一
愛子が四歳の冬、近所の神社で見た光景を、彼女はずっと覚えていた。
絵馬掛けの前で、母が長い時間、手を合わせていた。風が強くて、何百枚もの絵馬がいっせいに音を立てていた。からん、からん、と乾いた木の音。愛子は母の着物の裾を掴んで、見上げていた。
「お母さん、何をお願いしたの?」
母は目を開けて、少し困ったように笑った。
「内緒」
「神様、聞いてくれるの?」
「聞いてくれるよ。でも――」母はしゃがみこんで、愛子と目を合わせた。「でも、お願い事は、一度しか叶わないものなの。本当に大事な一度きりのお願い」
「一度だけ?」
「そう。だから、よく考えて、本当に欲しいものだけをお願いするのよ」
愛子はその時、まだその言葉の意味をよくわかっていなかった。ただ、母の目が、少し遠くを見ているような、寂しいような色をしていたことだけを覚えていた。
その夜、布団に入った愛子は、天井を見上げながら考えた。自分なら何をお願いするだろう。新しい人形? それとも、幼稚園で意地悪な男の子が消えてくれること?
どちらも、なんだか小さすぎる気がした。
愛子は目を閉じて、心の中に浮かんできたものを、そっと両手で包むように抱きしめた。それがどんな形をしていたのか、言葉にすることはできなかった。ただ、温かくて、柔らかくて、どこまでも広がっていくような、何か。
「これがいい」
そう思った瞬間、愛子の中に小さな光が灯った気がした。誰にも見えない、誰にも言わない、最初の願い。
それが、愛子の「一番目の願い」だった。




