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 エルミラはミンダート家からの再三の呼び出しを受け流していた。だが、とうとう、村にまで押しかけて来た。

「お久しぶりにございます、エルミラお嬢さま。お迎えに上がりました」

 恭しく一礼する初老の男性は、古くからミンダート家に仕える者だ。如才なくアルノたちにも挨拶する。

「なかなかご実家にお戻りになられず、ご家族のみなさまがぜひともお会いしたいとお待ちしております」


 周囲にたまには実家に帰ればどうかという風に仕向けられ、そろそろ一度家族と向き合ってきちんと話してこようとエルミラも考えた。

 それぞれ家族と離別し、自分の道を歩もうとしている子供たちの姿を見て、いい大人であるエルミラも考えるところがあったのだ。


「家族はおそらく、結婚相手を幾人か用意していることだろう」

「そ、そんな、エルミラさま、もう戻って来られないのですか?」

 エルミラの信奉者を自称する学者が、その場に膝をつく。

「いや、わたくしは学者を辞める気はない。そのことを伝えてこようと思う」


 エルミラはいっそ、結婚相手候補を協力者にする意気込みで実家へ向かった。アルノが言っていた敵対するのではなく、協力体制をつくるのだということが念頭にあった。

 馬車に揺られながら、意識はどうしても家族のことにいく。


 エルミラは末子で大事に育てられた。両親も兄姉たちも、エルミラをとてもかわいがってくれた。

「これほど愛らしい子はいない」

「きっと素晴らしい家に嫁ぐことでしょう」

 両親も兄姉たちも、女性の幸せは良い縁談にあると頭から思い込んでいた。

 エルミラは十代半ばから磨き抜かれた珠のように輝かんばかりの姿に成長していったものだから、期待は否が応でも増した。

 けれど、父の兄弟の末子である叔母が嫁ぎ先から戻って来たことから状況は一変する。


 父は長子であったから、エルミラの家族は祖父母とともに暮らしていた。そこへ叔母が加わった。両親はなぜ叔母が戻されたのか、エルミラに話さなかったが、当の本人が語った。

「可愛いエルミラ、あなたはどんな人と縁づくのでしょうね」

「きっと引く手あまただ」

「望まれて嫁ぐのね」

「誰もが羨む結婚生活を送るのだろうな、きっと」

 両親や兄姉のみならず、祖父母も同じように言ったことが、叔母の傷心をえぐったのだと、後になってわかる。


「本当に愛らしいエルミラ。きっと、わたしのように子供ができないからといって罵られることも、離縁されて戻されることもないのでしょうね」

 経験不足のエルミラにはなんと言えばいいのかわからない。だが、幼いながらも聡明さを発揮しつつあったため、女性にはこういうことがままあるのだということを察した。

 女性の役目のひとつとして出産がある。男女どちらともに原因を持つ可能性があるはずだが、女性が一方的に責められるのだ。


 婚家で責め続けられた叔母はその鬱憤を晴らすかのように執拗にエルミラを口撃するようになった。

 両親に話したが、「あの子は可哀そうな子なの。堪えてあげてちょうだいね」「エルミラが嫁ぐまでのわずかな間だけだから」と言うばかりだ。なんとなく、エルミラには素晴らしい結婚生活という未来があるのに、叔母にはそれが(つい)えてしまったのだから、という言外の意味合いが読み取れた。


 エルミラの結婚生活が幸せかどうかなんて、分かりようもない。第一、両親は幸せだとしても、エルミラ自身がそう感じるかどうかも分からない。そのころから、両親とは価値観が違うと感じ始めていたから、より一層そう思えた。


 エルミラはとにかく、いつするか分からない結婚を待つよりは、と学院に入学することを希望した。

「そんな、女の子なのに、」

「いいじゃないですか、お母さん。今は女性も学ぶ時代ですよ」

「そうね。エルミラはとても賢いもの。なのに、外見だけだと思われないように、きちんと実績をつくっておくと、婚家でも尊重されてよ」

 兄姉が援護してくれ、エルミラは学院に通うことができた。


 学んでみると、学問の面白さにのめりこんだ。狭い世界で生きていたのだということがわかる。目の前が開けたような気がした。それまで漠然と抱いていた違和感は世界とのずれによるもので、知識によって解消される。


