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23・海の色、夜の色

 道は緩やかな曲線を引きながら続き、いつしか望遠塔は見えなくなった。


 夜男は僕らに加減した速度で車を走らせる。俯き花がゆらゆらと、過去へ背後へ飲み込まれていく。僕もシロも、今になってどっと押し寄せてきた疲れに身を任せ、変わり映えのしない景色をゆるゆると見流していた。

「そんな調子でも、眠らないんだな」ぽつりと夜男が言ったが、狭い車内では十二分に聞こえていた。

「疲れてるって分かるなら、話しかけないでよ」気だるげにシロが返す。

「すまん、独り言のつもりだった」

「そう」


 車の速度が少し緩み、軋む音も揺れ幅も、ますます小さくなった。

 俯き花の一本一本を明確に捉えられるようになる。どうせどの花も同じなのだから、この際しっかりと観察してみようか。あの花の茎を、別の花の葉を、異なる花の蕾を……バラバラに記憶していけば、僕の脳裏で全体像が一輪だけ組み上げられる。

 まずは根元。次に葉。更に茎。次いで蕾を支える首元。そして蕾を記憶に焼きつけようと試みた瞬間、景色から俯き花が消えた。


 入れ替わりに現れたのは、夜より暗く、空より重く、鈍く揺れ蠢く液体が、大地を飲み込むように注がれた光景。俯き花の燐光も、満月でも三日月でもない中途半端な月が落とす輝きも、この広大な液体にわずかな煌めきをさえ与えることはなかった。液体はそれらを深奥へと飲み干して、そのまま暗いはらわたの中にしまいこんでしまっているようだ。

 燐光を喪った一帯は、一際やるせない夜の匂いがこもっていた。


「海が見えてきたな」夜男が教えてくれる。彼もまた、海を見ていた。「馬鹿デカい水溜まりだと思えばいい」

「この向こうには何があるの?」とシロ。

「何もない」そっけなく男が答え。

「そっか」さらりと少女が理解した。

「見てみるか?」男が提案する頃には、背後へ首を回してみても、湛えられた膨大な黒い水が俯き花を根元まで隠してしまっていた。

「うん」あんな花でも姿を隠せば意外と寂しくなるもんだ。そんな事を考えつつ、僕は海を見ることにした。



 寄せもせず、返しもせず、滞留する。いま目の前にある巨大極まりない水の吹き溜まりは、僕が図鑑で見知った海によく似た他人のような存在だった。

 音はない。車は停留し、風は揺らす葉を喪い、微細なあれこれが息づく物音は海がまとめて飲み干した。ともすれば僕らの生きる音さえも、なくなりそうな夜だった。


「何も無いんだって、この向こう」裸足のシロが水際に立つ。小さな赤煉瓦色――夕日色――の少女が茫洋とした黒い水面の間際に佇む姿は、一つ目の目に見た逢魔時を連想させて、どうにも僕の心をかき乱した。

「危ないよ、シロ」剣呑な思いを呑んで、引き戻そうと試みた。ぺたぺたと足裏が砂を踏み、しかしやはりその音も水底に沈んで消える。

「塔からも、何も見えなかったよね」シロは帰らない。

「……うん」


 僕も波打ち際まで歩み寄り、腹立たしさをぶつけて水を蹴る。瑞々しい破裂音がぱちゃぱちゃと立ち、そして飛沫は海に沈む。

 クリーム色の滲んだ月明かりと、松明のようにくゆるシロの赤だけが闇を中和していた。僕に見えるのはシロの周囲と、自分の膝くらいまでだけだった。自分の足さえも闇に溶け込んでしまい、足裏に砂が触れる粒状の感覚だけが、足がまだあることを教えてくれていた。


「でも暗いから、よく見えないだけかもしれないよ」

「なんならこの海の色でも奪ってあげましょうか? そしたらちょっとは見やすくなるかもね」

「できるのかい?」

「全部は無理よ。馬鹿みたいに時間がかかる」

「でも少しだけでいいのなら、きっと奪えるわ。夜からだって奪えるぐらいだもの」

「夜から?」僕はぽかんとしてしまう。彼女が夜色になるところなんて、ついぞ見たことがない。

「馬鹿みたいにオウム返ししないでよ」シロは鼻白みながら、話題を切り出した自分と食いついた僕に腹を立てた様子で、嫌々ながら続ける。

「夜色を奪っても、私は見えないし聞こえないまま。それじゃ無意味でしょ? だから奪わなかったのよ」

「君が黒をまとったのは何度も見たし、声だって聞いた」雨に濡れた路面は黒かった。

「それは夜色じゃないわ、黒よ」シロは僕から距離を取る。黒い海岸と黒い水面の境界線に潰されそうになりながら、赤い少女はそっと居る。


「夜男は?」

「彼は不思議ね。たぶん、どこまでも夜に近い色をしているけど、かろうじて黒なのね。そもそも夜にしては騒がしすぎると思わない?」

 シロがしめやかに紡ぐ言葉は、ふわふわと感覚的でどこまでも感傷的で、透明じゃない僕には共感しがたい事柄ばかりだった。

 ただそれでも、分からなくてはならないと僕の義憤が告げていた。


「世界は夜に満ちている、夜をまとえば夜に埋もれて、おしまい」おしまい。その四文字を、彼女は小雨のように落とした。

「もし夜色の私が声をあげたとしても、あなたには夜風が俯き花を揺らす音にしか聞こえない。そして私の代わりに、あなたの眼前を埋め尽くす夜の一端が、かすかに薄れて黒になるの」

「割に合わないね」

「ええ、馬鹿な話よ」シロはあきれ笑う。「夜色の中に、わずかに違う黒の空間が、ぼんやりとあるようになるだけ」


 でも夜を奪うことはできるのか。少しだろうと夜が透けるのか。それなら。


 僕は追い縋るようにシロへ近づく。彼女は僕を一瞥するも、何を勘違いしたのか、大丈夫だと言いたげに肩をすくめるだけだった。心臓に針が刺さる感触。

「……ま、誰がやるかって話よ」

「やってみてくれないか」

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