第一章 ポンコツ女神の不良債権と、みかん箱の歌姫編
金のカード?銀のカード?いや、てめぇの不良債権を押し付けんな!
「……ここはどこだ? まさか、流行りの異世界転生ってやつか?」
鬱蒼と生い茂る木々の隙間から、見知らぬ青空と、地球上のものとは思えない巨大な鳥の影が横切っていくのを見上げながら、俺は深い溜息を吐き出した。
俺の名前は、力武義正、二十五歳。
最難関と呼ばれる国立大学を卒業後、日本の五大商社に入社し、鉄鋼部門のエースとして日夜グローバルなトラブル処理に奔走していた。昨夜も、海外プラントで発生した大規模な納品トラブルを数日徹夜で片付け、ようやく泥のようにベッドへ倒れ込んだはずだった。
だが、目覚めた俺の周囲に広がっていたのは、見慣れた都内の高級マンションの天井ではなく、湿気と土の匂いが充満する広大な原生林だった。
状況を整理するため、皺だらけになったオーダーメイドのスーツのポケットを探る。名刺入れ、ライター、煙草。そしてスマートフォンを取り出してみるが、当然のように画面は『圏外』を示していた。
「やれやれ、サバイバルの基本だな。まずは水を探さないとな……ん?」
現状の絶望感に浸る暇などない。商社マンたるもの、いかなるイレギュラーな事態に直面しようとも、即座に現状を分析し、最適解を導き出す必要がある。
木々を掻き分け、微かに聞こえるせせらぎの音を頼りに歩みを進めると、不意に視界が開けた。透き通った水を湛えた美しい池だ。
しかし、その美しい景観をぶち壊すような、奇妙な水しぶきと情けない悲鳴が響き渡っていた。
「アバババ! アババババ! た、助けてぇぇー!」
池の真ん中で、信じられないほど派手なピンク色のジャージを着た少女が、盛大に手足をバタつかせながら溺れていた。胸元には、なぜか見慣れた『初心者マーク』の刺繍がデカデカと縫い付けられており、頭の上にはチカチカと接触不良のように点滅する謎の光輪が浮かんでいる。
「おい、何やってんだ! 捕まれ!」
俺は迷わず池のほとりに駆け寄り、スーツが濡れるのも構わずに身を乗り出して、力強く手を伸ばした。
「ひぃん! たすかったぁぁ!」
少女が縋り付くように俺の手をガシリと掴む。俺は柳生無双流の体術で培った足腰のバネを使い、彼女を一気に岸へと引き上げた。
――が、その急激な反動で、俺の胸ポケットから重厚な革財布が滑り落ち、無情にもドボンと音を立てて池の底深くへと沈んでいった。
「あ……」
俺の全財産と身分証が入った財布が水面に波紋を残して消えていくのを、俺は無表情で見つめた。
「えへへ……ぶぅえっくしょん! あ、ありがとうございますぅ!」
ずぶ濡れになったピンクジャージの少女は、犬のように身震いして水を弾き飛ばすと、ペコリと頭を下げた。そして、どこからともなく取り出したスケッチブック(カンペ)をチラリと盗み見ると、わざとらしい咳払いを一つして、急に神秘的な声色を作り始めた。
「えっと、えっと……私は見習い女神のリリス! 年齢はピチピチの本物の十七歳です! 貴方が今、池に落としたクレジットカードは、この『金色のカード』ですか? それとも『銀色のカード』ですか?」
女神を名乗る少女――リリスは、両手にそれぞれ金と銀に輝くカードを掲げ、自信満々に胸を張った。
「いや、お前のせいで落としたんだろ。それに俺のは普通のカードだ。カードだけじゃねぇ、財布ごとだ。全部拾って返せ」
俺が極めて真っ当なクレームを入れると、リリスは「ふぇ!?」と間抜けな声を上げ、慌ててスケッチブックのページをパラパラとめくり始めた。手がプルプルと小刻みに震えている。
「えっと、えっと……! しょ、正直者の貴方には、この『プラチナカード(エンジェルすまーとふぉん連結)』を渡しましょう! はい、どうぞ!」
