朝陽を浴びて Ⅰ
残り三十分。
残り二十分。
残り十分。
刻む。時間は停滞を知らず、着実に。
「来るぞ。準備しろ」
「分かっている」
山間を通る小川に掛かった小さな橋の上に、二つの影があった。
一人は男。一人は女。
女――金森は時計を何度も確認する。
男――繁野は自身の魔術媒体であるUSBメモリを両手に握って、その瞬間を待ち受けた。
「空気が変わった」
白い息が金森から吐き出された。
「時間だ」
金森の言葉がまるで時を告げる鐘であったかのように、それを合図にしたようなタイミングで空間が歪んだ。
橋の上にフラフープが立てかけられているように渦が生まれ、その中心には違う景色が映っていた。円のあちらは結界の向こう側であり、この渦は出入り口だ。
一つ、人影がすぅと出てくる。
大嶋愛生。魔術結社『先導者』であり、その実『SSパッケージ』の所属となっている魔術師が、眼前に現れた。
その状況に、繁野は唾を吐くように舌を鳴らした。
「どういうことだ、大嶋」繁野の喉が低く唸る。
「どういうこと、とは?」大嶋は眉一つ動かさず小首を傾げた。
「この場所と時間を教えてくれたのはお前だっただろ。どうしてお前一人だけがそこから出てくる」
「分かりませんか? 私一人しかここにいないからですよ」
「ふざけるな」
「ふざけているつもりは毛頭ありません」
大嶋は嘯く。
「ただ一つ、特別にお教えしましょう」
空間の歪みが消え去って、閑寂な森は二人の若者の息づかいと大嶋の声をのみ響かせた。
「金森さん、繁野さん。あなたたちが今回の作戦で、逃亡の手引きをする側に回ることを志願した時、我々は、いいえ、作間さんはその時に気付いたのです」
金森が息を呑み、喉が鳴った。大嶋は髪を耳に掛ける。
「あなた方の、裏切りをね」
その瞬間から、繁野の頬が細かく上下した。金森は靴を踏み、アスファルトの小石を弾いた。
「繁野さん、あなたはかつて『先遣』の見田さんに師事していましたね。それに金森さんは、千林高城さんの姪にあたります。……何故そんなことを知っているのか、という顔をしていますね。調べたからですよ。倉田さんや相沢さんのように最初から『SSパッケージ』に参加していた方はともかく、あなた方のことは結社に入る時に徹底的に調べました。だからこそ、『先遣』と組んだ瞬間からあなた方は戦力には数えていなかった。そして、対策も取っていた。嘘の情報を流して、です」
「何だと」
「ここには作間さんたちは来ません。当然刀も。作間さんと倉田さんと相沢さんとで本来の出口から既に持ち出しました。あなた方の目的の品は、既にここにはありません」
言葉に波を持たせず、平坦な彼女の声は等間隔に落ちる水滴のように単調だった。
「大嶋ァ、てめえ裏切るってのか」繁野は喉を詰まらせる。
「なんの話でしょうか」
「作間さんに刀の話を持ちかけたのは俺たちだろう。お前もこの話には乗っていたはずだ」
「そうでしたね。でも、知っておいた方が良いですよ。仲間というのは、往々にしてそういうものです。作間さんが先遣を裏切り、あなた方が作間さんを裏切ったように、ね」
金森は舌打ちをした。大嶋から目を離さない。
「じゃあ、あんたはどうなの。何がしたくてこんなことしてんの」
金森の眼光は静かな怒りに満ちていた。
「大嶋、あんたは、どこの魔術師なわけ」
冷たい空気に吐き出される息と言葉は、生々しい温さで白い靄となってこの世に現れる。
大嶋愛生は、口角をにたりと持ち上げる。微笑であり、蔑みだった。
「今は『先導者』の魔術師ですよ。あなた方と同じね」
「くそがっ……」
繁野はUSBメモリを宙に投げた。
大嶋の目は、犬の排泄物を見るように冷徹なものになる。
「愚かですね」
『鋼鉄に臥せ――〈豪球!〉』
繁野のUSBメモリが砕け、その破片の一つ一つが鉄球に変わった。
サイズは〈鉄球連射〉の鉄球より一回り大きい。
重力に魔術の力を加え、それらはあられのように降り注ぐ。
大嶋の頭上から、十数個の凶器が襲いかかった。
――だが。
「その見通しの甘さが敗因ですよ」
大嶋愛生は青色のブロックを数個放る。
その瞬間、急速な落下を始めた鉄球は霧散した。砕け散ったのではなく、塵となって消えたのだ。
「ばかな……!」
「憤った繁野さんがこう来ることは、予見していましたので」
「対策済みってわけか」
「当然でしょう?」
