第五章――象るもの 1
「気付いていたのか」
リオウ=チェルノボグは小さく嗤いながら、その妖しい声を漂わせた。白いオーラが闇に映え、暗黒を色濃くし、相反する色の混じり合いに世界が震えるのを、二人の魔術師は感じていた。
「名前だけは、君が雇ったサミュエル=ジョーンズから聞いていたからね。気付いていたのかなんて白々しいことを言うなんて、少し驚いたよ。むしろ気付かせたんじゃないかとさえ思ったくらいだからね。リオウ=チェルノボグともあろうものが、こうも簡単に尻尾を見せるわけがないだろう」
不知火は冷静に努め、リオウに相対する。
「例えば、通信札に仕掛けられた謎の障害。中部支部内にいる人間とは問題なく通じるのに、外部の人間とは全く繋がらない。こんな魔術、発動するだけでも相当だ。それを、僕ら中部支部の魔術師に全く気付かれないように仕掛けるとなると、そこらの魔術師には不可能。さすがは、フリーの傭兵として名を馳せた魔術師、リオウ=チェルノボグと言わざるを得ない。それなのに、だ。魔術鉱石の配置もそう、サミュエル=ジョーンズもそう。ありとあらゆるところで詰めが甘いんだ。少女をさらわせておいて、特に何をするでもなくただ時間稼ぎを指示していたそうじゃないか。まるで無意味としか思えない。しかも、律儀に依頼書に名前まで載せているしね。
そして、僕は魔術鉱石を辿ることでこの場所、つまり廃絶部の屋上に魔術鉱石と首謀者を見つけた。でも、僕はもっと手間取ると思っていたんだ。魔力を辿るのは、本当なら二時間以上は要するような魔術。それがたったの一時間と少しで掴めてしまった。おかしいと思っていたんだ。通信札に厄介かつ高難度な仕掛けをしておいて、どうしてこんなに簡単に尻尾が掴めるんだ、とね」
ここまで語って、それでもリオウは振り向かなかった。背中から発する闇は棘のように和川や不知火を突き刺す。
「そうだね、とりあえず、まあ一応、目的だけでも訊いておこうかな。何人もの魔術師を雇って、貴重な魔術鉱石を複数の箇所に、しかも明確な意図を持っているであろう配置の仕方で置き、さて、リオウ=チェルノボグは何をしようとしたのかな」
答えが返ってくる、とは不知火も和川も思っていなかった。
だが。
「冷静なように見えて相当な焦りを感じるな。怖いか? 俺が」
答え、とは言い難かったが、しかし、リオウ=チェルノボグがこの瞬間に声を出すとは思わなかったのだ。表情は見えなくても、嘲笑っていることだけは感じ取れる。
「ふざけているのかい?」
怖いかと訊かれて怖いと答える馬鹿はいない。不知火は、腕を伝う滴には目を瞑る。
「ふん、ふざけている、か。そう思うのなら結構。その程度の男だと受け止める。ただ、日本に来てまだ日が浅い。もう少し簡単な言葉を選んでくれるとありがたいな」
流暢に喋っておいて何を言うかと和川は思うが、口を挟む隙はなかった。
「僕の言葉が難しいと分かっている時点で堪能だと理解するが」
「なるほど。そういう考えもあるか」
実に、奇妙な光景だった。
和川には、気持ちの悪い時間だったのだ。
立ちこめる殺気にも似たこの空気は、ただ自分が測りちがえているだけで実はとても平穏なものなのかもしれない、とさえ思った。
和川自身の覚悟は、すぐさま火花散る戦場を想定していた。だが、それはこの不気味な空気に裏切られる。緊迫した状況は変わらない。なのに、世界はこれほどまでに静かだったかと、疑問を持たざるを得ない。
一瞬の沈黙。これが、嵐の前の静けさというのだろうか。
「どうしても、と言うなら、一つだけ、ヒントを教えてやろう」
リオウ=チェルノボグは、ポケットに入れていた右手を出し、小さく天を指さした。
「タイムリミットは、夜明け」
「「!?」」
驚愕が奔る。電流のように躰を駆け巡る。和川奈月はもちろん、不知火オーディン大和までもそれを隠すことは出来なかった。その言葉が意味するものは、二人の想像に難くない。
