笹見みづきは奮闘する
笹見の速さは、つまり水製サーフボードの速さは、やはり車に比べると段違いだった。
一時間足らずと予想していた目的地まで、掛かった時間は僅かに二十分。もっと練習しておけばもっと縮められたのに、とタイムトライアルでもしているかのような感想を持ったが、何も到着時間を競いたい訳ではない。
急がなければならなかった理由は、てっぺんにある。
見上げると、そこには聳え立つタワーがあった。中部支部近くのビルや、その周囲のビル群に比べればさほど高くはない。そのくせ、展望タワーなので頭でっかちになっており、少々不格好だった。
笹見みづきは息を切らしながら、どう昇るかを考えた。
下から見る限り、屋上は狭い。隠れる場所もないだろう。ということは、屋上で魔術鉱石に触れ負傷した番場最人は、敵から逃れることが難しい状況だと推測出来る。となると。
「もうやられちゃってたりしないよね?」
そういう不安も湧きあがって来る。
エレベーターはもちろん動いてなんかいない。外の壁をよじ登るのも簡単ではないし、さほど高くないとはいえ跳び上がるのにも無理がある。サーフボードを生みだす魔術では、狙いの場所に上手く着地できるかが分からない。やはり移動用には不便だ。自分を持ち上げる魔術もあるにはあるが……自分の体重を支えてなおかつコントロールするのはやはり難易度が高い。
ならば、と面倒臭がりな女子中学生が考えたのは。
「引きずり下ろすか」だった。
つまり、自分を持ち上げるには繊細なコントロールが必要だけど、敵を叩き落とす分には繊細さなんてこれっぽっちもいらないでしょ? という論理。というか屁理屈。
右手で頬を一度やさしく叩き、学生鞄から魚型醤油さしを九つ、両手いっぱいに掴んだ。
「とりあえず大きいのを撃てば勝手に下りてきてくれるかな」
楽観視ではなく、それしか出来ないので仕方なく。
『それは貫く牙、時に砕き、喰らい尽くす牙、その絶望の名は、――〈鮫〉』
魚型の醤油さしが弾け散った。中の水は膨張し姿を変える。それは大人一人を丸呑みしてしまうような、巨大な鮫だった。鮫は空気中を泳ぐように漂い、のっそりと天へ舞いあがる。
「ばか! 早く昇ってよ! そんなにキープ出来ないんだから!」
歯を食いしばりながら手を空にかざす笹見。これらの魔術もまだ自在ではないのだ。いつ消えてもおかしくない。
「いっけえええええええええええ!」
叫びと共に、全長三メートルに及ぶ鮫は、タワーの屋上に辿り着く。
そして、〈鮫〉が屋上よりもさらに上へと泳ぎ、数メートル上で、方向を変えた。
タワー屋上に向かって真上から急降下する水製鮫型砲弾は、真っ暗な深夜の田舎に非日常の爆音を轟かせ、タワーからは大量の水が豪雨のように地上に降り注いだ。
「やったか」ついそう言ってしまった笹見だが、
『おいコラ笹見! 俺いること忘れてるだろ!』
セーラー服の胸ポケットに入っていた紙切れから、怒声が響いた。
「あれ? 番場さん。生きてたんですか」
『勝手に殺すな生きてるよバカ! つーか死んでたら撃ってもいいとはならねえだろ! っていうか安否確認もなしにデカイの撃つんじゃねぇあやうく死ぬ所だっただろうが!』
「ごめんなさーいっ」
『なんだその不貞腐れた小学生みたいな謝り方は! そんなんで許す訳ないだろ!』
やけに勢いのある番場の声に、拍子抜けと言うと聞こえは悪いが、そう笹見は思った。
『ったく……今は、まあいい』一気に冷めた番場の声。『いいか笹見、油断するなよ。たぶん、そっち行ったからな』
「……へ? 何が?」
間抜けな声を漏らしたその瞬間。
何が来るかなど、わざわざ訊くことでもなかったのだ。
ぞくっとした。
背後に異形が現れたことが、振り向く必要もない程凶暴なオーラとして伝わった。音はない。衝撃もない。ただ、夜の空気に氷を撒いたような、極寒の冷気が体内に入って来る感覚。これをきっと、恐怖というのだろう。
しかし振り向かない訳にもいかない。この恐怖に打ち勝つ為に急いだのだから。
笹見はセーラー服の胸ポケットから二つの醤油さしを取り出し、背後に投げつけながら振り向いた。
それは、予め仕込んでおいた特別製のものだった。事前に準備を魔術媒体に、つまりは魚型醤油さしにしていた。詠唱は不必要。素早く魔術が発動される。こけおどしでしかない代物しか、笹見みづきの実力では用意出来なかったが。
それは爆竹のように、水風船が割れるような音と共に水飛沫が散った。爆竹程度でしかなかった。
「ふざけてんのか、ガキ」
静かに闇に響く声が、鼓膜から入り込んで平常心を引き裂いた。
声は聞こえた。だが姿が見えない。180度見回すが、やはり気配も感じられない。
その答えは、明確だった。
