大陸中に響く祝福の鐘と、愚か者たちの完全なる終焉
グランツ帝国の厳しくも美しい冬が終わりを告げ、帝都ツヴァイベルクに柔らかな春の風が吹き始めた頃。
私とユリウス様の結婚式の準備は、いよいよ佳境を迎えていた。
「素晴らしい……! セレナ様、この大陸で貴女ほど『星紡ぎの絹』を着こなせるお方はおりませんわ!」
公爵邸の広大な衣装部屋で、帝国随一と謳われるお抱えの筆頭仕立て屋、マダム・ロゼッタが興奮したように声を張り上げた。
私の全身を包んでいるのは、国宝級の魔力を持つとされる星蜘蛛の糸で織り上げられた純白のウェディングドレスだ。光を浴びるたびに、生地そのものが星屑を散りばめたように淡く輝き、幾重にも重ねられたレースには、精霊の加護を祈る緻密な刺繍が金糸で施されている。
胸元から裾にかけては、ユリウス様の瞳と同じ色をした最高級のアメジストが、朝露のように美しく配置されていた。
鏡の前に立つ自分の姿が、まるで別人のように見えた。
エルミナージュ王国にいた頃の私は、常に地味で目立たない暗い色のドレスばかりを着せられていた。「派手な格好は小言ばかりのお前には似合わない」と、レオンハルト元王太子に嘲笑われていたからだ。
けれど、今は違う。私が少しでも美しく見えるよう、何十人もの職人が何ヶ月もかけて、一切の妥協なくこの一着を作り上げてくれたのだ。
「本当に、綺麗……。皆様、私のためにここまでしてくださって、ありがとうございます」
「何を仰いますか! 帝国の農業改革から流通網の整備まで、この数ヶ月でセレナ様がもたらした恩恵に比べれば、ドレスの一着や二着、安いものですわ!」
マダム・ロゼッタが胸を張って答えたのと同時に、控え室の重厚な扉がノックもなしに勢いよく開かれた。
「セレナ! そろそろ休憩に……」
入ってきたのは、漆黒の軍服から、結婚式用の豪奢な白い礼装に着替えたユリウス様だった。
彼は私を見た瞬間、ピタリと動きを止め、信じられないものを見るかのように目を見開いた。普段の冷徹で完璧な「氷の死神」の面影はどこにもなく、ただ愛する女の美しさに魂を奪われた、一人の不器用な青年の顔がそこにあった。
「ユ、ユリウス様? あの、おかしいでしょうか……?」
沈黙に耐えきれず、私が不安になって尋ねると、彼はハッと我に返り、ツカツカと大股で私に歩み寄ってきた。
「……駄目だ」
「えっ?」
「美しすぎる。こんな姿を大勢の有象無象に見せるなんて、私が耐えられない。今すぐ君を寝室に閉じ込めて、一生私だけのものにしてしまいたい衝動と戦っている」
ユリウス様は真剣な顔でそんな恐ろしいことを言い出し、私の腰をグッと引き寄せて、露出した肩口に熱いキスを落とした。
「ひゃっ……! ユ、ユリウス様、マダムたちが見て……!」
「構わない。私がいかに君に夢中か、大陸中に知らしめる結婚式にするのだからな」
真っ赤になって抗議する私を、マダムや侍女たちは「まあまあ」「お熱いことですわね」と、生温かい、けれど心底嬉しそうな笑顔で見守っていた。
こんな平和で、愛に溢れた時間が私に訪れるなんて、半年前には想像すらしていなかった。
「……そういえば、閣下」
ふと、ユリウス様の背後に控えていた側近の騎士、クラウスが恭しく口を開いた。手には一通の報告書が握られている。
「先ほど、西の国境警備隊から例の件について最終報告が上がってまいりましたが。奥様のお耳に入れてもよろしいでしょうか」
「ん? ああ……『あの女』の件か。セレナが聞きたいなら構わないが」
ユリウス様が私の顔を覗き込む。
あの女。すなわち、エルミナージュ王国を完全に破滅へと追いやる最後の一押しをした、男爵令嬢リリア・フローレンスのことだ。
レオンハルトや私の父が魔石鉱山へ送られたことは知っていたが、国庫の残金と宝物庫の宝石を根こそぎ持ち出して逃亡したというリリアの行方は、これまで知らされていなかった。
