第82話 魔女ルゼルアと魔流卿ディネア
(あの表情は何? よもやあれで笑っているというでありんすか……)
無断で屋敷に踏み入った不届き者。その女が唇の端をひくひくと引き攣らせながら、無理くり笑顔を作ろうとしている。
ルゼルアの眉間は、微妙な空気で皺を増やした。
「無理に笑わずともよいでありんす。そもそも笑うなど論外──其方、無礼にもほどがあるでありんす。さあ速やかに妾の問いに答えておくんなまし」
「そう、ですか……。この日のために結構練習したのですけれど仕方がありません。慣れないことはしないに限る、と私は思うのです」
狂気じみた笑顔から一転、スンッと無表情に戻った女は、どこか残念そうに映った。何とも言えないこの空気感。両者ともに黙り込んだかと思えば、「何なのだ其方は」「では」と、同時に声を響かせた。
「突然何なのと言われましても、私は私である、と思うのです」
「まったくのやれやれでありんす。これほどまでに話が噛み合わぬというのも摩訶不思議。妾は未だかつて経験したことがござりんせん」
互いに言葉を交わし、あたかも同期しているかのように今度は一緒に溜息を零す。この様子に、執事ルモンドも呆れた様子で顔を振った。
と、そのとき、
「私の名を、貴方は知りたいとおっしゃっておりました。ならば名乗りましょう。私の名はディネア。ディネア・アクアムと申します。以後お見知りおきを、と私は思うのです」
目の前の女が軽く会釈をしつつ、自らの名を口にした。対するルゼルアは、名を訊いた瞬間、背筋が凍りつくほどの圧倒的魔力を開放し相手を威圧した。
「ほう、其方があの魔流卿ディネア──その名を知らぬ領主などおらぬ。よもや戦事でも、妾の領地にまで持ちこむ魂胆にありんすか?」
「おお怖い怖い……戦事などとんでもありません。私はただ、道すがらこの地に寄ったまでのこと。必ず明日までには出ていきますので、このようなか弱き女など放っておいて欲しい、と私は思うのです」
「ふむ……。一つ、よいでありんすか?」
「はい、何なりと、と私は思うのです」
「そう、それでありんす。『と私は思うのです』を繰り返すのを止めるでありんす。煩わしいにもほどがありんすえ」
「残念ですが、これは長年積み重ねた、私の癖にございますから、と私は思うのです」
ようやく話が噛み合ったかと思えば、すぐさま否定したくなるこの不快感──ルゼルアの胸奥は苛々で満ちていた。
「其方は妾に筋を通しに参ったのか、それともこうして意味の解らぬ問答ばかりでからかいにでもきたというのか、いったいどちらにありんす……」
ルモンドから「どうかお気をお静めに」と心を諭され、彼女は怒りを拳の中で握り潰した。
「──ルゼルア様、あの者が真に魔流卿というのならば、ここでの争いは我が領の利にはなりませぬ。ここは一つ、滞在の条件を提示してはいかがでしょうか?」
彼はルゼルアの耳元でこう囁いた。魔流卿ディネアといえば、近代魔法研究の第一人者としても知られている。とはいえ研究者の性か、引き籠もって表に出てくることもあまりなく、その姿を知る者は少なかった。
彼女を一躍有名にしたのは、その研究の過程で、町一つを洪水で押し流した事件が明るみになったことである。
当時、それは単なる事故として片づけられ、重い処分が下されることもなかった。ディネアの研究成果によって、魔石による貯水槽が生み出されたり、より多くの恩恵を齎した功績を称えての国家判断でもある。
だが、それは大きな間違いだった。そこから立て続けに多くの建物が水没、あるいは瓦礫と化して流されるなど、世界地図から消えてしまう町や村が後を絶たなくなったのだ。
これら消失を引き起こした主犯が誰であるのか──評議会も無論承知しているが、彼らはディネア本人を召喚しないばかりか、罪を黙認し、事実を闇に葬ってきた。
何故なら、王国の誰しもが、背後にいる『雷神ライアット』の影に怯えているからだ──。
そんな中にあっても、ルゼルアは王国評議会において、過去、いくつかのシュトラウス領の不祥事を取り上げるよう進言したことがあった。
しかし今日に至るまで、そのほとんどが無視。唯一取り上げられたのは、フィットリア領への侵攻にかかる件のみであった。
ライアット候に単独で抗えるダルヴァンテの魔力。この力があって、長い審議の下に一定の成果を出すことができた。
