『愛を知らぬ女だ』と婚約破棄なさった王太子殿下、あなたの恋文は十年、ぜんぶわたくしの代筆です
「お前は愛を知らぬ女だ。心というものがない」
春の夜会だった。楽団が曲を終えたその切れ目を選んで、王太子クレメンス殿下はよく通る声でそう仰った。
「イリスベル・フォルシア。お前との婚約を破棄する」
広間じゅうの扇がいっせいにこちらを向いた。殿下の隣には伯爵令嬢のセレット・メルローズ様が立っていて、扇の陰の目という目が、わたくしと彼女を見比べている。セレット様は今年社交界に出たばかりの、素直を絵に描いたような姫君である。この場をご存じなかったのだろう、当のセレット様がいちばん青ざめていた。
(愛を知らぬ、ですか)
わたくしは膝を折る礼の角度を間違えなかった。十年の礼儀作法は、こういう夜のためにある。
殿下は続けられた。この婚約は父王同士の取り決めであったこと。十年のあいだ、お前から心というものを一度も感じなかったこと。それからセレット様の肩へ手を置いて、仕上げのようにこう仰った。
「私は心のある女を選ぶ。──お前の字は便利だが、心は要らぬ」
字、と口になさった。広間の方々には伝わらない一言である。けれどわたくしには伝わる。
先に打ち明けてしまうが、殿下が十年のあいだ想い人の令嬢たちへ贈ってこられた恋文は、一字残らずわたくしが書いた。
十のとし、婚約が調った年に、王妃陛下から命じられたのだ。殿下は剣は立つが、文はどうにもならない。公の文も私の文も、名代としてお前がしたためよ──。私の文、というものの中に、恋文もはじめから入っていた。
最初のお相手は伯爵家の姫君で、殿下は三月で恋を実らせた。二人目は侯爵家の、三人目は辺境伯家の姫君だった。三人とも、恋文の一節を胸に抱いて恋に落ちたと聞いている。お相手が替わるたび、殿下からは短い言伝がひとつ届いた。──次は、あの姫に。十年で、それだけである。社交界は殿下を「筆の君」とお呼びする。筆はわたくしなのだけれど。
実の書き手を知る者は、殿下ご自身と王妃陛下のほかにない。父にすら明かしていない。婚約者が他の令嬢を口説く文を、その婚約者本人が練るのはどういう心地か──それを尋ねてくれた人も、十年どこにもいなかった。
セレット様は、四人目である。
「イリスベル。何か言うことはないのか」
殿下は勝った顔でそう仰った。泣くか、縋るか、恥をさらして喚くか。そのどれかをお待ちなのだと思う。
わたくしは顔を上げ、精いっぱい丁寧に申し上げた。
「承知いたしました。では、本日かぎりで筆を置かせていただきます」
「……筆?」
「末永きご健勝を、お祈り申し上げます」
もう一度膝を折って、わたくしは広間を辞した。背中でざわめきが膨らんだけれど、振り返らなかった。扉の脇で立哨の近衛が一人だけ、深く目礼を寄越した。
馬車の中で、十のとしの春を思い出していた。
王妃陛下の私室に呼ばれたわたくしは、生まれて初めて殿下のお名前で文をしたためた。手が小さくて、陛下の文鎮を両手で動かした。机の隅には殿下の書き散らした反故が山になっていた。いま思えば、あれが答えである。王家の文は紙に残る。放っておけば殿下の恋も、恥のかたちで紙に残る。ならば漏れる先のない婚約者の筆で──陛下はそう決められたのだろう。よくできました、と陛下は仰って、それから少しだけ黙ってこう続けられた。この務めは、誰にも言ってはなりません──。
恋文の書き方など、十の子どもが知るはずもない。だからわたくしは詩集を読んだ。恋を知らないまま、恋の言葉ばかり覚えた。月のない夜のくだりも、風のかたちが見える庭も、ぜんぶあの部屋の灯りの下で生まれたのだ。
やがて文には返事が来るようになった。殿下のお名前宛ての、恋のお返事である。それを読んで、次の一通を練るのもわたくしの務めだった。姫君たちの恋心を、わたくしはたぶんこの国の誰よりもたくさん読んでいる。
屋敷に着いて、玄関でも階段でも、わたくしは背筋を伸ばしていた。自室の扉を閉めて、鍵を回して、それからやっと文机の前に座り込んだ。
机の上に、十年分の下書きを収めた文箱がある。蓋に手を置いたら、指が少しだけ震えた。
(泣くほどのことでは、ないでしょう)
愛を知らぬ女の目から、涙がひとつぶだけ落ちた。文箱にしみを作る前に指で拭って、わたくしは蓋を開けないまま、それを棚のいちばん奥へ収めた。
筆は置いた。あとはただ、それだけのことである。
◇
