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30 私の冬

 冬休みが始まって、一穂は図書館で勉強していた。

 わざわざ寒い中家から出たのは、気分転換も兼ねていたからだ。

 館内は暖房が利いていて過ごしやすく、他にも結構人がいる。

 その多くは勉強中だが、読書中の人や睡眠中の人もいる。


 どさっ。


 一穂は持ってきていた鞄を置き、数学の問題集を手に取った。

 数学は基本問題が中心だが、数学と実生活を繋ぐ問題を愛ちゃん先生が作ってくれる。


 例えば、午後5時に家を出て最寄りのコンビニまで週刊誌を買いに行きました。家から500メートル離れた所にあるコンビニについたのは5時15分でした。そこで10分買い物をしてから、限定版の漫画が発売する日だったのに気が付きました。コンビニまでと同じ速度で歩き、5時45分に書店に到着しました。無事に漫画を買い終えたのは5時50分。6時から始まるアニメ勇者ぴろりんを見るためには時速何メートルで家まで走る必要がありますか?尚、移動経路は行きと同じとします。


 実用的な問題なので、やる気が出る。

 数学の後は理科と社会の暗記。真理に新しい問題集を買っておらったので、さらに暗記している。殆ど問題はかぶっているが、表現方法が違うので理解力向上に役立つのだ。


 国語はノート丸暗記だ。受験では使えないので、対策が必要なのだが、保留にしている。実力が向上していると信じたい。


「ふう」


 英語の問題集を机にぽんっと置いた。

 ぱらりと捲る。

 左に長文、右に和訳がある。


 ミズ先生の発音講座で、あいうえお以外の子音と呼ばれる発音を1段落させた一穂は長文読解を中心にした学習をこなし始めている。日本語とは使う舌の筋肉が違うらしく、何度も発声しないと音が正しく出ない。素振りのようなものだから、毎日発声練習は欠かしていない。最初はたまに部屋の側を通り過ぎる和也や真理の足音に恥ずかしさを感じていたが、1か月もすると慣れた。


 音で覚えるというのは確かに強力だった。フィッシュという単語もfの発音とshの発音を知っていれば単語もすんなり頭に入る。今は長文を脳内で和訳せずに理解する訓練中だ。

 長文の中に出てくるわからない単語に線を引き、全て辞書をぺらぺら捲って調べる。


「はいはいっと」

 シャーペンを滑らせ、単語の意味は問題集の余白に書いていく。知らない単語が多すぎて、小さい字で書いているのに余白が真っ黒になる。

 姿勢を正し、長文を黙読する。


「ん?」

 意味が分からなければ即座に右ページの単語や和訳を見る。そしてひたすら読む。何度も読む。料理人が美味しいパスタを作ろうと試行錯誤している話だ。発音と意味を気にしながら読んでいくのは社会や理科の暗記作業に似ている。


 ふぅ。


 息を吐いて辺りを見渡すと、辞書のように太い本の詰まった本棚や空席の机ばかり。

 小声で意味を理解した英文を読んでいく。2本の紐がゆっくり絡み合っていくように英語と意味が直接繋がっていく感覚が気持ちいい。

 最後は長文で知った事や感想、その日の事を書く。


『私は彼のパスタを食べたい。』

 1行の単純な英文。ミズ先生によると、1文でも毎日できれば拍手喝采らしい。

 おかげさまで英語の試験では英単語の部分以外で点数上の変化は殆どなかったが、試験中に飽きずに集中する事はできた。長文を読んで読んで読みまくったのだ。因みに、中2の範囲はまだやっていなくて、中1の教科書を読んでいる段階だ。


