第96話 中東のかつおぶし と そのつつみ
伸子さんはベンチでうとうとし、まるで眠りの縁にいるようだった。
その横で、響香は夢の話を止めなかった――飛行機で見た、遠い世界の少女の物語を。
その主人公は、中東のひとりの少女――響香が会ったこともない、まだ見ぬ女の子だった。
その少女は、目にしてはいけないものを見てしまった――
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第96話 つつみと中東のかつおぶし
1 少女が見てしまったもの
父が戻り、家には商談の空気が漂った。
しかしまもなく話は暗礁に乗り上げ、客人の日本人男性は別室で待つことになった。
そのとき――
少女は“見てしまった”。
母の指先が、
少女の思いもしないところへと、動いた。
ヒジャブ(中東の伝統的な顔を隠す衣装)端を持ち上げた。
ふだんは誰にも見せない素顔を、今日来たばかりの男にだけ垣間見せたのだ。
それは、明らかに母の意思で行われた動作だった。
そして母は、湯気の立つ緑色の飲み物を男へと差し出していた。
男の顔は見えない。
なぜ母がそんなことをしたのか、少女には理解できなかった。
胸の奥がぎゅっと縮む。
神に見られているのに、悪魔の誘惑に引き寄せられるのではないか――
そんな不安が、少女を静かに締めつけた。
少女は音を立てないように部屋を離れると、
しばらくして母はふだんどおりにヒジャブを整え、客人との距離を戻した。
だが湯気の消え残るカップだけが、
さっきまでの近さをひっそりと証していた。
男は帰りぎわ、
マグルーバ(中東の伝統的なスパイスをつかった米料理)レシピの余白に、しわだらけの新聞から写した日付を記した。
先ほど鰹節をつつんであった新聞の上に記された日付。
「1972年11月7日。
この日づけ、覚えておくといい」
その日は、アメリカ大統領選挙でニクソンが再選を果たした日だったという。
新聞に並ぶ漢字――
「中」「東」「未」「来」、そして、ひらがなの「の」。
ペルシャ湾に沈む夕陽を背に、
男の影は砂漠へ長く伸びていった。
2 時は流れ、少女は世界を知る
男が夕陽の向こうへ去ったあと、
少女の手元には、文字で埋まったレシピと、
かつおの香りが染みついた朝目新聞だけが残った。
四角い岩のような漢字の間を、
細い川のようにひらがなが流れていた。
紙面には、女性の顔写真も載っている。
少女はその新聞を、
引き出しのいちばん奥にそっとしまった。
そして少女は淑女に、大人へと成長した。
やがて「ドラえもん」を知り、
のび太の母を見たとき、ふと気づいた。
母の強さのもどかしさを少しずつ理解しはじめた頃、
少女の胸にひとつの夢が芽生える。
「あの日本の男に、自分のラーメンを食べてもらいたい」
少女は成長し、
のちに異国で日本の味を伝える“伝説の料理人”となった。
砂漠で生まれた一杯のラーメンは、
国境を越え、時代を越え、
今日も美食家の舌を震わせている。
すべては、あの日。
少女が男の 「CAN」 とつぶやいた瞬間から始まっていた。
変化を起こしたのは、
少女の一日一日の積み重ねだった。
3 男の記憶:待つことのできる場所
壮大なエンディングテーマが、
響香の夢の中を満たすころ――
その日本の男は、固い椅子に腰かけながら思索していた。
――なぜ自分は「ここでは待てる」と言えたのか。
日本では、どうにも“待つ”のが苦手だった。
上野動物園のパンダの行列に並んだのは、この年の一番辛い記憶だ。
なのに、
ペルシャ湾の夕陽の前では、なぜかいくらでも待てた。
その理由を、男はまだ言葉にできずにいた。
スパイスが漂う部屋で、ふと三十年前の知覧が脳裏をよぎる。
少女が蛇口をひねり、
水が初めて飛び出した日の、あの誇らしげな表情――。
もしかすると、
あれこそが答えなのかもしれない。
4 水の記憶
知覧の家に水道が通った日の記憶がよみがえる。
タイルのシンクで水が弾け、
陽の光をきらきらと跳ね返すさまを、男は忘れられない。
庭のにわとりにも水をやった。
三羽のにわとりは羽をばたつかせ、
競うように水を飲んだ。
――にわとりにも、水の味がわかるのか。
飛べない鳥たちが、
その日だけは、ほんの一瞬、空へ舞い上がった。
ガタン――。
その瞬間、飛行機が滑走路に着地し、
響香ははっと目を覚ました。
千歳は夜だった。
まるで中東から戻る途中のよう。
だが、さっき飲んだごぼうスープの香りが、
――これは羽田からの帰りだよ。
と静かに告げていた。
* * *
次話(第97話)へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
次話予告:『第97話 水を飲む鳥 ― 会ったことのない若き父』
心のスイッチが、またひとつ灯ります。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
―― 朧月 澪




