百七拾九 安太郎さんの手記(2)
私はしばらく意識を失っていたらしい。頭から水を浴びせられて目を開けたら、大入道が見下ろしていた。
「何をのんきそうに眠っているんだ。ふー。貴様にそんな贅沢なんぞ許されちゃいないからな。ふー」
そう言うと、再び私を椅子ごと抱え上げ、テーブルのそばに戻した。
さっきの衝撃で椅子の後ろ脚が片方だけ折れたのか、身体が斜め後ろに傾いているので、油断すると仰向けに倒れてしまいそうである。
井脇はテーブルを回り、素知らぬ顔で、真正面にどかりと腰掛けた。首に掛けていた汚いタオルを手に取り、汗だくになった顔や坊主頭をやたらに拭っている。
「後頭部からかなり出血しておりますが」
部下の夏川がそう言うと、
「なあに、頭の皮ってものはだな、ちょっとしたことでぷつっと裂けて、ふー、大げさに血を流しやがるんだ。ふー。見かけほどたいしたことはねえ。ふー。むしろ血が出ていりゃあ、脳みそは大丈夫だってことだ。ふー」
と、でたらめな医学の知識をひけらかす。
汗を拭くのをやめ、テーブルに両肘をつくと、節くれ立った手を揉み始めた。
「さてと、もう一度聞く。ふー。お前さんは論文で大衆を扇動し、国家転覆を謀ろうとした。違うかな?」
私はもう、いっさい口を開かないことにした。
じっと俯いたまま、相手の目を見返すことさえしなかった。
そもそも論文のどの部分を根拠に、そういうことを言うのだろうか――。自分は国体の変革だの私有財産の否定だの唱えたこともない。
自分の国と余所の国の工業力や軍事力などを緻密に比較分析もしないまま――否、実はやるにはやっているのだが、あえてそれには目をつぶり、無謀な戦争を始めてしまった。その挙句に国が焦土と化し、多くの日本人が死んでいる。既に勝敗は決しているというのに、やれ本土決戦だの一億玉砕だのと狂信的に叫んでいる政治家や軍務官僚たちを、私は激しく攻撃しただけなのだ。
そう言い返したい衝動に駆られたが、決してそんなことをしてはいけない。それでは相手の思うつぼだ。
「では、こうしよう。ふー。お前さんの仲間や支持者なんだがね。ふー。どうだろう? たくさんいるんじゃないかね? ふー。そのうちの誰か一人でもいい、こっそり教えてくれないだろうか。ふー。そうしたら、少しお情けを掛けてやってもいいがね。ふー。どうかな?」
私はこの男の話はすでに聞いていなかった。ふーを何回言うか、それを数えることばかりに専念していたのである。
すると、坊主頭がまた部下に向かって顎をしゃくった。
即座に竹刀が渾身の力を込めて、両腿に振り下ろされる。
激痛にのけぞった拍子に、そのまま仰向けに倒れてしまった。それを抱え起こされ、さらに竹刀の一撃……。
これが何回も続き、最後に大男が私を椅子ごと抱え上げる。
するとその時、
「やめろ!」
という声がした。
部屋の扉が開き、眼光の鋭い痩せた男が立っていた。白い麻の背広を着ている。
井脇は、慌てて私を元の位置に戻すと、さっと直立不動の姿勢をとった。夏川もそれに従う。
白い背広の新参者は、こちらから目を離すことなくつかつかと近づいてくると、正面に座った。
それから横を向いて言う。
「小林多喜二の時のように、また写真に撮られたうえに、騒ぎ立てられたんじゃかなわない。外から分からないように痛めつけるんだ」
「はい、課長」
二人の部下は、そろって返事をする。
「さて、白河安太郎君。一応自己紹介しておこう。私は、円山和真だ」
痩せた男は、私をじっと見据えて言った。
「君のように舌先三寸で人を扇動しようとする人間が、私は大嫌いでね。それに君は、いい所の坊ちゃんなんだろう。自分はぬくぬくと安全なところに居て、罪のない人たちを危険な思想に走らそうとしているではないか。国難に際し、誰もが食うや食わずの生活をしながら、身を粉にして働いている。中には命を捧げてまでお国のために尽くしている若者もいるというのに、君は何だ。許せん!」
こういう手合いに何を言っても無駄だ。私は沈黙を貫いた。
「ほほお。ここでは、そのお得意の舌を動かすことはないと見える。ところで、私が何と呼ばれているか、初対面だからまだ知らないだろうね」
相変わらず黙っていると、
「閻魔大王様だ。ふー。少しは恐れ入るがいい。ふー」
と、大男の井脇がそばに来て、私の頭をテーブルに押さえつける。
「さて君のお行儀のよくない舌はいったいどうなっているんだろうね。ちょっと拝見させてもらおうか」
円山がそう言うと、井脇がそそくさと部屋の隅のほうに走っていった。
ドライバーだのプライヤーだのやたら掻き回すと、最後にヤットコを取り出す。