「……教えてください。私の過去に、きちんと最後の一線を引くためにも」
私が頷くと、クラウスは淡々と報告書を読み上げ始めた。
「リリア・フローレンスは、王国の宝を持ち出した後、隣国の悪徳商会に取り入り、自らの『光の魔法』と色仕掛けで豪商の愛人の座に収まろうとしたようです。しかし……」
クラウスはそこで一度言葉を切り、冷ややかな声で続けた。
「彼女の『光の魔法』とやらは、王国の過保護な温室でしか通用しない、ただの初歩的な生活魔法レベルの代物に過ぎませんでした。魔力制御の基礎すら学んでいない彼女は、隣国の厳しい魔法基準では『見世物以下の無能』と判断されたのです」
「……」
「結果として、彼女は豪商にすべての財産を巻き上げられた挙句、『価値なし』として裏社会の奴隷商に売り飛ばされました。そして数週間前、帝国の闇市場の摘発の際に我が軍に保護――いえ、捕縛された次第です。彼女は現在、帝国への莫大な賠償金を返済するため、北方の極寒の地にある軍事要塞で、下働きとして朝から晩まで床磨きと残飯処理に従事しております。かつての美貌は見る影もなく、毎日『私は聖女よ! 殿下を呼んで!』と泣き叫んでいるとのことですが、誰も相手にしておりません」
それが、自分を悲劇のヒロインに見立て、他人を蹴落とすことしか考えていなかった少女の末路だった。
能力がないなら、努力すればよかったのだ。知識がないなら、学べばよかったのだ。それすらもせず、他人の功績を奪い、甘い言葉に寄りかかって生きようとした結果がこれだ。
「……そうですか。報告、ご苦労様でした」
私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。
同情もない。怒りもない。ただ「そうなるべくしてなった」という冷厳な事実への納得感しかなかった。
「気分を害したかい? セレナ」
「いいえ。むしろ、心が晴れやかですわ。これで本当に、私の過去を縛っていた因縁はすべて消え去りました」
私が微笑みかけると、ユリウス様は安堵したように息を吐き、私の額に優しく口づけた。
「さあ、過去のゴミの話は終わりだ。これからは、私たちの輝かしい未来だけの話をしよう」
そして迎えた、結婚式当日。
帝都の中央にそびえ立つ、大陸最大規模を誇る『聖グランツ大聖堂』は、建国以来の大熱狂に包まれていた。
大聖堂に続く大通りには、何十万人という帝国民が詰めかけ、色とりどりの花吹雪を空に舞い上げている。
「セレナ様、万歳!」「大公閣下、万歳!」「帝国の至宝に祝福を!」
地鳴りのような歓声が、馬車の窓をビリビリと震わせた。彼らは、私が考案した政策によって生活が豊かになったことを知っており、心からの感謝と祝福をぶつけてきてくれているのだ。
大聖堂の内部は、さらに圧倒的な光景だった。
帝国の高位貴族たちはもちろんのこと、近隣諸国の国王や皇族たちが、帝国と、そして帝国の新たな頭脳である私との繋がりを求めて、こぞって参列していた。参列者の数は優に一万人を超え、ステンドグラスから差し込む光が、彼らの豪奢な衣装を照らし出している。
そして、祭壇の一番高い場所には、グランツ帝国の絶対的支配者である若き皇帝陛下――ユリウス様の実の兄君が立っていた。
皇帝陛下は私が祭壇に歩み寄るなり、威厳ある声で、しかしどこか親しげに笑いかけてくださった。
「義妹よ。我が愚弟が、よくぞ貴女のような傑物をこの帝国に連れ帰ってくれた。貴女の知恵は我が帝国の宝だ。これからは家族として、共にこの国を繁栄に導いてほしい。……ユリウス、この先一生、彼女の前に跪き、愛を捧げ続けると誓えるか?」
「誓います。私の命、魂、そのすべては、彼女を幸せにするために存在しています」
