はじまり
「エレノア・フォン・ローゼンベルク! お前との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、王太子アルベルト殿下の声が響き渡りました。
豪華絢爛なシャンデリア。
着飾った貴族たち。
そして、わたくしに突きつけられた、あまりにも唐突な婚約破棄の宣言。
なるほど。
なるほど、ですわね。
「承知いたしました」
「なに?」
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします、と申し上げましたの」
わたくしは優雅に一礼いたしました。
我ながら、完璧な淑女の所作です。
内心では、思わず小躍りしておりましたけれど。
だって、考えてもみてくださいませ。
王太子妃教育という名の地獄。
朝から晩まで続く礼儀作法、政治学、経済学、外交の勉強。
おまけに、殿下の機嫌を損ねないように言葉を選び、社交界では常に完璧な笑顔を維持しなければならない。
それらすべてから、今この瞬間、解放されたのです。
素晴らしい!
なんて素晴らしいのでしょう!
明日からは好きな時間に起きられますし、読みたかった本も読めますし、何より王宮から届く無茶振りの数々に頭を悩ませる必要もございません!
……あら?
わたくし、もしかして、人生で最高の日を迎えているのではなくて?
「エレノア! お前は自分の立場がわかっているのか!」
「はい。婚約者ではなくなる、ということでしょう?」
「そうではない! お前は王太子妃になるという栄誉を失うのだぞ!」
「まあ。それは大変ですわね」
「っ……!」
殿下が顔を赤くなさいました。
どうやら、お気に召さない返答だったようです。
しかし、困りましたわ。
わたくし、これ以上どう反応すればよろしいのか、さっぱりわかりませんの。
泣けばよろしいのでしょうか?
それとも、その場に崩れ落ちて、殿下のお情けを乞うべき?
……嫌ですわね。
どちらも、わたくしの性に合いません。
「そもそも、お前は私にふさわしい妻ではなかった! 私は真実の愛を見つけたのだ!」
殿下が、隣に立つ女性の肩を抱き寄せました。
清楚な白いドレス。
柔らかな金髪。
そして、誰もが見惚れるような美しい微笑み。
王国が誇る聖女、セレスティア様です。
なるほど。
聖女様と結ばれるために、わたくしを捨てるということですのね。
……ところで。
聖女様は、なぜ先ほどから殿下の腕をそっと引き剥がそうとしていらっしゃるのでしょう?
「殿下。恐れながら、わたくしは先ほどから、そのようなお話は一切承知しておりませんが」
「遠慮することはない、セレスティア! 私は君を幸せにすると誓おう!」
「いえ、ですから」
「エレノア! 見たか! これが真実の愛というものだ!」
殿下は勝ち誇った顔でおっしゃいました。
わたくしは、心の中でそっと手を合わせました。
……聖女様。
ご愁傷様でございます。
どうやら殿下は、あなたのご意思を確認するという、初歩的な手続きをお忘れになっているご様子。
王国の未来が心配ですわ。
まあ、わたくしにはもう関係ございませんけれど!
「それでは殿下。わたくしはこれにて失礼いたしますわ」
「待て!」
「まだ何か?」
「お前は悔しくないのか! 私を失うのだぞ!」
……ええと。
この方は、いったい何をおっしゃっているのでしょう?
「殿下。恐れながら、わたくしは今、これまでにないほど晴れやかな気分でございます」
「なっ……!」
「それでは、ごきげんよう」
さあ、帰りましょう。
屋敷に戻ったら、まずはお父様に婚約破棄の報告を。
それから、王太子妃教育のために積み上げてきた教本を片づけて、久しぶりにゆっくりお茶をいただきましょう。
できれば、明日からは何の予定も入れたくありませんわね。
そんなことを考えながら、わたくしが踵を返した、その瞬間でした。
「お待ちくださいませ、エレノア様!」
背後から、澄んだ声が響きました。
振り返ると、そこには聖女セレスティア様がいらっしゃいました。
殿下の隣を離れ、まっすぐにわたくしを見つめておられます。
その頬は、ほんのりと赤く染まっていました。
「セレスティア様? いかがなさいましたの?」
「大切なお話がございます」
「大切なお話?」
「はい」
聖女様は、こくりとうなずかれました。
そして。
王国中の人々から愛される、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて。
とんでもないことをおっしゃったのです。
「エレノア様。わたくしと結婚してくださいませ!」
…………。
………………。
……………………はい?
今、何と?
「セ、セレスティア? 何を言っているんだ、君は!」
わたくしよりも先に、殿下が叫ばれました。
ええ、そうでしょうとも。
わたくしも同じ気持ちです。
聖女様は、殿下をちらりと振り返りました。
「殿下。申し訳ございませんが、わたくしは殿下と結婚するつもりなど、最初からございません」
「なっ……!」
「わたくしが生涯をともにしたいと願っているのは、ただお一人」
そして、再びわたくしを見つめます。
「エレノア様。ずっと、お慕い申し上げておりました」
大広間が、静まり返りました。
貴族たちが息を呑み、殿下は口をぱくぱくと動かし、どこかで誰かが持っていたグラスを落としました。
ガシャン、と。
あら。
高そうなグラスですこと。
……ではなく!
「お、お待ちくださいませ、セレスティア様!」
「はい。いくらでもお待ちいたしますわ!」
「いえ、そうではなく!」
「お返事は急ぎません。わたくし、何年でもお待ちできますので!」
「何年!?」
「もちろんです。十年でも、二十年でも!」
「長いですわ! そして、そういう問題ではございません!」
わたくしは思わず声を張り上げました。
いけません。
淑女たるもの、どのようなときでも冷静でなければ。
ましてや、相手は王国の聖女様。
無礼があってはなりません。
深呼吸。
すう。
はあ。
……よし。
「セレスティア様。まず、一つ確認させていただいても?」
「はい! 何なりと!」
「わたくし、女性ですけれど?」
「存じておりますわ!」
「……女性ですのよ?」
「ええ! その麗しいお姿も、優雅な仕草も、少しだけ厳しいところも、すべて大好きです!」
「麗しい……?」
「はい!」
「優雅……?」
「もちろんです!」
「少しだけ厳しい……?」
「そこも含めて愛しております!」
…………。
………………。
これは。
これは、もしや。
わたくしが今まで、知らず知らずのうちに見落としていた、重大な事実なのでは?
セレスティア様は、聖女。
誰にでも優しく、慈愛に満ち、王国の人々から深く愛されるお方。
そんな方が。
なぜ。
どうして。
わたくしに?
しかも、結婚?
女性同士で?
「……セレスティア様」
「はい、エレノア様!」
わたくしは、震える指先で彼女を指さしました。
そして、人生で初めて、淑女らしからぬ叫び声を上げたのです。
「貴女……そっち側のお人でしたの!?」
「はいっ! エレノア様一筋ですわ!」
聖女様は、満面の笑みでお答えになりました。
……神様。
どうか教えてくださいませ。
わたくし、先ほど婚約破棄されたばかりなのですけれど?
どうして今、王国の聖女様から求婚されているのでしょう?
そして、どうして。
どうして、そんなに嬉しそうなお顔で、わたくしを見つめていらっしゃるのでしょう!?
この日。
わたくしは婚約者を失いました。
その代わりに。
王国最強の聖女様に、人生を丸ごと狙われることになったのです。
誰か、助けてくださいませ。
わたくし、恋愛というものが、まったくわかりませんの!