真上。
水製鮫型砲弾がタワーの屋上を急降下して襲ったように、敵は、笹見の頭部を目掛け上空から落下する。重力に逆らっていないとはいえ、その速度はそれだけでは説明できなかった。
つまり、一瞬の出来事だったのである。
笹見は、躰が硬直し反応さえ出来なかった。純粋な恐怖が判断能力の全てを奪う。
まるで認識の外に強制的に追い出されたような感覚だった。何も出来ず、地面に転がっていた。
だが、笹見みづきは無傷だ。
一人ならば、ここで笹見みづきはこの世に繋ぎとめられることはなかっただろう。しかし、日本魔術協会の魔術師は、何も笹見みづき一人ではないのだ。
爆音が周囲を飲み込んだ直後、襲撃者は、大きな音を立てて舌打ちをした。
「またその盾か。うっぜえ」襲撃者は、高い位置から魔術師に言葉を吐き捨てる。
「うぜえなんて言葉遣いはレディに似合わないんじゃないの、お姉さん」
盾の魔術師は歯を食いしばりながら、それでも襲撃者には挑発するように笑みを見せる。
一方の笹見は、冷たいアスファルトの上を転がっていた。突き飛ばされたのだ。重たい盾をその手に持った魔術師、番場最人に。
「番場さん……ピンピンしてる?」笹見は状況をイマイチ理解出来ないまま声を漏らす。
「おう笹見。誰も重傷だなんて報告した記憶はないんだけどな」
番場最人の二本の足は地面を掴み、盾は最も頑丈な面が上空に向けられている。真上からの襲撃はこの盾によって防がれ、攻守の激突により爆音が周囲に広がったのだ。盾の上には、女の姿があった。
「調子に乗りやがってよ」
舌打ちをしながら、襲撃者は盾を足場に、それを蹴ることでその場を離脱する。
身軽に跳び上がり、軽やかに地面に着地した一人の女。
茶色く長い髪は妙に狂気を帯びて、吊りあがった目尻は粗暴な人物像を想起させる。長身で脚が長く、一流のファッションモデルと言われれば納得してしまいそうだが、漂う殺気がそうではないのだと教えてくれる。細身のジーンズに脛まであるブーツ。上半身はニット素材のベージュ色セーター。真冬にしてはやや軽装で、そしてスタイルが良いからこそ活きる服装だった。顔立ちは日本人と似ているようにも感じるが、言葉は、所々にネイティブを感じない。独特の発音だ。
そして、それらがとにかく、笹見には恐怖でしかなかった。
「なんだそこのガキは。仲間か」
それなりに整った顔から、襲撃者はおぞましい笑みを見せつける。
「そうなるな。二対一は不都合か?」
「ぶっ殺すから関係ない」
会話になっていないような気もするが。
「だから、レディがそんな言葉遣いをするもんじゃないって」
「殺す」
「出来ないことは口にするなっての」番場は挑発するような口調を変えない。
襲撃者は激昂し、一気に速度を上げた。
またも爆音が響く。
盾を持った番場は、襲撃者の突撃に動揺一つせずその攻撃を防いだ。襲撃者の女は拳を鉄のように固くして、盾を貫かんばかりの衝撃を防御の要に叩きつけたのだ。
響く爆音とはつまり、鉄と鉄との激突音。
当事者の襲撃者と番場は、それに動じることはない。蚊帳の外である筈の笹見の鼓膜が誰よりダメージを受けていた。高音が心臓すら揺さぶり、体の内側を軒並み壊して回っているような感覚に吐き気すら覚えた。
(あの女も、港にいた外人と同じ敵なのか……じゃあ、とっとと倒せば帰れるかな)
鋼の心臓でもないくせに、いや、ないからこそ強引な考えで笹見は自身を奮い立たせた。モチベーションはいち早い帰宅。その一点に絞った。絞らないことには、この恐怖心は乗り越えられそうもなかったのだ。
魔術には時間が掛かる。大きいものならなおさら。
(時間稼ぎお願いしますよ……番場さん)
タワーの足許で交戦中の番場と襲撃者との距離を取るように、笹見は息を潜めてタワーから離れ、物陰に身を潜めた。
距離は四十メートル。深夜故に視界は心もとないが、鉄と鉄の衝突から生まれる火花と金属音が、二人の確かな位置を教えてくれている。
笹見は鞄の中の魔術媒体、つまり魚型醤油さしを三十個、自分を中心にして囲むように円形に置いた。そしてさらに二十個、今度はさらに遠くに撒いて、二重の円を描く。
出来るだけ早く、正確に、そしてなにより強力に。笹見みづきは目を閉じ、幾つもの言葉を紡いでいく。
この魔術の発動に掛かる時間は十二分。十二分というのは、笹見がこの魔術を発動するのに掛かる時間としては最速記録で、平均は十四分程。なので、今回もその時間で出来るとは限らない。
一つ一つの魔術媒体に魔力を行き渡らせるのは、中学生の新人魔術師には至難の業。故に、詠唱は五十もの言葉を必要とした。
集中し、一挙一動に細心の注意を払う。
番場の戦闘が耳に入る。鼓膜が刺激される。しかし構わない。
