拾七 幽便配達夫は二度咳をする
その後少し不思議なことが起きる。
いくら世をはかなんで隠遁生活をしているからと言って、社会と完全に断絶しているわけではない。こんなおれ宛てにでも、昔の友人や役所などから郵便物が届いたりする。
異変は少しずつ始まった。
最初は文字が少しかすれる程度だったが、そのうち所々欠けたりするようになった。それ位ならたまにあってもおかしくはないだろうが、とうとう全く白紙の郵便物が届くようになる。宛名も差出人もないから、どうにも仕方がない。
もしやと思い、蝋燭で炙り出しを試みてみたが、まさかそんなもので文字が浮き出てくるはずもない。
しかし、もっと深刻だったことは、前の晩にうんうん苦しみながらワープロで打ったはずの原稿が、朝になったら消えていたということである。
ある日の夕方のことだった。
玄関わきの郵便受けを覗いてみると、手紙が数通入っている。案の定、表も裏も白紙である。
首を捻っていると、薄暗がりの中から自転車のキーコキーコという音が聞こえてきた。
紺色の制服を着た男が、赤い自転車に乗ってやってくる。制帽には、赤い文字で「ゆうびん」と書かれていた。
ゆうびんやさーん、はよおいで……などと暢気に歌っている。
自分で言ってりゃ世話がない。
家の庭に入ってきたら、やたらに長い顎鬚を押さえながら、ゴッホ、ゴッホと変な咳をした。それから、自転車のスタンドを丁寧に立てると、ぺこりと頭を下げる。
「コンバンハ。いやまだ早いコンニチハ。昼と夜、その境目は誰そ彼ぞ」
また、変なものがやってきたものだ。
逢魔時だから仕方がないんだろう。
日本郵政の職員は、続いて一人でまくし立てた。
「たそがれの他人の背に見る去りし人。これ、あなたどうです? どうです? 中八。ナカハチね。韻を踏まなくて良いなら、他人をひとと読めばいい。去りしを逝きしに変えたら、ただ別れただけじゃなく死んだ人になる。どちらも悲しいなあ。悲しい。あなたどっちがいいです? どっちが」
おれは京子のことを思い出して、少し胸がしくしくと痛んだ。
しかし、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。
「ちょっとあなた、そんなことはどうでもいいですから、これは何です?」
と言って、届いた郵便物を見せた。
「あっ、これ違います。違いますよ。私が配ったものじゃない」
「あなたが配ったものじゃないって、じゃあ、あなたはいったい何なんですか」
ついイライラしながら言うと、男はゴッホ、ゴッホとまた変な咳をした。
「私? 私はね、日本郵政の職員ではありませんよ。名前、名前ね、名前は児井文好と言って、幽便配達夫をやっております。またの名を霊界通信使とも言います。霊界通信使ね。あなた分かる? 分かります?」




