#103 苦心惨憺
長尾智恵たちは休憩を終えて再び地下通路の探索を続けていた。加地美鳥と多少口論じみた状況もあったが真田先生の取り成しもあって仲直りしたのだった。でも加地美鳥は流石女優だけあって表情には全く出さないが「何で智恵だけが‥‥‥」という気持ちが心の中に渦巻いていた。
「しかし,何も見付かりませんね。」
それでも真田先生は長尾智恵と加地美鳥の仲に皹が入っているのを如実に感じ取り,何とか別の話題に振ろうとしている。しかし加地美鳥にそんな言葉は届いておらず,長尾智恵は「智恵だけずるい」と言われてももしもの時に自分に何かが出来る訳でもないからそう言われても困ると思っている。
馬場学長からのお願いだからと3人は探索を続けた。
しかし地下通路に潜って彼是半日,特段何も発見できずにいた。
ずっと真っ直ぐな一本道を進んできたが途中に横道,ダンジョンのような扉や抜け穴のようなものは見付けていない。距離にすれば10キロ近く歩いており,既に学院の地下は疎か街の外にすら出ているはずだ。
でもここは神が管理する空間の地下で何があってもおかしくはない。この地下は潜る度にまるで違う場所にでも繋がっているかのように様相が変わっている。
『いったい神様は何を考えているのかな‥‥‥いえ,ここは別の神様が創った空間で偶々ヤハウェとヤルダバオトの創った空間と繋がっているのだとしたら‥‥‥』
長尾智恵は思い違いをしているのではないかと考えた。だとしたらここが想像を絶するほどに危険な場所ではないかと感じた。そうすると自然と足を止めてしまい,背筋をスッとなぞられたようにビクッと身体が震える。
「ねえ‥‥‥真田先生,美鳥‥‥‥」
長尾智恵がギリギリの精神状態の中で震える声で2人に呼び掛ける。しかし縦1列に並び最後方で後ろを警戒しながら歩いていた彼女の声は届かなかった。
2人は長尾智恵が最初から一緒に居なかったと言わんばかりにドンドンと奥へ進んでいく。
極限状態に陥り,必死の思いでやっと声を出していた長尾智恵はもう口を開く事が出来なくなっていた。そして腰が砕けたようにその場にへたり込む。
ただ2人の背中を手を伸ばして見送るしかなかった。
「行っちゃった‥‥‥」
もう2人の背中もヘッドライトの灯りも見えなくなってしまった。
そうすると自然と身体に力が戻ってきて,立ち上がると言葉も普通に発する事が出来るようになっていた。
でも落胆する思いはまだ残っている。
走って2人を追い掛ける事も出来そうだが気持ちが追い付かない。
眼尻から涙が溢れて零れる。
「これからどうしよう‥‥‥」
そう考える能力はあるものの何か面倒くさくてこの場からもう動きたくはないという気持ちもある。
『少し休んで気持ちを落ち着けてからの方がいい気がする‥‥‥』
彼女はボトルを出して水を煽るようにゴクゴクと飲んでいく。勢いを付け過ぎて気管支の方に入りゲホゲホと咽る。
『本当に何しているんだろう,私‥‥‥』
息苦しさに涙目になり,自分が情けなくなる。
軽く俯くとギュッと瞼を閉じて首を振り両手で頬をパンッと強く叩く。頭脳に痛覚神経を通して信号が伝わり目が覚める。
「ここで気落ちしてはダメ‥‥‥」
長尾智恵は気持ちを奮い立たせて,これからどうすればいいのかを考える。
まずこれは神の悪戯だと考えれば,何が彼らにとって面白くないか‥‥‥
それはこの空間から脱出されてしまう事だろう。
『しかし,どうすれば脱出が出来るのか?』
明確な答えが出ない。
『仮にソピアー様と神域にいらっしゃる5柱の神様以外がこの空間を創造して支配しているとなるとその神様の神格が自分の中にあるソピアー様の分霊のものよりも上なのか下なのかにも寄って答えが変わるはず‥‥‥』
問題はこの空間を創造した神がいったい誰なのか?
