#105 一樹之陰
暫くすると馬場学長の元に総合病院から連絡が入り,松田院長との面会を許可できると言われた。生徒会室と隠し書庫の片付けを済ませて鍵を掛けると,校舎から飛び出して菩提樹の遊歩道を急ぐ。
馬場学長はてっきり面会が出来るのは数日後になるだろうと考えていたので正直吃驚していた。
でも旧友と数年振りに会えると思ったら気分が高揚するのも仕方のない事だ。
この閉鎖空間では人間の中で最年長であり立場は一番上になる。それがどうしても自分を孤独に追い詰めていたとも感じている。
松田院長が居ればその重責も少しは軽くできるかも知れないし,出来なくてもお互いの苦労なんかを共有しあえるのではないかと考えていた。
しかしその想いは彼女の病室に行って見事に打ち砕かれた。
「どうしたの‥‥‥それ‥‥‥」
松田院長は確かに生命に別状はなさそうだった。でもベッドの上に寝ている彼女は馬場学長の知る姿とは明らかに違っていた。
綺麗な艶のある天使の輪を戴いていたロングの黒髪はボブカットの白髪と化しキューティクルも失われている。還暦を前にしていたとは思えないほどのお化粧も必要のないくらいだった艶のあった肌もほうれい線が浮かび上がり,眼尻,口元,頬は皺だらけになっている。その所為か身体も少し縮んだのではないかと感じた。
「さ,佐南‥‥‥」
声は枯れて弱々しく,注意していなければ聞き漏らすと思った。
馬場学長は親友の姿を見ていられず看護師にベッドの周囲のカーテンを引いてもらい,医師と病室から出て廊下にある椅子に腰掛けた。
「いったい,聖美に何があったのですか?」
「すみません。詳しい事は分かりません。ただ,表面上はあんな状態ですが,身体の中は至って健康で内臓や血管,脳などには何も障害は見当たりません。あくまでも今のところですが。」
「今のところ‥‥‥?」
「はい。松田院長には今のお姿を見せてはいません。でも鏡などで姿を見て瞬間に絶望してしまうのではと思うと心配です。それにあの状態を元に戻せるのかと言われても私の手では不可能ですし。」
「確かに‥‥‥そうですね。」
「ここは神の創造した空間ですからその御力に頼ればもしかしたら‥‥‥いえ,医者の立場で言う台詞ではありませんでした。でもその力を頼らざるを得ないのではと考えています。」
「医療に携わる者としてはジレンマでしょうね。」
「まあ,私の知り合いにも担当患者が死ぬのを見てきてオカルトや心霊現象に興味を持った者も居ますからジレンマとまではいきませんが。」
担当医師は苦笑いで答える。
馬場学長は彼の姿を見てその話は事実かも知れないが,彼の強がりでもあるのだろうと思い,それ以上の追及はしないでおいた。
「聖美に何があったのか事情聴取はしていないのですよね?」
「はい。それは私も聞いてみたいですが,まだ検査が終わったところですので。一先ず容態を見ながらという事でお願いして宜しいでしょうか。」
「分かりました。」
2人は病室に戻り,ベッドの脇に座る。そして馬場学長は松田院長の手を取る。
指先は血の巡りがあまり良くないのか冷たく,ちょっと力を入れると骨を砕いてしまいそうなくらいにか細い。
馬場学長は耳を松田院長の口に近付けて聞き逃さないようにゆっくりとした口調で話し掛ける。
「ねえ,聖美‥‥‥行方不明に,なった時の事は,覚えている,かしら?」
「ごめんね。覚えて,いないわ。」
「そう。では,覚えている事を,話してもらえる?」
「そうね‥‥‥」
松田院長は遠い目をして自分が体験してきた事を話し始めた。
気が付いた時,そこは光の溢れる世界だった。ただ眩しくて目を開けていられない訳ではない。
でも何か色々な物があるのは分かったが,それが何かは認識できなかった。
そのうち遠くの方,地平の彼方から誰かが自分の方へと歩いて来るのが分かった。徐々にシルエットというのか顔の表情が見えてきた。
そして自分に向かってくるのは1人ではなく3人の女性だと知った。
さらに松田院長は人の表情しか認識できない世界なのだとも気が付いた。
首から下は見えず,まるで顔だけが宙に浮いている。でも怖いとは思わなかった。
「普通に,そんな体験をすれば,空中に浮く生首としか,思えないはずだし‥‥‥」
馬場学長の言葉に松田院長は軽く頷く。