 貪欲に学ぶエルミラに、男子生徒が水をさす。

「ミンダートさんは可愛いんだから、そんなに必死になって勉強する必要はないよ。それよりも、食事はどう?」

「この街では劇場がいくつもあってね。一度観に行かないかい?」

「ミンダートさんならきっと最先端の服を誰よりも着こなせるよ。せっかく綺麗なんだから、そんな野暮ったい服装なんてやめなよ」

 これがまだ、博物館や図書館であれば、エルミラも頷いただろう。けれど、興味を覚える誘いはなく、だから断った。

 誘いを断っただけなのに、自分自身を拒絶された、否定されたとひとりでどんどん負の感情を膨らませた男子生徒たちがエルミラの悪い噂を流した。


 エルミラは勉学に邁進していたから、周囲は噂に懐疑的だった。わずかにいた女子生徒も、嫉妬しようにもあまりにも圧倒的な美貌の前には、そんな気も失せた。差が大きすぎると、対抗心は持ちようがなかったのだ。

 また、エルミラは男女関係なく、勉学について語った。それまで、家同士の付き合いしかなかったので、学問について話すことはなかった。だが、今の環境は違う。学院内であれば、周囲にいる人間はすべて学問について話しかけられる相手とみなしていた。だから、恋愛の要素が入る余地はなかった。


 それは、叔母に口撃されていたことも原因となっていた。恋愛沙汰にうんざりし、遠ざかるためにやって来たというのに、ここでもまた持ち出され、断ったら悪く言われる。エルミラにも決定権があるはずなのに、自分が願えばその通りになると思っているかのような振る舞いに辟易となった。相手の男子生徒の経験不足によるものだったが、エルミラには分かりようもない。


 そんな風に学問に集中したエルミラは優秀な成績を収め、学院によって大学の推薦状を得るまでに至った。

 エルミラは両親を説き伏せ、大学に進学した。ここでも、いや、学院に入学するよりも強く反対されたものの、エルミラは母方の祖父母から受け継いだ財産を使ってでも行くと強硬に言い張った。

 母方の家系は資産家で、特に可愛がった孫娘のエルミラにまとまったものを遺してくれたのだ。


 意外なことに、叔母がエルミラの進学を賛成した。その理由は、大学に入学する日の朝に判明する。

「大学を卒業した頭でっかちの女なんて、きっと殿方は嫌がるわ。これであなたも婚家で煙たがられるわね」

 叔母からすれば晴れやかな笑顔のつもりだったのだろうが、「ざまあみろ」という表情はとても醜いものだった。

「叔母上には感謝している」

 エルミラはそれだけ言って家を去った。それから、あまり実家には帰っていない。

 叔母に感謝しているのは本当のことだった。理由はどうあれ、進学することの後押しとなったからだ。そして、叔母とは別の理由で、エルミラは結婚に夢を抱いていない。

 その思いは大学で学ぶうちにより強くなった。


 大学では学年が上がるにつれ、教わるだけでなく、成果を求められるようになった。その成果を挙げても、女性がなし得るものではないとして、共同研究者の手柄とされるのだ。

 悔しかった。腹が立った。

 学問とは純粋に世界の仕組みを解き明かすものだと思っていたのに、そこには人の思惑が色濃く混ざりこんでいるのだ。


 さらには、学師の称号を得たエルミラに、愛人になれば修師にしてやろうという博師もいた。

「性別を武器にすれば、君は十分に高位の称号を得ることができる」

 その腫れぼったい瞼を押し上げる吊り上がった眦をした博師は二重にエルミラを侮辱した。


「彼女はそんなことをしなくても、みながその有能さを認めるさ」

 そう言ったのは当時修師であったアルノだ。アルノはエルミラが光魔法の精密な操作を行うと知り、顕微鏡の研究に協力してほしいと言った。

「今後の生物学は、顕微鏡の能力向上によって発展速度が左右される」

 その言葉はエルミラには福音となった。これほど魅惑的な響きの誘い文句があっただろうか。エルミラは一も二もなく飛びついた。


 なお、アルノはまだ試作段階だった光魔法顕微鏡によって細胞の固定法および染色法を発明してしまうのだから、天才とはとにかくとんでもないと大いに驚かされたものだ。そして、彼は博師の称号を得た。


 当時の学問の中心は魔力学だった。魔力というエネルギーをどのようにして有効活用するかが広く研究されていた。

 たとえば、植物を農業上利用することは多かったが、どんな生理作用を持つかを研究する者は少ない。その研究をしても金銭を生み出すことは少ないとみなされ、なかなか研究費が下りなかったからだ。

 だが、良いこともある。魔力学が盛んになることによって魔力を利用したさまざまな器具が発明された。そのひとつが光魔法顕微鏡である。


 連綿と続く顕微鏡の発明と発展によって、多くの発見がもたらされた。細胞の発見が最たるものである。

 生物学者たちは、人間や動物だけでなく、昆虫や植物までもがこの細胞を持つことを知り、驚愕した。

「細胞は生命の基本構造だ」

 細胞は生物の最小単位でもある。様々な種類があり、大きさもまちまちで、目には見えない。人は知覚するのに視覚に大いに依存する。見えなければ研究は進まない。そこで、顕微鏡が活躍した。


