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広大な敷地には、精緻な装飾がほどこされた石造りの建物が点在している。
ゴッドフリート大学には校舎のみならず、温室や畑、飼育小屋といったさまざまな施設が充実している。そのほか、器材も増え、実験実績も上がりつつある。それに比例して、優秀な人材が集まるようになった。
学長室から窓外を見下ろし、本を胸に構内を歩く学生や器材を抱えている学者の姿に、愉悦に浸る。腫れぼったい瞼を押し上げる吊り上がった眦が、今は下がりっぱなしだ。
「この分ではバーナデット大学を大きく引き離すことも、そう遠い未来のことではあるまい」
バーナデット大学の学長の悔しがる姿を想像すると笑いが止まらない。だが、マークの甘い夢想は長くは続かなかった。
ノックがされ、答えた直後に扉が開く。
「学長はいるか?!」
不躾な態度は不快なものだったが、今の豊かな施設、器材はこの性急な訪問者の手腕によって揃えられた。不満を押し殺してにこやかに対応した。
「やあ、カトリエン君。戻ったんだね」
ダークブラウンの髪を常になく乱し、キャメル色の瞳には険しい光が宿っている。その眼光の鋭さに、マークは気圧されそうになるが、なんとか態勢を整えようとした。
「ええ、ただいま戻りました。出かけているわずかな間に師が放逐されているなんて、夢にも思いませんでした」
言外にありありと、自分の不在を狙っての所業だろう、と追及する意図が読み取れる。淡々と話すものの、整った容姿は静かな怒りと相まってより凄みを持っている。
マークの虚勢は早くも崩れかけていた。
「放逐なんて、まさか! 彼のことだから、その、そう、なにか興味をひかれて出かけて行ったのではないかね」
我ながらいかにもありえそうな言い訳を思いついたとマークは安堵したが、洞察力に優れた相手をごまかせなかった。
「そうだったらいいのですがね。それで、どこへ向かったんですか?」
「だから、その、ふらりと出かけて行ったので、」
「まさか、知らないとでも?」
ダークブラウンの眉がぴくりと動く。瞳にはいよいよ厳しい光がいや増し、それに射抜かれて、マークはしどろもどろになる。
「もしかして、随行者もいないのですか?」
「いや、まあ、その、」
もはや、言葉にならないことをもごもごとつぶやくほかない。
「それで? 旅支度は十全に整えてあったんでしょうね? 所持金は?」
「支度って、そんな、子供でもあるまいに―――」
大の大人、しかも相手は高位の称号を持つ学者だ。そんな人間に対して幼子に対するように面倒を見てやる必要はない。それは間違っていないはずだ。だが、マークは一般常識を口にすることはできなかった。
もはや殺傷能力があるのではないかという視線が向けられたからだ。
「まさか、なにも持たせず、誰も随行させずに放りだしたと?」
相手のまとう空気はぐんぐん温度を下げ、冷や汗を滝のように流すマークは、極寒のさなか、凍りついた。
もはやなにも言わず、冷たい一瞥のみをマークに寄こし、踵を返して出て行った。隆盛を誇る大学の学長はしばらく動くことができなかった。
「ふ、カトリエンの傲慢さよ。まあ、よい。これまでの施設充実の貢献に免じて許してやろう。我が大学には死神がいる。大勢の学者の魂を刈って引き寄せてくれよう」
そんな風につぶやいて、傷つけられた自尊心を慰めるのだった。
「きれいに描けているわ」
「とってもじょうずよ!」
「ひと目で「妖精の帽子」だと分かるわね」
女性陣に描いた絵を絶賛されてティコは照れた。
まず、小瓶に合わせた小さな絵を、本物を想像させられるように描くのが難しかった。紙も枚数に余裕があるわけではないので、失敗するわけにはいかない。
ティコが懸命にそう伝えると、チエムがにやにや笑いながら突っつく。
「泣き虫ティコにしてはやるじゃないか」
「止せよ、チエム。ティコもいろいろ考えて仕事をできるようになったんだ」
いつも通りエニーが制止しようと口を開ける前に、カレルが言う。ティコが面映ゆそうにもじもじした。そんなところは相変わらずで、弟の急成長に戸惑っていたエニーは内心安堵する。
色鮮やかな長い筒状の花をいくつも咲かせる薬草「妖精の帽子」の絵が描かれた紙を瓶に巻き付け、糊付ける。
「この樹液を煮詰めれば糊状になる」
小鍋をぐつぐつと煮るのを覗き込んだチエムが自分の鼻をつまむ。
「うへえ、変なにおいがする」
「冷えればましになるから」
「よく見かける木から取れるんだから、御の字ってものよ」
チエムにアルノが言い、エニーは腰に手を当てる。
乾かした小瓶に薬液を詰め、コルク栓で蓋をする。