破棄はほどなく両家の署名で調い、書類の上でも終わった。破棄された令嬢は社交から消えるものと相場が決まっているらしい。わたくしは消えなかった。フォルシア公爵家の娘が夜会を欠く理由は、どこにもないからである。
ふた月のあいだに、わたくしは殿下と同じ場に六度居合わせた。
一度目は音楽会だった。休憩の庭で、殿下はセレット様に春の庭園を讃えてご覧に入れていた。
「花が、たくさん咲いていて、見事だ」
セレット様は微笑んで、それからほんの少しだけ首をかしげた。お手紙では庭のことを、風のかたちが見える場所、と書いた人である。
……書いたのは、わたくしだけれど。
セレット様の視線が、庭と殿下のあいだをそっと一往復した。花がたくさん咲いていて、見事。ええ、何も間違ってはいない。何ひとつ間違っていないことが、あのお手紙といちばん違うところだった。
三度目は王宮の晩餐だった。殿下は隣国の姫君のお名前を二度間違え、取りなす言葉の代わりに笑い声を大きくなさった。卓の向こうで、セレット様の扇が口元のまま止まっていた。
五度目は真夏の園遊会である。殿下は新しいドレスのセレット様へ、胸を張ってこう仰った。
「よく似合う。──春の夜風のような人だ、あなたは」
春の夜風のような人。それは五年前、二人目の姫君に宛てた一通の書き出しである。よく覚えている。あの方は春の生まれで、夜風の立つ庭で殿下と出会ったから、そう書いたのだ。真夏の午後に、別の姫君へ向ける言葉ではない。
セレット様は扇の内で、曖昧に微笑んでいらした。持ち合わせの言葉が尽きると、殿下は昔の恋文から借りてこられる。借り物の元がどなたの言葉かも、ご存じないままに。
六度目の茶会で、セレット様はわたくしの隣に座られた。悪意のない方である。四人目、と胸の内で数えているわたくしに、この方は屈託なく話しかけてこられる。
「イリスベル様は、殿下のお手紙を読まれたことがおありですか」
「さて。婚約者に恋文をくださる方ではございませんでしたから」
「まあ……。では、わたくしだけなのですね」
セレット様は頬を染めて、胸元から一通を取り出された。よほど大切にしているのだろう、紙の角が柔らかく丸くなっている。
「この頃いただくお手紙は、その、以前と少し違っておりますの。以前のお手紙は、読むたびに息が止まりそうでした。いまのは……お元気そうです」
言い方をさがして、お元気そう、に落ち着けたらしい。わたくしは紅茶を一口いただいた。
「殿方にも、お忙しい時期がございますわ」
「そうですわね。そうですとも」
セレット様はご自分に頷いて、それでも一度だけ、ぽつりと仰った。
「手紙のあの方は、どこにいらっしゃるのかしら」
わたくしは聞こえなかったふりをして、卓の菓子を一つセレット様の皿に取り分けた。
帰りの馬車で考えた。あの方は遠からず、ご自分で答えに辿り着かれるだろう。恋文を千通読んできた者として、請け合ってもいい。あの手紙の角を見れば分かる。角が丸くなるまで読み返す人は、言葉の違いを見逃さない。
◇
夏の終わりの夜会で、それは起きた。
人の輪の中心で、セレット様が殿下に強請っていらした。恋の話の好きな奥方たちが、面白がって囃し立てる。
「殿下、あの一節を、もう一度聞かせてくださいませ。ほら、わたくしがいちばん好きな──月のない夜の、あのくだりですわ」
「……暗誦しろと言うのか。ここでか」
「ご自分でお書きになった言葉ですもの。お照れになることがございまして?」
殿下は笑って受け流そうとなさった。
「夜会で詩の暗誦など、無粋だろう」
「あら、殿下の御文より美しい詩を、わたくしどもは存じませんのに」
奥方たちは引かなかった。筆の君の名文をご本人の声で聞ける機会を、社交界が逃すはずもない。扇の陰でくすくすと笑いさざめきながら、輪はじりじりと狭くなる。悪意はない。悪意はないのだが、逃げ道もない。
「では──月のない夜は」
殿下はそこで止まった。
「月のない夜は……星が、よく見える」
輪の中が妙な具合に静かになった。セレット様が小さく首を振られる。
「殿下。月のない夜に、わたくしはあなたの灯を借りて歩く、ですわ。それに、あれに続く一節は古い詩からの引用でございましょう? わたくし、ずっとあの詩人の名をお尋ねしたくて」
「──詩人?」
「お手紙で引いていらした……」
「知らん。詩など、読まん」
仰ってしまってから、殿下ご自身も気づかれたのだと思う。広間の空気が変わる音を、わたくしは壁際で聞いていた。