シュトラウス領とフィットリア領の争いから、およそ10年──。平和に見えたこのラーズベルド王国の中でも、現実は醜く、多くの不正が横行し、一部の権力者によって多くの人々に対して目隠しをしている。
本当に忌々しい世界である──ルゼルアはそんな醜悪なる世が大大大大嫌いだった。腹の底は長年に渡り煮えくり返っていた。
仮にここで、怒りに任せてディネアを亡き者としようものなら、薄汚い貴族連中や領主ども、強いては評議会からも圧力がかけられることだって考えられる。
ルゼルアからすれば、ディネアなど所詮は格下──ただし、手加減して勝てるほど甘くはない相手だ。
(彼の者とここで一戦交えれば、町も無傷では済まぬでありんす……。それどころか、妾の領とシュトラウスとの全面戦争になりんしょう……)
とはいえ現状、ディネアから直接の戦いを挑まれたわけではない。ただ黙認し、この地での滞在を認めて欲しい──相手の要求はこの一点のみである。
しからばわざわざ、此方から進んで火種を撒きに行く必要などないのだ。
ルゼルアはルモンドから耳打ちされた提案を受け入れ、ディネアへと伝えることにした。
「まあよいでありんす。其方は明日まで滞在、後にどちらに向かわれるでありんすか?」
「はい、明日の夕刻までにはフィットリアへと入りたい、と私は思うのです」
「ほう、それはなにゆえでありんす?」
「悪いのだけれど、貴方にそこまでのことを言う必要がない、と私は思うのです」
ディネアは素直に行く先を告げたが、その目的については口を噤んだ──がしかし、ルゼルアにはピンときた。
この女は魔流卿であり四闇刃、云わばシュトラウスの幹部である。その要人がたった一人忍びつつ、フィットリアへと入ろうとしている。
(つまり、狙いはアーリナでありんすね……ライアットの差し金……条件など無効でありんす)
ルゼルアは執事に目配せを送り、
「其方も分かっておりんしょう? 直ちに防護結界を発動しんす。この女を他領に出すわけにはまいりんせん」
と声高に指示を付す。一方、指示を受けたルモンドは主の意を察した。手首に巻いていた数珠を引きちぎると、屋敷の天窓へ向かって全力で投げつけた。
ドガシャン!──窓枠ごと吹き飛び、その破片が屋敷内へと降り注ぐ。ルゼルアとルモンドは硝子を避け、頭上では眩い光が閃光した。
「あらあら、一体何の知らせでしょうか、と私は思うのです」
光を手の甲で遮りながら、ディネアもまた後方へと跳び退いた。扉に体をぶつけ、そのまま屋敷の外へ転がるように逃れた。
彼女は肩を押さえて「イタタタ、と私は思うのです」と嘆き、扉の奥から歩み寄る影に目を眇めた。
「ねえルモンド、ここで殺ってしまっても問題はありんせんえ? この町一つで片がつくというのならば、致し方ありんせん。妾の全力を以て、フィットリアへは行かせぬでありんす」
「ルゼルア様、貴方様のご覚悟に私もお付き合いいたします。このような不届き者、成敗されたほうが世の利。これ以上、生かしておく必要もないでしょう」
◇◆◇
ドーランマクナにて、魔女ルゼルアと魔流卿ディネアが開戦の口火を切ったという事実は、シュトラウス領の屋敷にいるライアット候の耳にも入っていた。
「たった今、ドーランマクナの密偵より知らせがありました。魔流卿ディネア様、交戦開始とのこと」
「フハハハッ。やはり、あやつに隠密を期待するのは無駄であったか。まあいい、初めから分かっていたことだ。この戦、始まるならばドーランマクナから火がつくであろうとな。お前はすぐに、レイモンドにも伝達せよ。魔撃卿にもディネアを囮に先に行けと伝えよ」
「ハッ、それと恐れながら、ミド様から国境配備についてお話が──」
「配備の話? そうだな、堅城卿には守備兵を増員し固めろとだけ言っておけ。奴も前線で暴れたいのだろうがそれは無理な話だ。おそらく今回の戦、帝国にとっても渡りに船であろうからな。我らとしても、今攻め込まれては元も子もない」
伝令の兵士にジェルドマンが怜悧に告げ、深く座った椅子から腰を上げて歩きだす。部屋の扉を開け、通路を歩いて一階へと降りると、そのまま外へと出る。
屋敷前の開けた場には、すでに多くの兵士が整然と並んでいた。
設けられた演台へと上り、ジェルドマンはその光景を一望する。
「我らシュトラウスは今日この刻を以て、王国掌握への第一の楔を打ち込む。奮い立て我が兵士たちよ、いざ開戦の時だ」