ユリウス様の迷いのない、力強い宣誓が、大聖堂に響き渡った。
参列者たちが息を呑むのがわかる。「氷の死神」と呼ばれた男が、一人の女性に全存在を懸けると公言したのだ。
「セレナ。貴女は、この男の愛を受け入れ、共に歩むことを誓うか?」
皇帝陛下の問いかけに、私はまっすぐにユリウス様のアメジストの瞳を見つめ返した。
そこには、私を世界で一番愛おしいものとして見つめる、不器用で、一途で、どこまでも深い愛情が揺らめいていた。
私を虐げ、利用するだけだった故郷の記憶は、もう完全に色褪せている。
私には価値がある。私を必要としてくれる場所がある。そして何より、私を魂の底から愛してくれる人が、今、目の前にいるのだ。
「はい。私は、生涯をかけてユリウス様を愛し、共に歩むことを誓います」
私の返答とともに、大聖堂の鐘が鳴り響いた。
大陸全土に響き渡るかのような、荘厳で、祝福に満ちた鐘の音。
ユリウス様が私のベールをそっと持ち上げる。
「愛している、私のセレナ。世界中の誰よりも」
「私もです、ユリウス様」
重なる唇。歓声と拍手が波のように押し寄せ、光の魔法使いによる無数の光の粒が、天井から雪のように降り注いだ。
それは、どんなおとぎ話の結末よりも美しく、完璧な瞬間だった。
その日の夜。
公式の晩餐会と舞踏会を無事に終え、私たちはついに、二人きりの新居となる大公邸の主寝室へと足を踏み入れた。
重厚な扉が閉まり、静寂が訪れる。
部屋の中は、ほのかに甘い香油の匂いと、暖炉のパチパチという音だけが響いていた。
ドレスから薄絹のナイトガウンに着替えた私は、ふかふかの巨大なベッドの端に座り、鼓動が早鐘のように打つのを感じていた。
これまでユリウス様からの溺愛には慣れてきたつもりだったが、いざ「初夜」となると、やはりどうしていいかわからない。両手をぎゅっと握りしめていると、シャワールームから出てきたユリウス様が、私の隣に腰を下ろした。
少し濡れた黒髪が色っぽく、はだけた胸元からは鍛え上げられた美しい筋肉が覗いている。
「……疲れただろう、セレナ」
「い、いいえ。とても素晴らしい一日でしたから」
強がる私を見て、ユリウス様はふっと優しく微笑み、私の頬にそっと手を添えた。
親指で私の唇をなぞるその手つきは、恐ろしいほどに甘く、熱い。
「ようやく、君を誰の目も届かないところに閉じ込めることができた。……今日の君は、本当に美しかった。世界中の男たちの視線を引き抜いてやりたい衝動を抑えるのに、どれだけ苦労したか」
「ユ、ユリウス様……っ」
「君が私に与えてくれた幸せの分まで、今夜は、いやこれからの毎晩、君を甘やかして、愛し尽くすからね」
彼の顔が近づき、甘い吐息が私の唇を塞ぐ。
先ほどの誓いのキスとは違う、深く、熱を帯びた大人の口づけ。
抵抗する気など、最初からなかった。私は彼の大切な妻なのだから。
私はユリウス様の広い背中に腕を回し、その熱に身を委ねた。
かつて、私を捨てた愚か者たちは、今頃冷たい石の床で絶望の涙を流していることだろう。
彼らがこれからどれだけ過去を悔やんでも、もう遅い。覆水盆に返らず、壊れた国が元に戻ることは永遠にないのだから。
けれど、そんなことはもう、私には一切関係のないこと。
私はこれからも、私の価値を最も理解し、私を心の底から求めてくれるこの腕の中で、とびきりの愛を受けながら生きていく。
捨てられ令嬢と呼ばれた私の人生は、今日この日をもって完全に終わりを告げた。
明日から始まるのは、グランツ帝国大公妃としての、光り輝く幸せな物語だ。
(どうぞ皆様、さようなら。そして……私の愛しい人、これからもずっと、よろしくお願いしますね)
心の中で過去への決別と未来への祈りを紡ぎながら、私は大好きな人の温もりの奥深くへと、静かに堕ちていった。