焦るなと言い聞かせるように心で呟いて、そして。
十一分と二十七秒。最速を記録した。
五十個の魔術媒体が青く輝く。
「ったく。おせぇよ」
笑いながらそう言ったのは、番場最人だった。
女は目を見開く。いつの間にか少女の存在を視界から外していた。いや、番場により外されていた。
「ウチの新人なめんなよ。俺よりは才能あるぞ、多少はな」
言いながら番場は、仕込んでいた魔術の一つを発動した。
女が、魔術発動中の無防備な笹見を攻撃しようとした瞬間、番場は鉄の盾から無数のパチンコ玉のような小さな鉄の弾丸を生み放ったのだ。
襲撃者の女はそれらの対処に意識が傾く。
そこが、襲撃者にとっては絶対に作ってはいけない致命的な隙になった。
『青天を貫け 荒野よ沈め 水天一碧
冥界の魔物 その名は、――〈鯱〉』
笹見みづきを囲む魔術媒体が、二重の水の壁を作るように天高く噴き上がった。
それらは独立して、それぞれが形を成していく。数は五十。小さなミサイルのような水製の弾が宙に浮かぶ。
それは、海のギャングと言われる存在だった。獰猛で、海の生き物はもちろんのこと、陸の生き物も、空の生き物さえその牙で噛み砕く。実際はそうでもないのかもしれないが、何せ、この魔術が生み出されたのは百年以上も前のこと。学術的な生態などは二の次で、まさしく魔物の如き生物としてのイメージが先行している。
すなわち、〈鯱〉は、凶暴性の象徴なのだ。
「行け! オルキヌス・オルカ!」
五十の鯱軍が一斉に一人の魔術師へと突き進んだ。
距離は四十メートル。だが、水製鯱型ミサイルを前に、その距離は無に等しい。
一人の魔術師が悲鳴を上げた。
鯱軍はただ単に敵に突撃するだけに非ず。
鯱には牙がある。その牙は、本来ならば捕食対象ではない人間を鋭く喰らう猛獣としての姿を見せた。これは鯱ではなく、あくまでも鯱の形を模した魔術。凶悪性に関して本物の比ではない。
アジア人女性魔術師、名すら分からないその襲撃者を、女子中学生が撃破した瞬間だった。
とは言っても、そこはまだまだ中学生のおこちゃま。残虐さはまだ備えていないのか、命を奪うまでの攻撃は行わなかった。魔術師の悲鳴が消えかかった所で魔術を消し、後の始末を番場に任せる形で、笹見は地面にへたり込んで躰を休めた。何せ、笹見は今日、これで二度目の戦闘だったのだ。
一度目は目も当てられないような雑魚(笹見談)。二度目は、やや厄介だっただろうか。それでも一撃で決められたことは大きい。
笹見の魔力は底を尽きていた。まともに歩くことも難しいくらいに。
「大丈夫か笹見。へろへろだな」
「だって……番場さんが急げって言うから。てっきりピンチなのかと」
「いや、ピンチだったぞ? この女が直情的で、まあ何て言うか、バカだったおかげでなんとかなったけど、おまえが一石投じてくれなかったらあと数分持たなかったかもな」
番場は言いながら、ボロボロの状態で地面に転がる襲撃者を見た。
襲撃者の女は、既に番場の魔術で手足の自由を奪われ、身動き一つ取れなくなっていた。しかし意識はある。会話も出来る。今は強制的に喋れないようにしているので、口を挟みはしなかったが、文句の一つも言いたげに唸っている。
「さて、俺ももう魔力ほぼゼロ。何も出来ん。通信は辛うじて出来るが、どうするか」
「私はもう帰りたい。寝たい」
「お前いつも二時まで起きてゲームしてるとか言ってたろ」
「ゲームと労働が同じだとでも言うんですか。めっちゃ疲れました。眠いです」
うつらうつらしながら、笹見は頭をくらくらさせた。本当に眠いらしい。
タイミングを見計らったかのように、番場の通信札が反応を見せた。
「江成からだ」
笹見は構わず仰向けのまま、冬の夜空を眺めた。
「おう。江成か。いや実は今……」
『あれ? もしかして、誰かから襲撃でも受けました?』
「お、おう。なんで分かる?」
『おれも、魔術師と交戦した所なので』
よく聞けば、江成の息は少々荒いかもしれない。
「まじか。で、どうだ? 無事か」
『ええ。大したことない奴でしたので』
「そ、そうか。ならいいけどさ」と、呟いた所で、番場は言葉に詰まった。
番場が襲撃された。江成も魔術師と交戦した。二人のいる場所は、今回の騒動の中心にいる何者かの手で魔術鉱石が配置されている所だ。
そしてその場所は、他に三ヶ所ある。そうなると――
「なあ江成。つまりそれってよ」
『そうですね……他の三か所にも、何者かがいる可能性は否定できない、ってことですね』
その一カ所。そこには――。
笹見ちゃんはもう少し先にも登場します。活躍、も、します。少しだけですけど。
次回は「その先には 4」になる予定です。よろしくお願いします。