「腐敗したコルク栓は使用しないように」
「もったいないわね」
アルノの注意に、エニーが眉をひそめる。
「コルクってなにでできているんだ?」
「なんだろうな」
チエムの問いは適当な雑談のひとつで、だからカレルも受け流した。どこにでもある会話だ。
だが、そこには生物学者がいた。
「コルク樫の樹皮から作られる」
「へえ」
「アルノさんって本当に博識ね。博物事典みたい」
質問したチエムは気のない返事をしたが、リシェルが学院でページをめくった本のことを想起した。
「樫なら森に行けばあるわ。じゃあ、栓をつくって売るのはどう?」
「つくり方は知っているのか?」
手作業をするとき、口は開いているので、自然とおしゃべりが生まれる。子供たちの興味はぽんぽんと様々な方向に飛んだ。
「数十年成長したコルク樫の皮をはぎ取って天日干しする」
「おお、知っているのか!」
「どのくらい干すの?」
チエムは興味本位で聞いてみただけだが、エニーは徐々に熱を帯び始める。
「七か月くらいかな」
「だめだわ」
「そんなに長い間、管理するのは無理ね」
肩を落とすエニーに、リシェルも頷く。
「コルクが弾力を持つのは小さな穴が無数に開いているからだ」
壁で四角く仕切られた極小の穴を持つ。この穴は細胞が乾燥し死滅してできたものだ。
「つまり、細胞壁は細胞そのものが死んでもそのまま残り続けているんだ」
だから、幹からはがし取られた後も、長い年月使用することができる。
「すごい、」
「そんな風になっているのか」
リシェルがため息交じりにつぶやき、カレルも目を見張る。
「なあ、それって、なんだっけ、ケンビ?」
「顕微鏡か?」
チエムにアルノが助け舟を出す。
「そう、それを使ったら見えるのか?」
「ああ。後で見てみるか」
「じゃあ、腐敗して使えないやつを集めておこう」
チエムとカレルが捨てようとしていたコルクを別に避けているのを見ながら、エニーがリシェルにそっと尋ねる。
「ねえ、学院でもこんな風に教わっていたの?」
今までは傷心のリシェルを慮って学院の話題に触れることはなかった。でも、ティコと同じく、リシェルにも変化があったとエニーは感じ取っていた。
「授業でもこんな知識は教わらなかったわ。アルノさんはわたしたちのふとした疑問にすらすら答えているけれど、それはとてもすごいことなのよ」
あまりにも普段通りに答えるものだから、なんてことのないように受け取れるかもしれないが、その実、とんでもないことだった。
「確か、それぞれ専門分野があるんだっけ」
「そうよ。ひと口に生物といっても、専門分野に詳しいのならまだ分かる。アルノさんの多岐に渡る知識量は一般的ではないと思う」
「大学の学者さんってのは、本当のことなのね」
リシェルは学者としてもふつうではないという意味で言ったが、エニーは一般人ではありえないという風に受け取った。
「エニー、疑っていたの?」
「初めはね。でも、物知りのリシェルが感心するくらいですもの」
リシェルにまじまじと見つめられ、エニーは首をすくめた。
「アルノはね、僕やメイニが話すことも、馬鹿にせずに聞いてくれるんだ。そして、いろいろ質問してくる。それに答えられなくても怒ったりしない。分からないことと分かっていることを区別することがまず第一歩なんだって」
ティコが懸命に話す。
「自分の話を関心を持って聞いてくれるのは嬉しいものね」
リシェルはティコがアルノとともに話している場面を思い出す。質問を投げかけるということは、それだけ関心を寄せているからなされるのだ。
「うん!」
「大学の学者さんは、わたしたちが気づかないところに関心を持つものなのかもしれないわね」
「そうね。そして、アルノさんはわたしたちには世界の見え方が違うのかもしれないわ」
エニーの言葉に、リシェルはふと思いつく。
「世界の見え方?」
エニーが小首をかしげる。
「顕微鏡のような感じ?」
ティコはよほどアルノに顕微鏡をのぞかせてもらったことが印象に強く残っている様子だ。
「たぶん、そんな感じね。きっと、世の中の仕組みがよく見えているのね」
さて、みなでにぎやかに作業をしているのに、寝床から離れられないメイニは、スライムを数えて眠ろうと頑張っていた。
「チュライムがいっぴき、チュライムがにひき、チュライムが……」
いつの間にか眠っていたメイニは、夢の中で巨大スライムの上でぽよんぽよん跳ねるという、アルノと似た経験をしたのだった。
「すらいむにはすらいむのみえかたがあるよー」
「すらいむのしくみがあるのー」
「すらいむはすらいむ。ゆえにすらいむである」
「すらいむがすらいむですらいむ」
「これぞ、げしゅたるとほうかい!」