それを突き止めないと話が進まない。ただ今の状況では自分だけで考えていても無駄で調べると言っても何をどう調べればいいのかが分からない。
「どうしよう‥‥‥」
長尾智恵は徐にあの忌まわしい交通事故後から今までに起きた事を持っていたメモ帳に時系列順で書き始めた。そうすれば,もしかしたら何かこの一件に対して光明が見えるかもしれないと感じたからだった。
『まずは‥‥‥あの交通事故,ヤハウェの話だと偶発的なもので自分たちは意図していないと言ってたけど‥‥‥』
もしヤハウェより上位に存在する者の仕業だったら気が付かない事だってあり得る。ただ,あれによって試練が始まったのと同時に自分たちの生命が助かったのも事実だった。
『そして‥‥‥私たちは身体を現実空間に残して,精神を閉鎖空間に送られた‥‥‥』
そもそも身体は本来瀕死の重傷だったが,ヤハウェとヤルダバオトの力で保護されていて大事には至らなかった。精神はその事を知らず閉鎖空間で普通に生活していたので後遺症や事故に対するトラウマも出なかった。ただ,治療に彼らのエネルギーが割かれたために閉鎖空間における時間という概念がおかしくなり,始業式の日が何度も繰り返す事態に陥ったとも言える。
『さらに‥‥‥馬場学長をはじめ,先生たちが祈里の血の力で閉鎖空間に渡ってきた。』
北条祈里の血の力がどういうものなのかは置いておく。ただ先生たちが実体を持った形でこの世界にやって来た。そして自分たちが現実世界でどういう状況なのかを知らされ,ショックを受けた子も居た。
「あれ?」
長尾智恵は違和感を覚えた。
『ここは閉鎖空間なのだから現実世界をはじめ外界からの干渉を受ける事は基本的に出来ないはず‥‥‥出来るとしたらこの空間を創った者より上位の者のはず‥‥‥それが事実なら祈里の血の力はヤハウェやヤルダバオトより上位と言う事にならないだろうか‥‥‥』
そして馬場学長は彼女の血の力の事を知っていた上で利用して,この世界に来た事になる。
「いったい,どういう事だろう‥‥‥」
長尾智恵はよく思い返してみる。
「馬場学長は私たちと同じように試練を受けたと言っていた。それは少なからず神や神に近い存在というものに触れた事を表している。」
ただ馬場学長から聴いた話では本当は試練を伝承研究会の戸田愛乃が中心となり受けるはずだったが,彼女が行方不明になった事で急遽生徒会長だった馬場学長が受けざるを得なくなったと言っていた。
「それまでは伝承研究会と生徒会の役割が別々で伝承研究会に伝わる事は部外秘として固く口を閉ざしていたとも言っていたよね。」
だから何も分からずに試練に立ち向かわなければならず,試練が終わった時には当時の学長によって伝承研究会の史料は隠匿されていた。
「そして馬場学長と一緒に試練を受けた北条祈里の母親が神様から影響を受けて特別な力に目覚めたと‥‥‥やはり,馬場学長には確証はないものの血の力に関して何か掴んでいたはず。」
それから馬場学長は大学に進学し宗教学の研究を進め首席卒業して,そのまま教員となり高等部に戻ってきたと言っていた。でも既に学長は急逝していて,新しい学長となっており引き継ぎが上手く出来ていなかったために伝承研究会の史料は隠されたままになっていたという。
「確かに伝承研究会の部室があった所は空室となり,一部は隠し書庫として封鎖されていて,ずっと物置にされていたと言うし,生徒会室になったのも山県先生が高等部1年の時だと言っていたからまだ10年にもなっていないよね。」
あれから約30年を経て,馬場学長は山県先生が学生の時に試練が始まった際はかなり苦労した上に結局失敗に終わったと言っていた。
「本人の証言のみで客観的な物証がないからどこまで信じていいのか分からないけど‥‥‥馬場学長は祈里の血の力の片鱗には気付いていたと考えてもいいだろう。ただそれがどういうものなのかまでは知らなかったという事なのかな‥‥‥」
