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24・おかえり

 僕の髪は容赦なく引っ掴まれ、身体は黒い海へと叩き落された。無様な着水音と、全身で跳ね上げた飛沫がぱらぱらと落ちる力強い音が、海岸を総べる寂寥と静寂とを打ち破る。


 海水は雨よりなお冷たく、どろりと僕の皮膚を撫でまわすように貼りついてくる。僕は尻餅をついたままの体勢で、膝の裏まで海水に浸される。冷然たる黒い水は芯をも冷やし、腹から込み上げる震えは止まらない。だがこれは当然の報いだし、僕はこれから彼女にされる全てを受け入れるべきだ。


「さっきまで何を聞いてたの?」シロは水を蹴り僕へ浴びせる。蹴り飛ばされた冷水は目と鼻と口から僕の内部へ入り込み、何度も反射的にむせてしまう。立ち上がれば飛沫は凌げる。しかしそうすれば再び髪を掴まれて叩き落とされるだろう。シロの焼けつく瞳は何度でも叩き落としてやると力強く言っていた。

 だが叩き落とされてばかりでは、話を進められない。後でいくらでも沈められてやる、自ら飛び込んだっていい。僕は立ち上がることなく、塩辛さを喉に残す海水を吐き出した。


「奪った夜はすぐに捨ててくれていい。試したいことがあるんだ」

「さっきまで、なにを、きいてたの?」一語一語を噛み締めるように、根気強く言い聞かせてくれる。

「随分とお優しいリクエストをしてくれたものね。見えない事がどういう事か知らないから? ほんと不愉快だわ」シロは大きく足を振り抜いて、一塊になった飛沫が飛来し僕の喉を刺す。僕は俯いて両手を水底につき、肺が熱を帯びるほどに息を断続的に吐いて、どうにか水を捨てる。シロはというと、勢いをつけすぎて、軽くよろめいていた。


「頼む、お願いだよ。うまくいけば、僕だけじゃない。君もきっと喜んでくれる」

「私も?」足を止める。

「上手くいけば、だけど」

「……覚悟してたわね、落とされるの」その瞳孔から怒りは離れないものの、鳴りを潜めつつある。

「三回ぐらいは」

「いくら私でもそこまでしない」いや、する。

「僕への当たりが強いって自覚はあったんだね」

「自分をちゃんと見られないほど愚かに成り下がったつもりは無いわ」臆面もなく言ってのける。

「君は賢いからね」凍りついてしまいそうな身体でも、温かく笑えた。

「世辞は要らない」

「本音だったんだけどな。それで、夜のことなんだけど」

 ぴしゃりと冷水が打ち付けられる。

「君には不安な思いをさせてしまうけど」

 ぴしゃり。僕の声は水と一緒に飲み込まされる。

「いくらでも沈めてくれていいから」

 シロは海水をものともせず一歩踏み込み、僕の顔面に足裏を押し付け、そのままボールを転がすように僕を押し落とした。後頭部に砂の感触。海底を少しへこませて、僕は倒れきった。


 水中から水面を見上げると、月は点のようにしか見えず、その月が浮かぶ闇を目指して、僕の呼気がこぽこぽと昇っていった。

 僕はしばし溺れておいてから、座り直す。なんだか慣れてきてしまっていた。


「あなたを沈めて何になるのよ」心底呆れた声が海底まで響く。

「うーん。気が晴れる?」

「晴れない」シロは僕に手を伸ばし、僕はその手を掴む。立ち上がる僕と引き上げるシロが同時に力を込めて、ずぶ濡れの僕がずるりと海水から抜け出る。足首から下だけは海に沈めたまま。

 僕の体に吸い付いた海水たちがだらだらと肌を伝って帰っていく。


「ナイフを返してもらっていい?」

「ごめん、もう少し待って」

「わかった」

「えっと」

「うん」

「……目を離さないでね」

「約束する」僕は濡れた手でシロの左手を握る。シロは抵抗なく手を取られてくれた。

 シロは右手を胸元にかざし、手のひらを自分の方へと向けた。自らの手のひらを自らの両目に焼き付けるように凝視する。


 僕が見つめるその前で、シロの全てが薄まった。右手に握るシロの左手の感触はあるけれど、その感覚さえも錯覚と断じてしまいそうになるほどに、シロは黒に近くも決して異なる夜色に、夜風と等しい色に染め変えられた。

 シロは僕の右手の内に居ながら夜になり、あまねく世界に溶け込んで、居るはずにして居なかった。


 シロが見えなくなるのと比例して、シロの右手のひらがあるはずの空間が変容を始めた。そこに居た夜は、海のようにあらゆる色を飲み干して黒に近い無色へと塗り替える夜色は、大切に磨き上げた薄い薄い割れそうに薄い硝子のように、目に捉えられない確固たる存在になった。夜は夜色をなくし、透明になった。


 ……シロは本当に居るのだろうか。少女は本当に居たのだろうか? 僕の核心にあった確信に亀裂が入り、綻びが始まる。軽く握った手の内からは気の迷いによく似た感触が感じ取れるようで、感じ取れないようでもあった。

 何故この手は夜を握っているのだろう。薄れゆく感覚と迫りくる錯覚の中間を行く僕の認識を、僕は意識で押えつけるようにして、シロが居ることを僕自身に信じ込ませる他になかった。ふと気を抜けば、僕はきっと空気を手放す。


 凪いだ海から夜風が吹いて、僕の袖をそよと揺らした。右手に実感が戻る。


 シロ。


 夜の一部がシロの残影を描くように切り抜かれ、そのシロ型のシロは、決して夜ではない色で滲み、輪郭を得て、そして緑色のシロになった。大気と彼女との間には断固とした境界線が引かれ、少女は大気を打ち抜いて明瞭なる緑を、夜の色を寄せ付けない具象性を高らかに掲げていた。

 その右手は僕の袖を固く掴んでいて、袖から肘まで、僕の緑色のシャツは色を喪っていた。


「おかえり」

「ただいま」

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