ご自分の恋文を、一行も諳んじられない筆の君。引用した詩人を、読んだことすらない筆の君。
種はそれだけで十分だった。
◇
三日ののち、わたくしは王妃陛下の秋の茶会に招かれた。秋晴れの、風のない日だった。庭に卓を並べた、内輪といっても二十人はいる集まりである。セレット様も、殿下もいらした。
あとで思えば、あの席は王妃陛下が整えられたのだ。夏の夜会の一件は当然お耳に入っていたのだろう。十のとしのわたくしに務めを命じた方として、幕の引きどころだけはご自分で選ぶおつもりだったのだと思う。
菓子が一巡したころ、セレット様が席を立たれた。殿下の正面に進み出て、まっすぐに申し上げる。
「殿下。あの夜から考えておりました。お手紙の言葉とあなた様の言葉は、別の方のものです。わたくしは間違って、お手紙の方に恋をいたしました。──どなたがお書きになったのです」
「セレット、それは」
「王妃陛下」
セレット様は陛下へ向き直られた。
「陛下は、ご存じでいらっしゃいますね」
しばらくの沈黙ののち、王妃陛下は茶器を置かれた。
「──イリスベルが十のとしから、わたくしの命で、殿下の文の名代を務めてまいりました。公の文も。……そうでない文も、すべてです」
視線という視線が、いっせいにわたくしへ流れた。わたくしは目を伏せなかった。伏せれば、恥じているように見える。恥じる謂れはわたくしの側にはないのだ。
セレット様は殿下へ向き直られた。声は震えていたけれど、まっすぐだった。
「あなたはわたくしを、婚約者の言葉で口説いたのですか」
「……」
「お三方の姫君たちも、お手紙に恋をなさったのでしょう。あなたはご自分の婚約者に恋文を書かせて、書いたその方を、愛を知らぬ女と広間で仰ったのですか」
殿下は立ち上がられた。
「書かせたのは私だ。あれは私の言葉だ。始めさせたのは母上でも、書かせて送らせたのは私だ。私の名で出た文は私のものだろう」
「まあ」
セレット様はそれ以上、何も仰らなかった。ただ胸元から例の一通を出して、卓の上へそっと置かれた。恋文の返しかたとして、これほど完全なものをわたくしは知らない。
それから伯爵令嬢はわたくしの前へ来て膝を折られた。破棄されたほうの令嬢へ、伯爵家の姫君が公の場で膝を折る。その意味の重さを、庭にいた二十人の誰もが正しく受け取った。
「イリスベル様。あなたの言葉に恋をしたことだけは、間違いだったと思いたくありません」
「……ええ。あの文たちに、嘘は一つも書いておりませんもの」
恋をしていない者の書く恋文に、噓がないというのもおかしな話である。けれどほんとうのことだった。どの一通も、こんなふうに愛されたい、と思うかたちをそのまま書いた。
一礼して去っていく伯爵令嬢を、誰も引き止めなかった。
殿下は残った客を見回された。目の合った奥方たちが、順々に扇を開いて視線を外していく。殿下は最後にわたくしを見つけて仰った。
「イリスベル。……なぜ言わなかった。なぜ十年、黙っていた」
(それが、名代というものでございます)
口には出さなかった。
わたくしは黙って、冷めた紅茶を飲み干した。
散会のまぎわ、王妃陛下がわたくしの前へ立たれた。そうして皆の見ている前で、ゆっくりと頭を下げられたのである。
「十のとしの子どもに、重い務めを負わせました。……見事な言葉を、長くありがとう」
わたくしが十年ほしかったのは、たぶんこの一言だけだった。
冬の夜会にも、殿下はいらした。あれほど人垣の絶えなかった方の周りに、いまは誰もいない。ダンスを申し込まれた令嬢が、母君の扇にすっと隠されるのを見た。筆の君の呼び名はいまも社交界に残っている。もう誰も尊敬を込めては使わないけれど。
広間の向こうから、殿下がわたくしに気づいて口を開きかけられた。わたくしは正しい角度で膝を折り、正しい歩幅で、その場を離れた。争わない。責めない。ただ、もうお側には立たない。
◇
冬のはじめ、王宮から公爵家へ使者が参った。応対したのはわたくしである。
用向きは遠回しで、長かった。要は、こうである。北の同盟国へ年明けに王家の親書を送らねばならない。あの筆で、もう一度だけ書いてほしい。
「殿下もあれ以来、めっきりお口数が減られて……イリスベル様の筆が戻れば、王家の体面も立ちましょう」
「お断り申し上げます」
使者は驚いた顔をした。それから声を低くして、御礼は望みのままに、と言い足した。宝飾でも、領地の加増でも、あるいは新しい縁組の世話でも──。
