爪痕 2
「君は――神の魔術師を知っているか」
意識を取り戻した時、自分の体に医療魔術を施していた金色の魔術師は、ふとそんなことを嘯いた。
伝説というのは往々にして存在しないものとして語り継がれ、そういったものを後生大事にする人間のことを、そうじゃない人々は指さし笑い否定する。神話を読んで、ああ本当に世界は神様が七日間で作ってそして遠い遠い所から今でも僕らを見守ってくださってるんだ、と思っている人のことなんて、少なくとも一般的な感覚では理解も出来ない。
そして、どんなに信心深い者にも、信じられないことというのはある。
「何と言った」
力ない声で、白髪の魔術師は訊ねた。
魔術師の世界にも、誰も信じない神話のようなものはいくつもある。
だが、多くの魔術師が最も否定し、決して信じないおとぎ話があった。
『――神の魔術師。
それは、世界の全てを統べる、絶対にして無二の存在――』
ピンチの時はヒーローが助けに来てくれるの、などと子供が言えば微笑ましい限りだが、いい大人がそれを口にして馬鹿にしない者がいないように、おふざけも大概にしろと言いたくなるようなものだった。
「ふざけているのか」
「いいや。大真面目さ。何せ神の守護者なんてものがあるんだ。おとぎ話もあながち嘘じゃないと思わないか」
「レベルが違う」
「確かに。だが彼はそうは思っていない」
「絵空事だ」
「残念ながら和川奈月はそうは思っていないんだよ」
片目を髪で覆い隠した男は、拘束された白髪の魔術師を、息を切らしながら治療し続ける。
「圧倒的な力を手に入れることが出来れば、それは最強の抑止力になる。戦争を起こさせない為の力さ」
「実現出来ると思っているのか」
「ああ。少なくとも和川奈月はね」
「信じ難いな」
「だろうね」
コンクリートで囲まれた――おそらくは塀の中――白髪の魔術師は指の一つも動かせずに、ただ天井を見つめた。
心の中は空っぽだ。信念も理想も夢も現実も、大切な約束さえも、もはや彼にとっては過去のもののように感じられた。
「そんなおとぎ話に……俺は負けたのか」
白髪の魔術師は静かに目を閉じる。そこに押し寄せる感情は、屈辱でも憎悪でもなく、ある種の達成感だった。今まで積み重ねて来たものの全ては一瞬にして崩れ去り、何一つとして彼は得られなかったが、しかし、長かった『今日』は確実に終わりを告げたのだ。
「馬鹿げているだろう? でもね、なんの根拠もなしにそんな夢物語を言うようなら、誰も彼に付いていきやしないさ。和川奈月は実現するよ。彼自身が、『神の魔術師』になるその時が、必ず来る」
「恐怖政治のようだな」
「世界の現実は今だってそうじゃないか。何も変わらないよ。ただ傲慢な権力者が怯えるだけさ」
「問題だらけだな」
「それも含めて考える為に僕らがいる。彼は一人じゃ何も出来ないし、一人では何をするか分かったものじゃないからね。お目付役でもあるのさ」
白髪の魔術師は、声もなく笑った。
馬鹿馬鹿しい、ということなのか、理由は、本人にもよく分からなかった。
「やりなおせ……彼は君にそう言ったそうじゃないか。全く何様のつもりなんだか……。でも、残念なことにああいう奴なんだ。悪は悪と断じる割に、ここぞという時正義になりきれない。甘いだろう。けど面白い奴さ。だから人が付いてくる」
そうかよ、と囁いて、白髪の魔術師は、再び深い眠りについた。
――魔術師は夢を見る。
自分が進むその道が正しいかどうかなど、所詮、人の身には分からない。
眠りの中で、白髪の魔術師は、過去の夢を見た。自分が進んだ道は決して恥ずべき道ではなかったのだ、と言い聞かせているようで、惨めに感じられた。
だが、自身の歩んだ闇は、それでも世界にとっての光なのだと信じていた。
疑問を持たなかった訳ではない。しかしそれらを振りきって、魔術師は悪を選んだ。
純粋に平和を求めた悪の魔術師。
リオウ=チェルノボグは、夢の中で思う。
絵空事もまた、今となっては眩しいものだと。
大いなる矛盾を孕みながら、彼らは前に進むのです。
次回もよろしくお願い致します。