「夜明けと共に、俺の計画は完遂するということだ」
背を向けたままに、リオウは常闇を周囲にばら撒く。
「さて、どうする? 日本魔術協会廃絶部の魔術師。このままだと、世界は激変するぞ」
再びの静寂。
白き魔術師は両手を広げ、そして。
「さあ、かかってきな。止められるものならな」
瞬間、二人の感情は爆発した。
先陣を切るのは和川奈月だった。背を向けたままのリオウへと突っ込んでいく。
右の拳は固く握り、その速さは、人間の限界を見せつけているようだった。
十数メートルの距離があった。しかしその距離も、最速の和川にはないに等しい。
和川が拳を振りかざし、敵魔術師へと照準を合わせる。
時間にして二秒もかかってはいないだろう。突撃の時は一瞬で訪れる。
和川奈月が放つ最速の拳は、リオウの後頭部へと、空気を切り裂く音と共に突き進んでいった。
だが。
「遅い」
その拳がリオウの白き髪に触れることはなかった。
高速の拳がリオウにあと数センチと迫ったその時、和川の拳を霧状の何かが覆ったのだ。
重たい音が響いた。
鈍器で殴られたような痛みが全身を襲う。
和川は大量の空気と唾液を吐きだした。気付けば、体は宙を舞っている。
声にもならない叫びに、和川の全身を襲う痛みがありありと滲む。
だが、それで終わる敵ではなかった。
夜空の空気を、一体何度衝撃が襲っただろう。
和川は地面に転がることすら許されないまま、重力に従って落ちる度、何らかの力によって上へ押し上げられ、重たい痛みを全身に与えられていた。
数にして十八回。一瞬だった。
和川は地面を転がって、不知火の足元で倒れ込んだ。
不知火は、視線を落とせば見える筈の和川をチラリとも見ることが出来なかった。敵の力に、驚愕の色を隠しきれないからだ。
(今、何をした?)
不知火はただただ、動揺するしかなかった。
本来、魔術協会は、魔術師同士の戦闘を一人で行うことを是としていない。なぜなら、魔術は一度使う為に一定以上の時間を要するからだ。相手の一瞬の隙を突く戦闘に置いて、魔術発動の瞬間は致命的な隙になる。
魔術師同士の戦闘の基本は多勢優勢。自軍の手数が相手より一人でも少なければ退け、というのが常識。魔術戦闘はたった一人の人数差が勝敗を分ける。
不知火の頭の中を理屈めいた言葉が埋め尽くす。
分からなかったのだ。不知火には、それが可能なのかが分からなかった。
(早すぎる……。魔術の、発動が)
白髪の魔術師は何らかの魔術を使用して和川の拳を避け、反撃を加えた。
和川は早い。目で追うのも一苦労だろう。ましてや初見で反撃をするなど、並みの魔術師には不可能に近い。
だが、防がれた。いや、防がれたとも呼べないのかもしれない。
敵は防ぐまでもなく和川を弾き飛ばした。速さでは体術には遙かに劣る筈の、なんらかの魔術で複数回。
「う……アァッ……!」
和川は躰をくの字に曲げていた。
不知火にも、和川の苦しみ悶える声は聞こえている。だが不知火は、敵から目を離すことが出来ないでいた。理屈は分からずとも、不知火には見えてしまった。
和川奈月の拳は最速で放たれ、それをリオウ=チェルノボグは目視もしていなかった、その事実を。
ほんの一瞬。
リオウは手から何かを出した。その瞬間。和川の周りに霧状の何かが現れ、和川の躰を覆い尽くした。
直後に和川の躰は重たく鈍い音と共に宙へと投げ出され、十八回も、体勢を立て直すことも許されないままに痛めつけられ続けた。
不知火オーディン大和は優秀な魔術師だ。おそらく、和川とは比にもならないくらい。
不知火はその眼光で『一瞬』を捉えていた。だからこそ、この状況を飲み込めずにいる。
(ふざけるな……あんなに早く魔術を使える訳がない)
心の中は早口だった。表情ではなく、内側に焦りが色濃く映る。
(あの魔術は間違いなく〈衝撃〉だ。確かに〈衝撃〉の速さなら可能かもしれないが、十八回も連続で発動できるような代物か?)
