第95話 中東の鰹節、と昭和二十年の井戸の別れ
少女の目は、砂漠でやっと見つけた水面のように輝いていた。
その光を抱えたまま、彼女は「Perfect secret cake」のレシピを男へそっと手渡した。
本屋のカフェから見えていた“べらぼうベンチ”に腰を下ろした響香は、
隣の伸子へ、まるで目の前の情景をそっと写し渡すように語っていった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第95話 中東の鰹節、と昭和二十年の井戸の別れ
少女は、その男を“CANの男”と呼んだ。
彼が先ほどつぶやいた CAN のひとことが、妙に耳に残っていた。
男は、乾いた風のように静かに言った。
「I can wait here. But I cannot wait in Japan.」
少女の母は、黒いヒジャブの影で、胸へそっと落ちてきたその言葉を受け止めるように、ひとつうなずいた。
そのとき、台所のオーブンから湯気をまとった料理が運ばれてきた。
マグルーバ――そう呼ばれる家庭料理だという。
「あなたは、もう少し、待つことが必要だよ」
婦人は、湯気の向こうから男へやさしく告げた。
少女は母に促されるようにして男を家の奥へと案内した。
その小さな胸には、どこか誇らしげな輝きが灯っていた。
まるで、果てしない砂漠でただひとつのオアシスを見つけたかのように――。
そして、ふたりの足がたどり着いた先にあったのは、ひとつの蛇口だった。
その蛇口は、当時――1970年代に導入され始めた
日本の淡水化技術によって、ようやく水を得たものだった。
中東のいくつかの国では、この頃ようやく「水道」という仕組みが根づきつつあった。
海水を淡水へと変える逆浸透膜。
その技術は、乾いた大地に初めて「確かな水」をもたらす、新しい希望そのものだった。
男は、鉄製の蛇口にそっと手をかけ、静かにひねった。
――水が出た。
ぽと、ぽと、と落ちる音が一度途切れ、
次の瞬間、ざーっと勢いのある水の流れへ変わった。
少女の瞳はその変化を見つめ、
男がどんな声を上げるのか、無言で待っていた。
その水音と少女の眼差しが、男の胸の奥で眠っていた記憶を呼び起こした。
――少女と同じ年頃の自分。
自分よりずっと大きな若者たちが、飛び立っていく背中を、ただ見送るしかなかったあの日。
汲み上げてくれる人のいなくなった、冷たい井戸の水だけが、確かな現実だった。
十八になった朝、ようやく知覧の町に水道が通った。
終戦から八年の歳月が過ぎていた。
細く頼りない一筋の水が、未来の光のように輝いた。
◆
卓へ戻ると、香辛料の香りがふたりを包み込んだ。
釜をひっくり返すと、黄金色に輝く“秘密のケーキ”――マグルーバが姿をあらわした。
男は右手で熱い飯をすくい、湯気の向こうへ叫んだ。
「Perfect secret cake!」
少女と母は、こらえきれず笑った。
祝いの印に、男は鞄から一本の日本製ボールペンを取り出した。
「プレゼントだよ。よく書けるんだ」
男は少し照れたように笑い、鞄の底を探った。
「あ、それから……これは特別なお土産。」
新聞紙に包まれていたのは、細長い木のようなものだった。
「かつおぶし、というんだ。」
広い太平洋を旅してきたカツオをゆで、燻し、乾かしてつくる――
そんな日本の保存食だと男は説明し、また少し照れたように笑った。
少女は日本語はほとんど分からなかったが、
母の古いレシピ帳をそっと男へ差し出した。
そして、先ほど釜から現れた料理――「マグルーバ」のページを
男の前で抜き取った。
「サンキュー。」
男はページの空白に「㊙」とボールペンで書き込み、得意げに笑った。
「このボールペン、すごいだろ。」
少女は目を輝かせた。
「ジャパニーズ、プリーズ。」
「そうだね……ひらがなは……」
男は鰹節を包んでいた新聞紙をひろげ、
そこに印刷された「き」の字に丸をつけた。
「これが“き”。
これが“よ”。」
少女は指でなぞりながら覚えレシピの余白に書いた。
「きょうかは、おじさんの娘の名前だよ。
アルファベットだと……」
男は“K”の文字に丸をつけた。
少女は空白に文字を書き始めた。
「き」「か」「よ」「K」「Y」「O」「A」
ぎこちなく、しかし息をするように。
「よ」の字は逆さまだった。
そのとき、家の戸が開いた。
砂を払うような重い靴音とともに、少女の父が帰ってきた。
遅れてきたことなど、気にしていない様子だった。
砂漠の風がひとしきり吹き抜け、商談の時間が始まる。
◆
だがあの日――
少女は、見てしまった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
資料メモ
「淡水化装置」海の水を逆浸透膜などのフィルターでろ過して飲める水にする装置です。日本製の淡水化装置は、1970年代に中東諸国など海外で多く使われていました。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
つづきは――
次話予告:『第92話 中東のかつおぶしと、 包まれた1972年11月7日 (仮)』
心のスイッチが、またひとつ灯ります。
◇◇◇
お会いできたみなさまへ、心より感謝をこめて。
―― 朧月 澪