 研究がすすめられ、ついにはアルノは細胞を染めることによって特定する手法を生み出した。

 これは生物学と同時に染色という化学技術の向上をも意味した。

 無色透明の細胞を固定し、染色するという手法は、細胞構造を明らかにし、博師の称号を得た。


 エルミラは、以前からアルノの弟子を自称していたレファートの仲介によって商人と工学者ともに共同開発した顕微鏡の性能が認められ、修師の称号を得ることができた。

 この顕微鏡は波長が長い光を用いることで、体内の深部にまで光を届かせることに成功した。生物が生きた状態で体内を見ることができる顕微鏡によって病気の解明や創薬を可能にした。

 レファートはアルノ用に特注の組み立て式を作らせた。携帯用で簡易式ではあるが、持ち運べるものは世界でもアルノが持つもののみだ。


 アルノが擁護してくれた通り、エルミラは自身の力で上の称号を勝ち取ったのだ。

 自分の力を正しく認め、その人の信頼に応えようと励み、そして成果を出す。

 この一連の出来事はとても爽快で、快感だった。

 エルミラはそのころには自分もまた、アルノの弟子だと称した。高身長の商人兼学者のレファートがなにかと張り合ってくるが、彼は決してエルミラを女性だから云々とは言わない。それがとても心地よかった。


 アルノの周囲の学者たちは多様な人々がいたが、みんな学問に夢中だという共通点があった。

 中にはエルミラの信奉者だと言い出す者もいたが、特になにか仕掛けることはなく、会えば称賛されるくらいだった。実に害がない。


「アルノ君が論文を出すと学界が大荒れになるから、彼の発表が実に楽しみだ」

 笑ってそう言うピートはアルノよりも年上だが、修師と学位は下だ。それでいてアルノに対して屈託はなく、女性の身で同じ称号を取ったエルミラにも純粋な祝福の声をかけてくれた。


「先を越されました」

 エルミラよりも遅れて修師の称号を得たハンクは平気そうにしながらも、悔しさを隠しきれない様子だったが、ほかの学者の嫉妬まみれの陰口に比べれば可愛いものである。


 アルノの傍はこんなにも心地が良い。さらには、彼の明晰な論理は茫洋とした世界にくっきりとした筋道を与えた。アルノとの議論は新たな観点を与えてくれる。これほど自分を高めてくれる人間はきっといない。

 エルミラにはアルノが必要だった。

 誰よりも、この人の役に立ちたい。この人の傍にいたい。

 いつしかそう願っていた。


 けれど、時折どこがどうとは明確には分からないが、アルノの考えとの乖離を垣間見ることがあった。

「我が師は称賛を好まないのか」

 だが、それとも違うようだ。もどかしかった。


 アルノは過去の天才たちと並び称されるほどの偉業をなしている。この先もきっと多くの者とともに成し遂げるだろう。

 両親の言う幸せな結婚とやらをアルノとはともにできないかもしれないが、学問の世界で隣に立つこと。それこそがエルミラの願いだ。


 エルミラに称号の代わりに愛人関係を持ち掛けた博師は、親子ほども年下のアルノが様々な発明を行い、論文を発表することが非常に業腹だった。

 そして、ひとりひそかに危機感を抱いた。いずれ自分の地位を脅かすに違いないと。その博師は研究よりも学内政治に精を出した。そして、実際、学問よりも学内政治には手腕を発揮したのだ。

 複雑な人間関係の構造において、弱みを掴み、あるいは金銭をばらまき、とうとうやってのけた。ゴッドフリート大学の学長に就任したのである。

 そして、就任早々、アルノの細胞固定法および染色法に関する論文発表を、大学の利益を損なう情報開示だとして妨害しようとした。着任後すぐのことだったので、学内から反発する声が上がったため、引かざるを得なかった。そこで、マークはまず大学内を掌握するために奔走するのだった。



「すらいむにぴーがぶっささっている!(包み紙にPと書いている棒付きキャンディーがぶっささっている感じ)(※注)」

「すらりん、こんなところに!」

「リン酸は様々な働きをするよ。リン酸化現象だね」

「だからりんさんがくっついたすらりんはかしこいんだね!」

「すらぴー!」


(※注:「分子細胞生物学 第8班」LODISH・BERK・KAISER・KRIEGER・BRETSCHER・PLOEGH・AMON・MARTIN 訳:榎森康文・堅田利明・須藤和夫・富田泰輔・仁科博史・山本啓一 東京化学同人 p599図15・7,p790図19・16参照)




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