 中2の2学期期末試験は国語学年11位、数学学年102位(クラス14位)、理科学年6位、社会学年2位、英語学年220位だった。


「休憩しようか」

 すでに1時だ。

 鞄に勉強道具を入れ、図書館を出てコンビニに向かう。

 図書館近郊の公園には冷え込みのせいか人がいない。

 もう12月で気温も1桁だから仕方ないのかもしれない。


 コートを着ていても身体の芯が傷む程の寒さに耐えながらコンビニでおにぎりを買う。

 明太子マヨネーズだ。

 寒気で鈍る手で包装を取り、コンビニ前のゴミ箱に放り投げた。

 米を噛みちぎる。


「おいしい」

 いい米使ってるな、コンビニなのに。

 自然と顔が綻び、委縮した身体が少し緩む。

 食べながら図書館に帰る道、やはり公園には誰もいなかった。


「冬にこんな所にいたら凍死するか」

 温かい図書館に戻った一穂は歩みを止め停止した。

 映画を一時停止したかのように、固まっている。


「もしかして、図書館にいる……?」

 誰でも利用できる暖かい公共機関である図書館を徘徊する一穂。

 机に頭をつけて眠る中年を発見した。

 見覚えのある小汚い服と清潔感のある匂いだ。

 一穂はその近くで勉強をし、中年が起きるのを待った。


「あ、横井さん」

 中年が起きたのは閉館間際の午後6時だった。

 手早く机の上を片付けてから、立ちあがる。


「お久しぶりです。河野さん」

 河野は寝ぼけ顔で照れくさそうにしていた。

 一穂は何を質問しようかと頭を回転させる。


「冬はここで寝てるんですか?」

 質問に少し驚いた表情をし、それから小さく笑った。


「ホームレスの冬は過酷だからね」

「はい」

 家の中でも寒いのに、野外であればどうやって耐えるのか想像がつかない。

 疑問が渦巻く頭で河野を眺めていたら、察したのか説明してくれた。


「この時期は昼に寝てるホームレスがいるね。夜は歩き回ってたり、24時間営業の店にコーヒー1杯で粘ったりね。ただし、清潔感がないと周りに迷惑だから、身なりにはかなり注意してる人が殆どかな。ホームレス社会の暗黙の了解ってやつだね。もちろん守らない人もいるけど」


 河野がホームレスらしくない匂いだった理由を垣間見た気がした。

 照れくさそうに頭を少し掻いて、河野は話を続ける。


「でもね、こういうのは少数派だよ。大体は夜に自分のテントや段ボールハウスで寝てる。山田さんはこの時期、将棋教室で寝泊まりしてるし。他には生活保護の申請組や軽犯罪起こして牢屋暮らしの人もいるね。軽犯罪法の『生計を立たせる見込みがないのに、働く能力があるにも関わらず仕事をせず、住所も持たずうろついている罪』だからと警察署に駆け込んだ人もいたっけ。どうなったんだっけ……。まぁ、食も寝床も保障されてる分、過ごしやすいのはわかるけどね」


 ホームレスにとって監獄は居心地のいい場所になり得るのか。

 一穂は驚いて、目を丸くしていた。


「厳しい事だけど、ご飯も野外だと限られてるでしょ。廃棄処分される弁当や総菜も冬はなぜか少ないし。段々、勝手に食べられないように処理されたりゴミ箱に鍵かけたりしてる事もあるし」

 ホームレスだからゴミ箱を漁るのも違和感がないはずなのだが、小奇麗な恰好の河野が言うと似合わない。

 一穂は顔を引きつらせていた。


「自分の分が確保できなくなる可能性を危惧して周りと距離をとる人もいるんだけど、それだと食糧が安定しないから、僕の所みたいに分け合って生活してるところもある」

「はい」


 今日は一段とホームレス生活の苦労を話す河野。

 冬だからこそ実感を持って過酷さが理解できる一穂。

 精神を落ち込ませる重い空気が流れた。


「もうすぐ閉館時間だね。つらい話ついでにもう1つ忠告しておこう」

「はい」


 河野は山田と将棋をしている時の真剣な顔をした。

 一穂は身震いした。


「この時期は特に職を得て自立したいホームレスが増える。でも、甘い言葉で向こうから声をかけてくる仕事の手配屋『赤服の柴田』には注意しなさい。なんやかんやで文句を付けて給料を払わなかったり、逆に住み込みの費用として給料以上を要求したりと危険だからね。廃品回収でも不定期バイトでもいいから自分から探す方がいいよ」


 ホームレスに対する世間の目は冷たい。最底辺をさらに落とそうとする人もいるのだ。

 酸いも甘いも知る河野がここまで一穂に優しいのは何故だろう、と思案した。

 こんなに赤裸々に語るのは過剰ではないだろうか……。


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