「品物のお話ではございませんの」
わたくしは首を振った。理由を尋ねられたので、一つだけ申し上げた。
「わたくしの言葉は、もう殿下のものではございません」
あの務めは春の夜会で、殿下ご自身が終わらせたものである。
使者が帰ったあと、父がひとこと、よく断った、と言った。父がわたくしの務めを知ったのは、あの茶会の日である。以来、王家への年賀の文が目に見えて簡素になった。書いているのは父自身である。
◇
その冬、公爵家の門を、見慣れない客が叩いた。
近衛の武人、ガーヴィン・ウィンドレー卿。王妃陛下付きの警護として、夜会や茶会の壁際に立哨する姿しか見たことのない方である。応接の間に通されたその人は、剣だこのある手を膝に置いて、飾りのない言葉で切り出した。
「持ち場から、十年、あなたを見ておりました」
「……立哨のお務めの間に、ですか」
「警備とは、広間でいちばん静かな人間から目を離さない仕事です。あなたはいつも壁際で、扇の内で口を動かしておられた。文を、練っておられたのでしょう」
気づかれていたとは思わなかった。黙っているわたくしに、卿は続けられた。あなたは曲が変わっても足の向きを変えない。灯りの油が切れかけると、誰より先に気づいて従僕を目で呼ぶ。茶会ではご自分の菓子を残して、話し相手の皿の空き具合ばかり見ている──。
「よく、ご覧になっていること」
「見ることしか能のない持ち場でしたので」
大まじめに仰るので、わたくしは少し笑ってしまった。卿は居住まいを正した。
「わたしは文が書けません。花の名も、詩人の名も知りません。ですから今日は、口説きの言葉を持って参りませんでした」
「まあ。では、何をお持ちになったの」
「暇を持って参りました。長い冬の、たっぷりの暇です。──誰かのために書いた言葉ではなく、あなたの話が聞きたい」
あなたの話。
言われて、わたくしは困ってしまった。姫君たちの好きなもの、殿下の好きなものなら、いくらでも諳んじられる。二人目の姫君は鈴蘭と杏の菓子、三人目は遠乗りと古い戯曲。それなのに、自分の話となると、何ひとつ出てこないのである。
「……わたくし、自分の好きなものを、よく知りませんの」
「では、これから探せばよい。冬は長い」
茶が運ばれてきた。卿はわたくしのカップに、砂糖壺を回さなかった。
「砂糖を、お入れにならないでしょう。茶会でいつも、そうしておられた」
「……ほんとうに、よくご覧になっていること」
雪の気配のする午後だった。わたくしは生まれて初めて誰の名代でもない言葉で自分の話をした。好きなものは分からないから、代わりに、嫌いなものから話した。朝の冷えた廊下。手袋の中のインクの染み。書き上げた文を、読まずに封をなさる方の横顔。つっかえながら話すわたくしは、さぞ筆の君らしくなかったろうと思う。卿は一度も急かさなかった。
暖炉の火が落ちるまで話して、帰り際、卿は玄関で一度だけ振り返った。
「また参ります。続きは、まだ十年ぶんあるのでしょう」
「あら。十年で足りるとお思い?」
わたくしがそう返すと、この武人は耳まで赤くなって、雪の中を大股で帰っていった。口説きの言葉を持たない方が、いちばん口説くのがお上手なのだから、世の中は分からない。
◇
年が明けた。
殿下は北の親書をご自分で書かれ、送った先の宮廷で長く笑い話になったそうである。
わたくしはといえば、今朝も誰の言葉も書かなかった。
朝はゆっくり起きて、窓の霜が溶けるのを眺めながら、熱い茶を一杯。砂糖は入れない。それから庭を一回りする。好きなものを探す散歩である。いまのところ、霜の朝と、焼きたてのパンの匂いが候補に挙がっている。十年かけて他人の好みを覚えた頭に、自分の好みをひとつずつ書き込んでいくのは、思いのほか楽しい。
書きたくなったら書く。書きたい相手がいまはひとりだけいる。あの方の文は返事が遅いし、文字は槍のように四角いし、花の名はあいかわらず一つも出てこない。けれどあの四角い文字は、間違いなくあの方おひとりの言葉である。春になったら、庭の花の名を教えてほしいと強請られているので、いまから少しずつ調べている。教わりたいのはわたくしのほうなのに、おかしな方だ。
文机の上に、新しい紙を一枚置いた。誰にも命じられていない、わたくしだけの一通目を、これから書く。
返事がまた遅くても、怒らないでさしあげよう。
最初の一行はもう決めてある。
──あなたの言葉が、聞きたい。
(了)




