127 古の森 序章
「見ろ! 立派な鹿だ! 絶対に仕留めるぞ」
「おい、待て! それ以上は危険だ!」
森の中で狩人の兄弟が我先に獲物を仕留めようと競い合っていた。二人は袖のない上着を着ている。肘から先は布を巻き、弓を持ち、胸元には鞘に入った短剣、腰に手斧を携えている。とても大きな鹿を発見した弟が夢中に駆けていくと、足を止めた兄が大声で叫んでいた。
「おい! そこから先は……クソ。あのバカ野郎」
あっという間に見えなくなる弟。密集した木々が兄の視界を遮る。加えて立ちこめ始める紫の霧。弟を追いかけるうちに次第と色が濃くなっていく。追いついた頃には辺り一面が紫一色となる。彼らが肩を出しているのには理由があった。ここまで来る頃にはその寒さに気づくからだ。すでに吐息は白から紫へと変わり幻想的な世界となっている。
別に木や葉、草や花、光が紫色になったわけではない。この森ではほとんどの物が紫に見える。立ちこめる紫色の霧のせいなのは明らかだった。外に出れば葉っぱはちゃんと緑色をしているのだから。ただ、ここは立ち入ってはいけない領域。魔女の領域だった。
「くそ。あの鹿はどこへ行った?」
「おい? おい! こっちを見ろ! 馬鹿野郎! 死にたいのか?」
半ば殴られるように胸倉を掴まれ我に返る弟。すぐに自分のいる場所に気がつくと、顔から血の気が引いていく。まっすぐ高く伸びていたはずの木々が、太く細くうねるように曲がりくねった森になっている。ただ一言「すまない」と発した。呆れているが、同時に安堵した兄の背後にはすでに彼女がいた。胸倉を掴まれた弟はこれから起こることに対して謝罪しただけだった。
聞こえるのは悲鳴。逃げようとしても足を掴まれ地面に伏している兄。紫の霧の塊。それが男二人を掴んで離さない。兄の方はバキバキと音を立て内側から壊れていく。皮膚の中が折れたり縮んだりしている。弟は顔を掴まれ口を無理やり開けさせられている。叫べず、喋れず、兄の変わっていく姿を一部始終見せられていた。
「ああ、あぁぁ」
すぐ脇から枝が折れるような、引きちぎられるような音が聞こえる。下顎がずれる程に顔を動かし、どうにか確認しようと視線を向ける。うねり曲がった木から何かが出てきた。次第に形作る、というよりかは皮膚に寄せると言った方が正しい。木人のようでかなり人に近い存在。薄紫の髪の女性。それが兄の元でしゃがみ込んでいる。
「あぅ、えぇうえ」
「なに?」
彼女が喋った。それは驚きだった。弟は無理やり抑えられゆがんだ顔で彼女に懇願する。「助けてくれ」と言いたいがうまく喋れない。涙を流しながら必死に命乞いをした。
立ち上がり近づく薄紫の髪の女性。その目はどこか寂しく、無感情。ただ、視線を合わせるだけで観察しているわけでもなく、憐れんでいるわけでもなく、見下しているわけでもない。自分という塊を見ているだけだと弟は悟った。
「かはっ! お願いだ! 俺が悪かった! こんなつもりはなかったんだ。助けてくれ! 許してくれ」
女性が両手を動かすと霧が離れて動けるようになった。弟は必死に謝りながら目の前にいる細い女性が紫の魔女だと確信した。膝を揃え小さく縮こまり懇願するその胸元から短剣を、腰からは手斧を取り彼女へ襲い掛かる。意外にあっけなかった。突き飛ばせば倒れ、胸には短剣が突き刺さり、斧は頭蓋へとめり込む。彼女の目は痛みを感じていないようだった。視線を合わせたまま、ただ変形していく。
息を切らしながら弟は立ち上がり、兄のなれの果てを見つめるとすぐに走り出そうとする。「すまない」と一言だけ囁くと一歩踏み出す。しかし、もう片方の足が地面から離れなかった。掴まれた足首から寒気が走る。振り返ろうとしたがそれは出来なかった。目の前にさっき殺したはずの薄紫の髪の女が立っているからだ。
「惜しかったわね。その一瞬が左右してたかもしれない」
物腰は柔らかい。感情を示すような表情ではないし、恐怖をまき散らすような眼でもない。よく見ると肌に木人のようなきめ細かさがある。気づくべきだった。けれどもう遅い。彼女が自分の胸に手を当て何かを抜き取るのが分かった。空から落ちる夢を見て、驚いてきたときの感覚。
「お前が紫の魔女なのか?」
「いいえ。私は……名前、なんだったかしら。えっと――、ソウ、アタシが紫の魔女。サァ、鬼ゴッコの時間ダ。どこの氏族ダ? 足ガ速イトいいネェ」
喋りながら様子の変わる女性。後半は明らかに別人だった。彼女は兄の体に自分から盗んだ何かを押し込んでいた。するとまたバキバキと音を立てながらソレは起き上がる。無理やり動いているせいで内側から耳をふさぎたくなるような音が聞こえた。
「サァ、行きな。生きな。逝きな。アハハハハハ――、小さな女の子見なかった?」
弟は襲い掛かってきた兄だったソレからひたすらに逃げた。枝を折り、葉を落とし、つまずき、ソレを殴り、持っていた武器で殺した。決着がつく頃には同じように自分も息絶えていた。最後に見た風景はどっちだったのかはわからない。けれど、薄紫の髪の女性が木の幹に戻っていくのが少しだけ見えていた。
ここは古の森にして、紫の魔女プルプラの森
世界で一番大きい魔女の森。決して旅人がたどり着くような場所ではない。それは大きさのことだけではなく、周囲を取り囲むように生活している十三氏族からなるアスカラ族のせいでもある。彼らは外から入れず、中から出さず。永い間この森と共に生きてきた部族である。
ぎゃふぅ!
126を改稿したのでお詫びに続き(後半の始まり)をば!