第94話 中東の鰹節と“secret CAKE”
「シークレット・ケーキ? 中東の鰹節じゃなくて?」
伸子さんがべらぼうベンチで聞き返す。
べらぼうベンチ――
カフェからでて、二人がそう呼ぶ小さなベンチに腰をおろした。
つい先ほどまで降り積もっていた雪は、まるで二人にその場所をゆずるかのように気配だけを残して消えていた。不思議と寒さは感じなかった。
――そして、響香の飛行機で見た夢の話ははじまった。
台所でせかいをかえる Revolution Starts in DAIDOKORO
第94話 中東の鰹節と“secret CAKE”
響香の父と、響香の娘には、ひとつの奇妙な共通点がある。
――飛行機が地を離れるより先に、もう深い眠りへ落ちてしまうのだ。
滑走路の上を震えながら走るあの微細な振動。
金属と風が交わるあの瞬きのようなリズム――
それらがふたりにとっては、遠い昔に約束された眠りの呪文のように作用するらしい。
覚醒の遺伝子。
そんな名をつけたくなる。
響香には、その気配はまったく受け継がれなかった。
だが、鹿児島からの帰り道――
あの一度きりだけは、例外だった。
羽田を離れた瞬間、機内の灯りはゆるやかに遠ざかり、
身体を縛っていた重力がふっと緩んだ。
そのわずかなゆるみのなかで、
世界は音を失ったまま静かに向きを変え、
まぶたの内側に、父の記憶が描いた異国の景色がゆっくりと立ちあがってきた。
それは、古い映画のワンシーンのようだった。
世界はつねに、見えない風向きを変えながら進んでいく。
五十年前のあの日もまた、風は静かに、その向きを変えようとしていた。
一人の日本人が、砂漠を渡って商談に向かった。
アラビア・中東のどこかの国。国名はわからない。
異国の空気は乾いていた。
約束をした家の主は留守で、
代わりに黒いヒジャブをまとった婦人と、
その陰に隠れるように立つ小さな女の子が戸口に現れた。
背が高く、がっしりした体つきで、眉の太い男だった。
顔つきは厳しいのに、目には言いようのない温さが宿っている。
少女には、その眼差しが――どこか、自分の父のものと似ているように思えた。
男はつたない英語で訪問の理由をつげた。
ふたりのぎこちない英語は、乾いた風にさらわれながら静かに溶けていった。
婦人が最後に「sorry」とつぶやくと、日本人の男は軽く息を吸い、こう言った。
「I can wait here.
But I cannot wait in Japan.」
――ここでは待てる。でも、日本では待てないんだ。
少女はその言葉の余韻を、風のように受けとめた。
婦人は一拍だけ沈黙し、それから柔らかく笑んだ。
“Today is this child's birthday.
Would you care to join us for a bite?”
(今日はこの子の誕生日なの。よかったら、少し召し上がっていかれます?)
部屋には、温められたスパイスの香りと、乾いた大地の気配が混じりあい、
どこか懐かしささえ感じさせた。
少女を見つめるその目には、
はるか遠い国に残してきた娘の姿がほんの少し重なっていた。
男は、少女に向かってぎこちなく、ふたたび話しかけた。
「何歳? 名前は?
……そうか、日本語じゃ、わからないか。
How old are you now?」
少女は、ためらいながらも十本の指を広げて見せた。
「うちの響香とおんなじだな。」
だがその不器用な響きは、むしろ温かかった。
そのとき――
部屋の奥で、金属の触れ合うような微かな音がした。
黒いヒジャブをまとった母が、オーブンから湯気をまとった大きな釜を抱えて現れた。
「待っていてくれて、ありがとう。」
婦人は部屋に入ってきながらいった。
「I can wait here.
But I cannot wait in Japan.」
と、もう一度つぶやいた。
少女の胸のどこかで、英語の“CAN”という音だけが、小さな光のように残った。
男は、言葉を切り替えるように日本語で続けた。
「いいですね。不思議だ……日本じゃ待てないのに、ここでは待てる。
それに……なんだか、いい香りがします。ごちそうですね。
この釜は、なんですか?」
指さして尋ねたその問いに、
婦人は一拍置いてから、静かに微笑んだ。
「secret CAKE」
――秘密のケーキですよ。
まるで、砂漠の奥深くに隠された宝物をそっと教えるようだった。
カルダモンを中心にしたスパイスの香りが、
ふわりと空気の層を変えるように広がった。
* * *
次話へつづく
* * *
◇◆◇ あとがき ◇◆◇
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
どこかで、それぞれの「台所」から、小さなせかいを動かしています。
日々の中にある記憶や香り、音のひとしずくを、どこかで感じていただけたなら幸いです。
「シークレット・ケーキ」の香りがどうか届きますように。
感想をいただけると嬉しいです。
◇◇◇
◇◆◇
次回予告:『第95話 中東の鰹節、と昭和20年の井戸の別れ』(仮)
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―― 朧月おぼろづき 澪みお