松田院長は恐怖を感じるどころか懐かしささえ覚えたという。でも彼女たちの顔に見覚えはない。
ただ3人は懐かしそうに色々と話し掛けてきた。松田院長は一生懸命になって思い出そうとしても記憶の糸に繋がらなかったために適当に相槌を打っていた。
そうしている間に話しを終えた彼女たちは手を振りながら去って行く。
だから虚ろな状態で話を聞いていたので内容はほとんど覚えていないという。
『そう言えば,聖美の状況って顔の表情だけが見えないと言っていた長尾さんと真逆よね‥‥‥』
馬場学長は消息不明になっている長尾智恵の事を思い出した。でも今は松田院長の話を聞く方が先だと思い,長尾智恵の事は頭の片隅に追い遣る。
「それで,その後は?」
3人が去って行くのを追い掛けたが,こちらがどんなに全速力で走っても向こうの歩く速度に勝てない。3人はまるで超高速の動く歩道の上にいるかのようでどんどんと差が付き見失ってしまった。
そうすると今度は別方向からまた3人の女性が近付いてきた。彼女たちの顔を認識して松田院長は驚いた。戸田愛乃,山内円佳,水野紫苑だった。彼女たちは行方不明になった高校生の時のままで,だから最初は自分が松田聖美だと言っても信じて貰えなかったらしい。
でも記憶の断片から当時の覚えている事を話すると松田聖美だと信じてくれて,そこからは思い出話に花を咲かせた。
戸田愛乃たちが行方不明になりクラスメイトだけでなく学院中が大騒ぎになった事,それで馬場佐南や北条美織と一緒に受けた試練の事,そして北条美織の死,馬場佐南が戸田愛乃たちの親族と今でも連絡を取り合い寄り添っている事‥‥‥松田院長は自分の知る事で彼女たちに繋がる事を思い付くかぎり教えた。
そして戸田愛乃たちは馬場学長に御礼を言っておいて欲しい言ってきた。松田院長はここから脱出する方法を見付けて一緒に帰ろうと言ったが,彼女たちは松田院長の容姿を見て既に自分たちの知っている時代とは大きく違っている上に,自分たちはまだ高校生のままで一緒に戻ったところで皆に迷惑を掛けるだけだと固辞した。
それでも「待っている人が居るのだから」と強く説得をしたが,自分たちの生活を自立させられるのか,出来なければ誰が面倒を見てくれるのか分からないからと首を横に振る。
そして戸田愛乃たちは踵を返すと「もう2度と会う事はないから」と言って大きく手を振り,自分を置き去りにして駆けて行った。
「そう‥‥‥なんだ‥‥‥」
馬場学長は自分が迷い込んだ別世界で会った戸田愛乃たちの事を思い出す。最初は確かに帰る事を3人は拒んでいた。でも山内円佳と水野紫苑は説得に応じて帰る決意をし,戸田愛乃も最終的には長尾智恵の手で帰還した。
『だとしたらあの3人はいったい誰だったのか?』
もしかすると梶原学長と出会い,もう1人の自分の居た並行した世界の戸田愛乃たちだったのだろうか‥‥‥あの世界では既にもう1人の自分が試練を受ける事になっていたが,戸田愛乃たちの事まで頭が回らず確認をしていなかった事を後悔した。
「それでね‥‥‥」
考え込んでいた馬場学長は意識を松田院長の話に向ける。
「ここからが,重要なんだけど‥‥‥」
松田院長は追い掛けても無駄だろうと思い,戸田愛乃たちの小さくなる背中を見送り,暫くその場に佇んでいた。
そこにいきなり背後から肩をポンと叩かれた。思わずビクッと竦み,ゆっくりと振り向くと北条美織が立っていた。今まで顔しか認識できなかったのに彼女だけは頭の先から足の先まで全身を見る事が出来た。しかもその姿は何も着ておらず生まれたままで年齢はちょうど事故で死んだ時と同じくらいと感じた。
そして松田院長はその空間は生きている人間は顔だけしか認識できず,死んだ人間は全身を確認できるのではないかと思ったらしい。
「何でそう思ったの?」
「だって,美織は,自分が,病院で,最期を,看取ったのだから,死んでいる。でも,愛乃たちは,消息不明と,言うだけで,誰も,死を,確認しては,いない。」
松田院長の言葉に馬場学長はある意味納得していた。言われてみればその通りなのだ。
北条美織も戸田愛乃たちも法律上は死亡という事になっているが,北条美織は医学的見地からも死亡を確認していて最終的には荼毘に付した。でも戸田愛乃たちは遺体すら発見されておらず,ましてやこの閉鎖空間において3年間も一緒に過ごしたのだ。それを死んでいたと言われてもおいそれと信じるのは難しい。
