第97話 水を飲む鳥 ― 会ったことのない若き父 ―
響香は、目の前の建物の中のあかりを見つめたまま、
他のだれかと話しているようだった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第97話 水を飲む鳥 ― 会ったことのない若き父 ―
―― 会ったことのない若き父 ――
響香が飛行中に見た夢は、四十半ばの父の姿だった。
そこには、十八歳のころの父もいた。
夢の中で、響香は父の目を通して世界を見ていた。
見えているのは、若い父。
けれども、胸の奥で動いている感情は、なぜか響香自身のもののようでもあった。
――父の家に、水道ができた。
知覧の町では、かなり早いほうだった。
その日は、近所の人たちが珍しそうに見に来ていた。
タイル張りのシンクに水がはねる。
その音が、父の心を揺らした。
いや、響香の胸を震わせた。
どちらの記憶なのか、もう区別がつかない。
父は、庭のにわとりにもその水をやった。
三羽のにわとりが羽をばたつかせながら、競うように水を飲む。
――にわとりにも、水の味がわかるのだろうか。
空を飛ばない鳥が、水道水を飲んで、
一瞬、空に羽ばたいた。
旋回し、砂を蹴って着地した。
そのとき、飛行機のタイヤが滑走路に触れた。
響香の体もわずかに浮き上がり、
重力を感じて、夢から醒めた。
滑走路を進む機体の窓の外には、夜の千歳が見えた。
灯りの列が、遠い記憶のように滲んでいる。
まるで中東を旅してきたような気分だった。
だが、さっき飲んだごぼうスープの味が、
これが羽田からの帰りだと気づかせてくれた。
飛行機を降りると、ガラス越しに搭乗を待つ人々が見えた。
その景色の中に、鹿児島便に乗る二日前の自分がいる気がした。
そして、五年前の自分も。
五年前――
響香は二晩だけ実家から岩水沢の自宅に戻り、
パート先に休暇の延長を願い出た。
まだスマートフォンではなかった。
飛行機の遅れを知らせる、二度目の電話だった。
これから長い看病をしようと思っていたのに――
「もう、父の看病さえできない」と知らされた。
そのときのことを思い出しながら、
意識が遠のいたまま、
人の流れに押されて新千歳空港駅へ向かった。
岩水沢の一つ手前の駅で降りた響香は、
スマホを取り出してJRの時刻表を調べようとしたが、
うまく入力できないまま、
ちょうど来た列車に乗った。
北広嶋、白石――
そこを乗り換えれば、札張を通らずに帰れる。
少しは時間を短縮できる。
けれども、それが何になるのだろう。
時短が、何を変えるというのだろう。
響香は思った。
もう一度、あの中東を舞台にした映画を見たい。
夢でもいい。
父に似ているけれど、父ではない。
あの映画の日本人俳優の顔が、ふと浮かんだ。
――夢は、自分では創れない。
目を閉じると、
映画の最後に映った「Fin」の文字が、
夜の窓の外に浮かぶ光と重なった。
南千歳で降り、スーツケースを引きながら、
響香はまた列車に乗った。
ホームにあった「北広嶋」の案内板を見て、
響香は伸子のことを思い出した。
初めて乗る室蘭本線。
地元を走る列車なのに、
南千歳と岩水沢を結ぶこの路線に乗るのは初めてだった。
今日は、本当に眠い。
そしてまた、夢を見た。
響香の夢の中で、伸子は、
明後日に控えた講演の準備に、
一所懸命、力を注いでいた。
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次話予告:『第98話 ジャンボのふたり』
心のスイッチが、またひとつ灯ります。
最終話のひとつ手前になります。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
―― 朧月 澪