馬場学長は宗教学の中でも宗教社会学について研究していたという。それはざっくり言えば宗教が社会に与える影響についてであって,神そのものを研究したものではない。
「一般的に伝説や伝承の中でしか存在しないと思われる神様の研究しても学術的には趣味の延長としか見られないだろうし‥‥‥いや,でも馬場学長が研究していたのが宗教が社会に与える影響なのだから置き換えて考えれば‥‥‥神様が世界に与える影響の研究にならないかな‥‥‥」
馬場学長は神または神に近い存在と触れていたし,北条祈里の母親は神から影響を受けて特別な力を手に入れているのだから自分の研究を神様を対象として宗教に置き換えて発表していたとしたらその研究成果はどう扱われただろうか‥‥‥
そもそも戸田愛乃が行方不明になった後の高等部や大学では首席を務めていて試練を受けた事で影響力が強くなったのではないか。
様々な疑念が浮かんでくる。
長尾智恵はそれまであまり重く考えていなかったが,聖ウェヌス女学院の中で首席という立場が影響力を持つのではと思うようになっていた。
「そう言う意味では試練を失敗した山県先生の立場は‥‥‥」
試練の前までは生徒会長で成績も最優秀だったと聞いているが,試練を失敗した事でその立場は揺らいでしまった。結局大学に進学し卒業はしたが,高等部で教員となったもののその扱いは高等部の学長候補ではなく,あくまで一般教員だという。
「歴代の中には試練を経験しないで学長になっている方もいるのに,試練を経験して成功したか失敗したかでそれほど差別が生まれているという現状には違和感を感じる‥‥‥」
ある意味でそれは仕方のない事なのかも知れない。
それでも山県先生を見ていると一生その負い目を追って生きていかないといけないのかと考えると今となっては受けなければよかったのかも‥‥‥とまで考えている。
「でも試練を受けてしまった以上,失敗で終わる訳にはいかない‥‥‥」
ただ引っ掛かっている事もある。それは樋口ソフィアの存在だ。馬場学長の時も山県先生の時も一緒に試練を受けた人は居るがそれは彼女たちを補助する立場だったと聞いた。
「馬場学長の時は祈里の母親・北条美織さん,そして山県先生の時は病院の職員・一条日向さん‥‥‥もしかしたら自分が聞かされていないだけで他にも居るのかも知れないけど‥‥‥」
知っているのはその2人だ。
「それに今回の試練で補助というのなら‥‥‥真珠,光莉,美鳥,瑠璃,由里,紅音,晶良だと思うし,今閉鎖空間に居る先生方や春日さんなんかもそうかもしれない‥‥‥」
でも樋口ソフィアは補助する立場ではない。明らかに自分と同じメインだと思っている。
それはヤルダバオトから試練を受けて,しかもソピアーの分霊体を持っている事からも明白だ。
「だとしたら,2人とも成功する‥‥‥2人とも失敗する‥‥‥どちらかだけが成功する‥‥‥合計4パターンあるという事だよね‥‥‥」
でも今回の試練のゴールがいったい何なのか,まだ長尾智恵は知らない。
「いえ,そもそも馬場学長の時,山県先生の時,どちらの試練も何を以てゴールであり,そして成功だったのか,失敗だったのかを聞いていない‥‥‥」
ただはっきりしているのは2人の受けた試練の過程とも比べてもまるで違うという事だけだ。
「それに過去の文献に残っていると言われている試練だって毎回その内容は違うと言っていたはずだけど‥‥‥んっ?」
長尾智恵は違和感を感じた。
「確か過去の試練の詳細は伝承研究会で部外秘とされている史料にしか残っていないはず‥‥‥なのに何故,馬場学長は明確に違うと言えたのか‥‥‥まさか内容を知っていた?」
長尾智恵はうーんと呻る。
「そう言えば‥‥‥私が居ない所に私の姿をした何者かが現れた。という話をしていた。もしかしたら私が会った馬場学長の中にも同じように馬場学長の姿をした何者かが居たのかも‥‥‥」