「それで,美織とは,何か話したの?」
松田院長は一息入れたいのか看護師に白湯を要求し,医師は容態の変化がないかチェックをしたいと一時休憩する事になった。
馬場学長はベッドの傍から離れて丸椅子に腰掛ける。
「それにしても‥‥‥」
馬場学長は松田院長が診察を受けている様子をちらりと覗き見る。そしてこの松田院長が本当にこの世界の住人なのかを疑い始めていた。もしかするとかなりこの世界に近い並行世界の住人で彼女自体が実はあの容姿に見合った年齢なのではないかと感じていた。
でも馬場学長には本物かどうかを確認する手段がない。医師も精密検査をして松田院長だと認識している以上,医学的見地からの物証は得られないだろう。
「馬場学長。」
診察していた医師から呼ばれ,松田院長からの聴き取りは継続となった。
「‥‥‥で,美織との,話を,聞かせて,もらっても,いいかしら?」
「ええ。」
松田院長は北条美織から場所を変えて話をしたいと言われ特に拒む理由もないと思い,彼女に付いていく事にした。
歩きながら取り留めのない懐かしい話をしつつ,辿り着いたのは緑に囲まれたカフェテラスだった。周囲の建物の配置を見るとそこはどう見ても聖ウェヌス女学院にあるカフェのように感じたらしい。ただ,学院の敷地に入った感じはなかった。菩提樹の遊歩道も歩いていない上に正門や北門すら潜っていないのだから。
違和感を覚えながらも北条美織に案内されてテーブルに着く。
テーブルの上にはティーポットとカップが用意されておりスイーツも並んでいた。
そして北条美織から聞かされた話は衝撃的だった。
彼女が言うには聖ウェヌス女学院総合病院に担ぎ込まれたが実際には死亡したのではなく,自分の身体を癒すために敢えて仮死状態にしたのだと。それが彼女に与えられた血の力だったのだと。
しかし身体を癒して目を覚ましてみればそこは電灯の点いていない真っ暗な暗室で冷たいステンレスの寝台に横たえさせられビニールのようなシートを掛けられ全裸という屈辱的なものだった。
隣を見ると同じような寝台の上に遺体を包む納体袋が載せられており,それが自分の旦那なのだと直感した。
そしてここから脱出しないと死んだ事にされてしまう‥‥‥
それより死んだ事にしてもらい私を狙う組織から逃げた方がいいと思ったらしい。
北条美織は部屋の中にあったロッカーから着れそうなものを見付けて着替えると病院から脱出したという。
馬場学長は松田院長の話に違和感を覚える。
この世界では松田院長も馬場学長も最終的に北条美織の死亡を確認している。
北条美織が生きていたという彼女本人の言葉があったとしても俄かには信じられない。
それにさっきは松田院長自身が北条美織は死者だと認識していたはず‥‥‥
何故,その北条美織の言葉を受け入れたのか理解に苦しんだ。
「ねえ,聖美。美織は,生きていた,というの?」
「ええ。」
「だったら,今は,どうしているの?」
「えっ?」
「生きているんでしょ?」
「ええ。」
「だったら,どこに,居るの?」
「分からない。」
松田院長も自分が何を喋っているのか分からず混乱しているようでもあった。
挙動不審になり眼球が上下左右にキョロキョロし出して,バイタルも異常値を示し警告音が鳴り始めた。医師からはこれ以上の面談は厳しいと判断されて,松田院長は鎮静剤を投与されてスーッと眠りに就く。今日の聞き取りは打ち切られる事になった。
「肝心な話が聞けなかった‥‥‥」
学長室に戻った馬場学長はソファに腰掛けて頭を抱えていた。
「それにしても美織が生きている世界もあるのだろうか‥‥‥だとしたら私の存在しない世界なんかもあるのかも知れない。」
昔,流行った超能力ものの漫画なんかだとパラレルワールドに飛ばされて,男女が逆だったり,自分が存在しなかったり,向こうの世界の自分に出会ってしまったり,なんて話のあった記憶がある。まさか自分がそれを体験したいとは思わないが。
どちらにしても松田院長から確認しなければいけない事は山ほど残っている。
根本的に彼女が元々この世界の松田院長なのか‥‥‥もし本物なのならあの老人の姿も戻してあげないといけない。
