ。きっと君だって飛べるんだ。降りるときは空瓶の空を夜空に放てばいい」
「中々に良識的な発言だわ」
「自分でも冗談みたいだと思ってる」
「なら」
「それでも、飛ぼうよ」
「あのね、ソラ」彼女が三度目のそれを言いかけたところで。
「でもさ、シロ」僕は断固として塗り替える。
「君だって、その青空を手放さないじゃないか」
僕らがこうしている間もずっと、シロの両手は絶やすことなく青空を、撫で、触り、抱き、なにより愛おしんでいた。僕らが求めた夢幻の結実たるそれを。そして更なる願いの第一歩となるそれを。
「そうね」シロは肯定する。「そうだけど」そして否定をしようとする。
「いつか、この夜を全て青空にしてみせる」否定はさせない。
「だから飛ぼう、シロ」
「……いいわ、付き合ってあげる」
「ありがとう!」まだ二歩目か三歩目を踏み出したばかりなのに、僕はもう青空を飛んでいるような心地にまで至っていた。今この手を夜めがけて開いてやれば、そのまま夜をこじ明けられそうな、太陽を右手に掴んだような全能感が僕を浸す。
「どういたしまして」真剣に答えてから、少女は思い出したように照れ笑う。「それにしても、本当に、途方もない話」
「笑うかい?」
「失敗したら、思いっきり」シロは僕の額を指で弾く。「二人で笑い話にしてやろうって意味よ? いじけるよりマシでしょ」
「心配は無用だよ、失敗なんかしない」
「どうかしら? なんにせよ、まずは隣街に行ってからね。青空が欲しいだけなら隣街で暮らすっていうのも手だし」
「それはできねぇな」傍観に徹していた夜男が口を挟む。彼が続けようとすると、乾燥した砂に、砂よりも更に水気のない、小さくも確かに重たいものが、ざらりと落ちる音がした。
僕らの傍らには青空があり、夜男が夜を見通せるように、僕らは陽光を伝って周囲を見渡すことができた。
僕の目に入った落し物は、夜男の右手、その親指だった。
「えっと、それ……」落ちたそれの正体を教えるべきか? 馬鹿な、彼が一番よく知っているはずだ。
ならどうする、それについて訊くべきだろうか。見つからない。発するべき語が多すぎて、一番欲しい問いが見つからなかった。
「ああ、とうとうバレちまったか」雲を月から除ける夜風のように飄々と、さもありなんと彼は言う。親指のなくなった右手で右手の親指を拾い上げ、手のひらで軽く放り投げ遊ぶ。「義指なんだよ。代わりの指」
シロがほぅと息を吐く音がした。いっしょに吐いた僕の音も、きっとシロが聞いている。
「たまに落ちちまってな、地味に不便なのよ」無造作に親指をズボンのポケットへ押し込む。がさがさ、ざらざらと砂っぽい不気味な音がした。
「気づかなかった。他の指もそうなの?」
「こんな色だからな、バレたのは初めてだ」彼は喪った右親指の根元で、自分の肌を指し示す。限りなく夜に近い夜でない黒。むらなく平坦に塗り潰された、ただ一色。「他の九本についてはー、まぁ秘密。当ててごらんなさい」
「悪趣味なクイズは置くとして。つけ直さないの?」
「気が向いたらやるさ」
「運転は大丈夫?」
ごくごく自然なシロの質問に虚をつかれ、夜男は思わず鼻で笑う。
「……指どころか、片手どころか。眼が無くたって余裕さ」
夜男は四本指の右掌を、乱雑にポケットへ突っ込んだ。