大嶋は知育玩具のブロックを一つ、デニムパンツのポケットから取り出す。まるで異次元と繋がっているかのようなそのポケットは、ブロックが入っているとは思えないほどスマートだった。
緑色のブロックに魔力が込められる。
気付けば、繁野の隣に金森の姿がない。
大嶋愛生は知っている。金森比呂乃は、近接戦闘に特化した魔術師だということを。
背後。
繁野の力では、彼女の囮にしかならないのはわかりきっていた。
金森は、大嶋の目にはまだマシな魔術師に映っていた。
繁野に比べれば、比較的マシ、だったのだ。
『集約せよ――〈骨拳〉』
ただひたすら拳の強度を上げ、一撃の威力を最大まで上げた金森の魔術。
それも、大嶋愛生は知っている。
何故なら。
「仲間には、通じませんよ」
大嶋は緑色のブロックを魔力で砕く。
『残虐、故に雄々しくあれ――〈英雄〉』
金森の拳は大嶋の回し蹴りによっていなされた。
「……っ!?」
「ごめんなさい。私、別に遠距離型ではないんです。あなた方の前では、そう装ってましたけど」
一点集中型の拳を弾かれた金森は、退避行動に移るため、コンマ数秒身体のバランスを失った。
そこに、大嶋の強化された肉体が襲う。
女性にしては長身な大嶋は、軽々とした身のこなしで蹴りを繰り返す。
金森の身体はもはやサンドバッグだった。倒れることも許されず、ただ腹部、胸部に衝撃を受け続けるだけ。一撃で弾き飛ばされてもいいはずの蹴りに、それでもその場で攻撃を受け続けるのは、大嶋がそのように加減しているからに他ならない。
既に金森の意識は失せていた。大嶋の足は、金森が吐き出した血で真っ黒になっていた。
「終わりです」
長い足を高く振り上げた。そして、力なく倒れようとしている金森の頭上から踵を落とす。
「くっそがぁあっ!!」
叫び声と共に、繁野の魔術媒体であるUSBメモリが投げ込まれた。
それは無数の小型爆弾となり小さく爆ぜた。
金森の身体は僅かな爆風で僅かに傾ぐ。それによって大嶋の足は辛うじて金森に直撃することなく、代わりにアスファルトを粉砕した。
大嶋は嘲る。焦りに息を乱す繁野の姿と、もはや死を迎える直前の金森を見て、嘲る。
「殺されたくないのなら初めから本気を出すべきですよ。まあ、それが分からないのでしょうね。あなた方のような、闇を気取っただけ半端者には」
「ぶっ殺してやる」
「金森さんでも無理だったのに」
繁野の拳がギリリと鳴って、魔力は繁野の髪を逆立てる。
『墜ちろ――〈重鉄球〉!!』
全てのUSBメモリが砕け、それは直径五メートルの巨大な球体になった。
繁野の魔力はそれを持ち上げ、大嶋愛生に向かって射出する。
空気抵抗をものともせず、突進してくる鉄球の爆音。
しかし、大嶋は歯牙にも掛けない。
「そうなんですよ。それが、あなたの限界なんです」
空気がたたき割られるような甲高い音が鳴った。
巨大鉄球が粉々に砕かれたのだ。大嶋は、その鉄球に触れることも、ましてや、一瞥もくれることもせずに、それを塵にしてしまった。
繁野は目を見開く。瞬きはされなかった。
「一体……なんなんだお前は!」
繁野の声から怒りが消えた。
いいや、端から怒りなどなかったのだ。
得体の知れない恐怖に支配されたそれが、今ここで姿を見せたに過ぎない。
「さようなら。短い間でしたが、下らない時間をどうもありがとう」
大嶋の一言が繁野の心臓を握る。
白いブロックが空から降り注ぐ。
大嶋は、魔術を使用するために必要なその知育玩具を、魔術で降らせていた。
『残虐、故に麗しくあれ――〈舞羽〉』
白いブロックは瞬間にして無数の羽に変わった。
大気の流れを無視して、白鳥の羽ばたきの余韻のようなそれは、ふわりと世界を踊り舞う。
その一枚が、繁野の身体に触れた。
瞬間、繁野は爆発の中に消えてしまう。
美しいその光景は、残虐な末路への目眩ましであったかのように絶望を奏で始めた。
それは弾丸であり、矢であり、刃であり、爆弾だった。
連続する暴虐は、尚涼しい顔をする大嶋に圧倒的勝利をもたらした。
大嶋は蚊でも潰したように無表情で、己の道を進み始めた。
「せめて、圧倒的な実力の差というものくらいは見誤らないで頂きたいですね」
彼女の力は、小さな闇を容易く屠る、絶対的な深淵を見せつけていた。
――いや、違う。
大嶋は立ち止まった。
振り向けば、繁野の身体は血だらけながらもその姿を保っていた。
「おやおや。お早いですね。さては、お父様から何か聞いたんですか、出海……結さん」
次回もよろしくお願いします!