北条美織の事もそうだ‥‥‥この世界では死んでいるはずだが,もし生きているのなら彼女を娘たちと一時的でも会わせてあげたい。
松田院長が飛ばされた空間の事も気になる‥‥‥彼女が体験したのは長尾智恵が抱えている症状とまるっきり逆であり,何か関連性があるのか。
馬場学長は思い付いた事をメモしていく。
正直,この閉鎖空間に来てからというものの何か記憶が断片的に失われているような感覚に陥る事があってならない。だからその不安を払拭するためにも書き残す事が大事だと思っている。
「それに‥‥‥」
地下通路に探索に入っているメンバーもそろそろ潜って丸1日が経過しようとしている。一旦,両チームとも戻ってきたが,長尾智恵と樋口ソフィアを見失い,彼女たちの捜索に時間を費やしている。
学院に戻る前に病院のボイラー室で待機している警備員たちには次に両方の捜索班が戻ったら,松田院長の生還の話をして長尾智恵と樋口ソフィアが発見できていなくても学長室に来て欲しいと伝えるように依頼しておいた。
「捜索に行ったみんなが帰ったら対策の練り直しをしましょうか。」
長尾智恵はどこからともなく感じる視線を避けようと逃げ出していた。
でもどんなに走っても視線から逃れられる感じはない。
まるでこの地下空間全体がある者の視界の中のようで‥‥‥
それは釈迦如来の手の上で総てを見透かされて悪事を暴かれた斉天大聖を髣髴とさせるものに感じた。
「孫悟空と一緒?悪事はしていないと思うけど,それも神様基準だから人間の私には理解できないし,それにここは掌と言うよりも食道や腸内のような感じだし。」
長尾智恵はハッとして周囲を見回す。
ここが神様の創造した閉鎖空間ではなく,神様の體内だとしたらずっと感じる視線のようなものにも納得がいく。でも最大の問題は脱出方法だ。
「ここが體内のどの辺に居るのかで違ってくるはず。いったいどこに居るのか掴めればいいのだけれど。」
ゴゴゴゴゴゴ‥‥‥
突然,足元を大きくはないが細かく揺する振動,呻りを上げて鼓膜に響いてくる轟音,雷雨が降る直前の急に湿度が上がった時の青臭さペトリコール。通路のどちらを見ても異常を示す兆候は見えない。でもドンドンと揺れも音も匂いも強くなってくる。
「いったい,何?」
ふと視線をある通路の方向に向けた途端,目の前に通路を埋め尽くすほどの大きな水の塊が迫って来ていた。
その刹那,長尾智恵は水流に巻き込まれる。直前に大きく息を吸い込んで何とか溺れるのは阻止したが,それでも高速の水流の勢いに身を任せるしかなかった。身体は浮き上がり,水の中でグルグルと回転してしまう。途中から平衡感覚を失って上下左右がまるで分からなくなるほどだった。気を失うと死に直結すると感じて,意識だけは根性で保っていたが,吸い込んていた酸素も残り少なくなりドンドンと息苦しくなっていく。
「ああ,もう‥‥‥ダメ‥‥‥」
瞼を閉じて口を大きく開けてしまい,喉に大量の水が流れ込んでくる。
「苦しい!誰か助けて!」
声にもならない叫びを上げる。まだ気管から肺の方に水が流れ込んでいないのか,息苦しさはあるものの生命の危機ではないようだ。
ほんの数秒の事が数分,数時間の事のように感じる。
いつまでこんな苦行を受け続けなければいけないのか。
いっその事,楽にして欲しいとさえ思っている。もう「死ね」と言われるのなら受け入れる準備が出来ているくらいだ。
身体の回転が加速度的に増していて重力すら感じていない。
もう死ねないのならと何とか口を閉じて,手を伸ばし鼻をギュッと摘まむ。そうすると口の中から入ってきた水は総て胃へと落ちていった。そして口腔内から気管,肺に掛けて空気が戻ってくる,そういう感触があった。
自分でもまだ随分と余裕があるのだと感じた。
「これなら死を受け入れる必要もないかな。」
まだ身体の回転も収まる気配はない。多分,目を開けると気分が悪くなるだろう。というよりも既に気持ちが悪くなり始めていて吐き気さえ催しているのが実態だ。
死の直面という最大の危機は脱出したのだからあとは我慢に我慢を重ねるだけだ。
「これも試練なのかな。」
長尾智恵は地下通路を奥の方へグルグルと回りながら押し流されて行った。