強引に手渡されたのは、鈍い光を放つプラチナカードと、分厚いハードケースに守られた謎の端末――エンジェルすまーとふぉんだった。
商社マンとして、契約書と決済画面のリーガルチェックには人一倍うるさい俺だ。すぐさま端末の画面を起動し、表示された契約内容に目を通した瞬間、俺の思考が一瞬完全に停止した。
『ご利用可能残高:1,000円(限度額100万円/現在利用額99万9,000円)』
『次回引き落とし日:月末(36回リボ払い・年率15%・月々68,000円)』
『※滞納時ペナルティ:天界の黒服レスラーにより身ぐるみ剥奪のうえ、シーラン国直行【マグローザ漁船】にて強制労働』
「……残り1,000円だと? 滞納でマグローザ漁船!?」
怒りを通り越して感心すら覚える、あまりにも見事な神話級の不良債権だった。俺はゆっくりと顔を上げ、リリスを睨みつけた。
「で、では! 私はこれで! サラダバー!!」
不穏な空気を察知したリリスが、シュワッチの体勢をとって空へ逃亡しようと跳躍した。
「待て! ゴラァっ! てめぇの不良債権を押し付けんなぁ!」
俺は柳生無双流の歩法で瞬時に距離を詰めると、逃げる女神の腰元へ向けて、完璧なフォームの低空タックルをぶちかました。
「ふぎゃああっ!」という悲鳴と共に、俺とリリスは土の上を派手に転げ回った。俺はリリスの関節を的確に極め、地面に押さえつける。
「ふぇ!? ふぇぇ、だってだって! 先輩女神のルチアナ先輩から、このカードを押し付けられてぇ! 私だけ借金背負うのなんて無理でぇ! ルチアナ先輩がこうしろって、カンペに書かれてたんですぅ!」
鼻水を垂らしながら大号泣し、必死に命乞いをする十七歳の見習い女神。
「だからって、出会って三分のお人好しに借金を押し付けんな!」
俺が関節を僅かに締め上げると、リリスはバタバタと暴れながら叫んだ。
「じゃあ一緒に返してくれる? 奢ってくれる? 養ってくれる? 私、絶対に役に立つから! ルチアナ先輩から盗んできたユニークスキルの『コンビニ』をあげるから!」
ユニークスキル、『コンビニ』。
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で冷徹な商社マンの算盤が高速で弾かれた。
この世界がどういう経済圏かはまだ分からない。だが、彼女が言う『コンビニ』というスキルが、地球の現代日本や海外の最新商品を原価ゼロで取り寄せる力だとしたらどうだ。
インフラさえも自在に展開できる絶対的な店舗要塞。現地で手に入る物資との圧倒的な品質差を利用した独占販売権。さらに、このアホな現地女神をタダ同然で顎で使い倒せる権利が手に入る。
たかだか100万円ぽっちの負債など、数日で億の利益へと変えられる超優良なM&A案件に他ならない。
「……ポンコツでも女神は女神だ。何かの役には立つだろうし、何より見知らぬ土地での一人旅よりはマシだ。それに、鼻水垂らして泣く奴を見過ごせる程、俺は鬼じゃねぇ」
俺がわざと渋い声を作って関節技を解くと、リリスはぱぁっと顔を輝かせた。
「わあああい! 義正さん、大好きぃ♡」
俺は濡れたスーツのポケットから、奇跡的に無事だった『セブンスター』を一本取り出し、ブックマッチでシュボッと火を点けた。
深く紫煙を吸い込み、異世界の澄んだ空気の中へゆっくりと吐き出す。
借金からのスタート。最高に理不尽で、最高にスリリングな異世界でのビジネスライフの幕開けだ。
「……やれやれだ」
ブックマッチの焦げた匂いと煙草の香りが入り混じる中、俺は不敵に口角を吊り上げた。
読んでいただきありがとうございます。
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