その力は圧倒的だった。
「今、何をしたんだ」
前方十数メートル。敵を目前にして不知火は溢れる疑問を一言に集約し放った。
「なんだ、また質問か」
敵は、まだ背を向けていた。つまりリオウ=チェルノボグは、背を向けたまま、あれだけのことをしてのけたのだ。
「聞いて、貴様に分かるか?」
重い響きが不知火の鼓膜を揺らす。不知火の肌が震えた。
リオウが投じる言葉と声。見下すようだ。同格ではないことは確かだがそれにしても蔑み具合が並みのそれではない。声色だけでそれ程なのだ。
ならば、その姿を目にする時、それはどれほどのものなのか。
魔術師、リオウ=チェルノボグは、振りかえった。その狂気を包み隠さずに。
まるで、雲上人でも見ているかのような感覚だった。
端正な顔立ちだった。透き通るような肌。くすんだような印象の掻き乱された白髪。前髪に隠されながらも、しかし鋭く光る碧眼。ニヤリと嗤う口許は、その声色を表現したようなおどろおどろしさを見せる。衣服はやはりだらしなく、囚人服のような汚らしさすらあった。
だが。
不気味な美しさが、その闇にはあった。
不知火は生唾を飲んだ。溢れ出る恐怖を飲み込むように。
「見て分からないか、魔術だ」
リオウは、やはり嘲う。
答えは端的で簡潔。不知火にも分かりきっているものだった。どんなに考えを巡らせても、あの行為が体術である訳がない。
「納得していないようだな。まあ、納得してもらう必要もないか」
リオウの言葉に憤りを感じながら、不知火は困惑の色を隠せずにいる。目の前で起きた事態を、まだ脳が理解するまでに至っていない。
魔術師、リオウ=チェルノボグとの差。
そんなことは分かり切っていたことだ。だからこそ不知火は怯え、心の底で恐怖していた。
不知火も天才の類だ。だが、この男に関しては格が違う。
魔術師の世界でも名の知れた実力者なのだ。
リオウ=チェルノボグ。
名声が、そこにはあるのだ。
朝、和川が開いていた雑誌、『月刊ウィッチ』でもその名は挙げられている。世界が恐怖する魔術師の一人に、彼の名はあった。
常識が通用しない魔術師の世界にあって、数段上のステージで常識外れを体現してきた男。
それこそが、眼前の闇の正体。すなわち、敵。
冷静を欠くな、と心で言い聞かせるのは簡単だった。だが、その命令に心自身が従ってくれない。魂は怯える。精神は前を向いているのに、奥底の魂が震えている。戦わなくてはならないのに、それが分かっているのに、脅威を前にして動こうとしない体に不知火は酷く自分を恥じた。だが、何も出来ないままだ。
その時、
「おい……コラ……」
初めて不知火の視線が、足下へと向けられた。
そこには、和川奈月がいた。
「ちまちま、考えてんじゃねえぞ……大和」
和川の声が不知火の耳に届いたのだ。
今の今まで苦しみでの中でもがいていた和川が、息は乱しつつも、ゆっくりとした動きで体を起こす。
そして和川奈月は、無傷のまま立ち上がった。
「なっ……!?」
驚愕は不知火のものではない。ましてや和川でもない。
敵の魔術師、リオウ=チェルノボグのものだった。
「何故俺の魔術をまともに受けて……何故再び立ち上がることが出来る」
その声には、先程までのような分かりやすい余裕、というものは含まれていなかったように感じられた。怒りとも違う静かな驚きがそこにはあった。
「この俺の魔術だぞ? 無傷である筈がない!」
これを人は驕りと呼ぶのだろうか。驕るに足る実力はある。リオウの言葉に他意はなく、素直な感情を吐いたのだろう。
だが、和川奈月は無傷だった。
不知火は表情を変えず、しかし息は多少の乱れを見せた。ふらつく和川に、真正面から向かって行くのは愚かだったと、そう教えられた気分だった。後悔した所で意味などないのだが、和川の痛々しい表情を視界にとらえた今、不知火はそう思わざるを得ない。
「もう一度行くぞ。大和」
不知火の心を知ってか知らずか、和川は静かに突撃を宣言した。
和川は大して考えてなどいない。状況から考えを巡らせて答えを探し出せるほど、彼には知識も経験もない。
だからこそ、臆さなかった。
無傷であるその躰も、間違いなく悲鳴を上げているのだ。それでも、和川は逃げることはしない。それを和川自身も知っているし、不知火だってその性格を知っている。
不知火は無理に笑って、
「全く。まだ奴の魔術の正体も分かっていないというのに、また馬鹿正直に正面から突撃する気かい?」
「おう。俺が突撃以外のことを思いつくとでも?」
脳内をループするモヤモヤした考えが、一度リセットしたかのような感覚を、不知火は感じた。
なんだ。簡単じゃないか。
そう思った不知火は、大切なことを見落としていた。
何が格の違う相手だ。自分は一人で戦っているんじゃないんだ。
力を合わせる仲間がいるじゃないか。
そして、静かに、心から笑みを小さく浮かべて、
「それもそうだね……。やっぱり、そういう君の性格は羨ましいよ」
「だろ?」
二人の行動は、魔術師の戦闘のセオリーを実行する、に正式に決定した。
近接戦闘に特化した魔術師、和川奈月。
遠距離戦闘に特化した魔術師、不知火オーディン大和。
一人じゃない。
これ以上の強さがあっただろうか……少なくとも、不知火オーディン大和には、他に思い当たるものはなかった。
遂に衝突!




