弐百五拾壱 妻の家出
「というわけで、俺が更生したのはあの生臭坊主のおかげなんかじゃない。一番に早苗のおかげさ。二番目はトラ。まあオマケということで、三番目にあのクソ坊主のおかげということにしておいてやろうかな」
と、竜之さんは言った。
「ふーん、そうだったんですか」
彼の話に、おれはすっかり感心していた。
「おかわり!」
向こうは話し終わると、味噌汁茶碗をおれの眼前に勢いよく突き出す。
「ハイハイ」
おれはキッチンに行くと、さっき竜之さんのフケが茶碗に降り注ぐのを目撃していたので、一度水道水で軽くすすいだ。
「ん? お前、何やってんだ。おれはおかわりっていったんだぞ」
そう言って不思議そうな顔をしている。
「あっ、そうか。ぼんやりしてました。竜之さんの話に感激してたものだから」
やれやれ……。いったい何杯飲んだら気が済むんだろう。10杯分ぐらい作ったのに、もうなくなりかけてるじゃないか――。
おれは、茶碗からこぼれそうなほどついでやった味噌汁を差し出しながら、嫌味たっぷりに言ってやった。
「はい、どうぞ。味がえぐくて、喉がイガイガする手抜きの味噌汁です」
「ふん」
向こうは素知らぬ顔で、一度ずずっと啜った。
「それでだな、例の夢の件で思い当たることはそれだけじゃないんだ」
そう言って、竜之さんが話してくれたことは、次のようなことだった。
卒業後、彼は農業を継ぎ、早苗さんは郵便局に就職した。それからいくつかの曲折を経て、二人は結婚する。彼女の両親は猛反対したが、何度も通い詰めてようやく認めてもらえたということだった。
結婚に際し早苗さんから提示された条件は、三つあった。
一つ、同居はしない。一つ、結婚後も仕事はやめない。一つ、農業は手伝わない。
竜之さんは、この全てを快諾した。
同居については、逆に彼のお袋さんの希望でもあったらしい。自分は実の両親との同居であったからいいものの、同居で互いに気を遣うより、ほどよい距離感で末永く付き合っていきたいとのことだった。
仕事を続けるということについては、家計を助けてもらえることになるので、むしろ有難いことだった。農業は気候に左右され、収入も不安定だったからである。
農業を手伝わないということについても、これからは機械化の時代だから全然構わないと、胸を拳で叩いて請け合ったのだった。
しかも丁度良かったことは、その頃定年退職していた竜之さんの父親が、俄然、農業に目覚め、息子よりも張り切って田畑で働くようになっていたことだった。
こうして二人は、めでたくゴールインする。夫の両親とは非常にうまくいっていたらしい。その後一男一女を授かったが、早苗さんは仕事を続けた。
子育てに手を抜くことはなかった。もちろん、これには夫だけでなく、双方の両親の協力があってこそだったのだが。
活動的なだけでなく、運動神経抜群だった彼女はそれだけでは飽き足らず、ママさんバレーを始める。プロの選手ほどではなかったが、身長も170cm以上あり、セッターとして大活躍したそうだ。
そんな彼女がある日突然、仕事もバレーも辞めると宣言した時は、さすがの竜之さんも驚いてしまった。
もう五十を過ぎて身体がきついというのが彼女の言い分だったが、理由は別にあった。夫の両親が年老いて、介護の必要が生じていたからである。
通いながら介護をするのは大変だからと、同居も申し出た。泣きながら感謝する竜之さんに、彼女は笑って言った。
「あんたの頑張りで農業経営も軌道に乗ってるようだし、それに何より、あんたのお父さんとお母さんには良くしてもらったからね」
それからの彼女は、介護のかたわら、義父母のために減塩食を作るようになったのをきっかけに料理の世界にのめりこんでいった。
これまで竜之さんのすることにとやかく言うことはなかったが、ただ一度だけ、彼が借金までして農地面積の規模を拡大をしようとした時は、意見らしいことを口にした。
「トラさんが言ってたよ。――ただやみくもに足し算だけして数字だけ大きくしてもダメだ。面として繋がっていなければ意味がないって」
「何、あいつが?」
竜之さんはリーゼントに鉢巻をぎりぎり絞めると、珍しく妻に向かって目を剝いた。
「何だ、馬鹿の一つ覚えみたいに。あいつがそう言うなら、その逆のことをしてやろう」
こうして彼は、妻の言うことも聞かず、ますます規模拡大に邁進し、ついには一千万円を超えるようなトラクターまでローンで買ってしまった。
早苗さんはもう何も言わなくなってしまった。ローンが払えなくなって、いくつかの土地を手放し、やけになってパチンコ屋に入りびたりになるようになっても、やはり何も言わない。
いささか気味悪く思いながらも、彼の行状は改まらなかった。