多分それは時期的に見てもヤハウェかヤルダバオトなのだろうと思う。
「いえ,この地下空間を支配している何者かかも知れない。」
安直な結論を出すよりは別の存在が居る事を考慮しておいた方がいいだろうと感じた。
「それにしても‥‥‥」
長尾智恵は天井をちらりと見上げ,眼球だけをキョロキョロと動かして周囲の観察をする。こうして思案を始めてからずっと誰かに凝視されているような感覚がある。多分,自分を俯瞰しているのだろうと思った。
樋口ソフィアは本当に久しぶりにぐっすり眠り,すっきりした気分で目を覚ました。
「こんなに気持ちよく眠れたのは日本に来てから初めてかも‥‥‥」
彼女は父親の転勤に伴い,世界中を飛び回っていた。母親も翻訳を生業としていて数か国語を嗜むのでどこの国に行っても大丈夫だし,原稿さえ送られてくればそこで仕事が出来る。
ただ樋口ソフィアはそんな両親の元に居たために長くても2年,短いと半年で住まいが変わり,なかなか友達を作る機会がなかった。
父親がアイルランド人だが母親が日本人のために自分は顔立ちや肌の色が日本人に近く,欧米に居た時ははどうしても陰でアジア系と蔑まれていたように感じていた。
こういう時,一緒に嬉しい事も辛い事も分かち合える兄弟姉妹が居たらどれほど気分が楽だろうと考えていた。
もちろん幼少期には弟や妹が欲しいと強請った事もある。しかし世界中を飛び回る両親にそんな余裕はなかった。母親が妊娠すれば,どうしてもその場に留まざるを得なくなる。それでは父親は単身赴任となり面倒を見る事が出来ないと母親は常々樋口ソフィアに言い聞かせていた。
そんな仲の良い両親の事が彼女は好きだったし小さいから反論する要素も見出せず,それ以上は何も言えなかったのが実情だった。
でも彼女の中に徐々にフラストレーションが溜まっていたのも事実で,引っ越しの度に新しい土地に行くとなかなか馴染めず,モヤモヤした気持ちを抱え続け,そのうち眠りも浅くなっていた。
そんな気持ちを晴らしたかのように今日は気持ち良く起きる事が出来た。
「さあ,いつも通り朝御飯を食べて学校に行こう!」
窓から差し込む暖かな優しい日差しに思わず「おはよう」と声を掛けてしまうほどだった。
サッと着替えを済ませて扉に手を掛けて開けようとする。でもドアノブはがっちりと接着剤でも塗られたかのように回らない。
「えっ?何?どうして?」
樋口ソフィアは眠る前の事を思い出そうとするが思い出せない。
今度は窓に近付いて,クレセント錠を動かそうとしたが,こちらも同じようにピクリともしない。
「何で?私,閉じ込められた?」
まさか自室に閉じ込められるとは露とも思わないし,どういう事態に陥っているのかまるで掴めない。
「どうしよう‥‥‥よくテレビドラマなんかのシーンでは椅子など投げて窓ガラスを割るなんてのもあるけど‥‥‥」
そんな騒ぎを起こせば絶対に例の近所の小母さんが飛んで来て噂話のネタにするのが分かっているから今は出来ない。それは最終手段だ。
「一番最善だと思うのは扉を破る事だろう‥‥‥」
それもテレビドラマでも見るけど自分に出来るのか不安がある。何せこの扉は部屋の中からは内開きになるのでかなりの力が要るはずだ。非力な自分に出来るとは到底思えない。
かと言って壁に穴を開けるような大胆な真似も無理だろう。
「やっぱり‥‥‥」
樋口ソフィアは窓に目をやる。
「これしかないのかな‥‥‥騒ぎになったら後でお母さんに謝ろう‥‥‥」
娘の生命に関わる非常事態だったと説明してもなかなか信用はしてもらえないだろうと覚悟は決めた。でも今はここから脱出するのが先決なのははっきりしている。
樋口ソフィアは椅子の背凭れを両手で掴み,思い切り振り被るようにして構えた。
「えいっ!」
気合を入れて最大の力で椅子を窓に向かって投げつけた。




