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百八拾 安太郎さんの手記(3)

「さあ白河君、いつも演説をする時のように大きく口を開けたまえ」

 と言われたが、もちろん言うとおりにするはずがない。


 すると、井脇が私の後ろ髪をむんずと掴み、いきなりヤニ臭い手を口の中に突っ込んできた。強引に口を引っ張り開けられる。

「いいか。ふー。噛んだりしたらどうなるか分かるよな?」


 必死に抵抗しようとしたが、後ろ手に縛られているうえに、夏川に後ろから首をしっかりと拘束されたためにびくともしなかった。


「うーん。それじゃあよく見えないなあ。はい、お口をあーんしてごらん。もっと大きくだ」

 閻魔大王がそう言うと、坊主頭の大男が下卑た笑い声を上げた。


 大男がさっと手を引っ込めた瞬間、ヤットコが素早く私の舌を挟んでいた。そのまま一気に引き出される。思わず声にならない声を上げた。両目から勝手に涙があふれ出てくる。


「ほお、これがインテリ、もとい知識人の舌ってやつか。もう少しよく動くかと思ったら、恐怖のあまり、凝り固まっているようだ。この似非(えせ)知識人め」

 閻魔大王はそう吐き捨てるように言うと、意外にもそこで舌抜きの刑を取りやめた。


 男たちの顔が笑っているのか、それとも睨んでいるのか、涙でよく見えない。激痛による涙でもあり、屈辱による涙でもあった。激しい敗北感に私は打ちひしがれていた。


「今日のところはこれ位にしておこう。明日は、君の舌がもう少し滑らかに動くことを期待しているから。――あっ、そうそう。いいアドバイスをしてあげよう。君のお友達や支持者の名前を一人教えてくれれば一日、二人教えてくれれば二日早く帰してやる。しかし、そんなんじゃまどろっこしい。どこかで集会を開くとか、新しく結社を立ち上げるとか、或いはもっと大それた……そんな情報を教えてくれたら、大金星だ。君は無罪放免となる。まあ、一晩じっくり考えてみるんだな」


 似非知識人か――確かにこの男の言うとおりかもしれない。私の舌も筆も、結局は無力だったではないか。学徒たちは若い命を散らし、国民は飢えや空襲で死んでゆくばかりだ。日本は破滅への一途をたどっているだけなのではないか?


 しかし、私にはそんなことを憂慮する資格もないのだ。私は、三人もの身近な女を不幸にしてしまったのだから。


 一人目は母。二人目は(きよ)さん。そして三人目は、藤尾奈美さんだ。この人たちには、もう合わせる顔もない。それどころか、奈美さんはとっくの昔に死んでしまった。会って詫びを言いたくても、それは絶対に不可能なのだ。


 果てしない虚無と深い絶望の淵に私は居た。もうどうでもいい――。せめて最後位は、大和魂を見せてやる。誰が奴らの口車なんかに乗って、仲間を売ったりするものか。


 翌朝、早くから取調室に連れて行かれたが、いっさい口を開かなかったものだから、散々責められた。


 円山課長は、昨日と同じ白い麻の背広を着ていた。部屋の隅に置かれた椅子に座り、目を閉じて耳掻きを使っている。昨日はあんなことを言っていたにもかかわらず、私が竹刀で打擲(ちょうちゃく)されているすぐそばで、のんきに耳掻きの先をぷっと吹いたりしている。


 井脇と夏川に、しばらくやりたいようにやらせたあと、おもむろに声を掛けてきた。

「よし、その辺で。小林の時のように騒ぎ立てられたりしたら困るからな」

 と、また同じようなことを言っている。


 井脇に代わって正面に座ると、

「時間だ。縄を解いてやれ」

 と言う。


 今日はこれで解放されるのかと思ったら、大変な勘違いだった。

「もう昼だ。ランチを取って少し休憩しようじゃないか。おっと、ランチは敵性語だったな。昼餉だ、昼餉」

 円山がそう言うと、すぐに食事が運び込まれてきた。


 ランチと言っても、ただの雑炊だ。臭いうえに灰褐色の汚い色をしている。

「さあ、これでしっかり滋養をつけたまえ」


 国民は飢え死にしているんだから、食べられるだけでも贅沢だ。そう思って、添えられていた(さじ)を使って口に入れようとしたら、すかさず叩き落とされた。

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