百七拾四 哀れな人形
その人にとって、人形は清さんそのものだった。だからこそ、激しい憎しみを抱き、首と腕を引きちぎって畑に打ち棄てたのだ。
では、清さんがおれの代わりにこの部屋に寝た時に、なぜ彼女を取り殺さなかったのか? 取り殺すどころか、姿を現しさえもしなかった。あんなに毎晩出てきては、おれを悩ませていたというのに――。
そう不思議に思いながら清さんの顔を見て、思わず吹き出してしまった。
「何ですか? 気持ちの悪い」
清さんが不満そうにこちらを睨む。
「いや、何でもないです。何でもないです。ふふふ……」
そう答えながらも、笑いは止まらなかった。
「もう、何だというんですか、いったい?」
「いや、済みません。つい――」
清さんの言によれば、彼女は一度墓の下を潜った人間である。そんな人を、どうやって取り殺そうというのか。
おれは、あらためて乱れ髪の容貌を思い出した。
細面で透き通るように色が白い。潤んだ瞳を静かにこちらに投げかけ、悲し気にまつ毛を瞬かせる……。
人形に激しい嫉妬心を燃やしたとしても、人を取り殺すような怖い人とは、とても思えない。むしろ優し気な顔立ちだった。
「ねえ、抱いて」
彼女は甘えるように、両手をこちらの首に巻き付けてきた……。
そこで、はたと気付いた。人形はその人にとって、いったんは清さんの分身であり、憎しみの対象であったのに、今度は自分の身代わりとしてそれに乗り移ったに違いない。とうとう最後まで得られることのなかった愛を、そうやって求め続けるために。
渇愛――。求めても求めても、得られることのない愛。その七転八倒するような苦しさは、おれには誰よりもよく分かる。
しかし待てよと、おれは思い直した。安太郎さんの霊だって、ここにとどまっているではないか。ひとつ屋根の下で暮らしておりながら、なぜそれを彼に直接ぶつけなかったのだろうか。
今まで影の薄かったその人の存在が、おれの中でひときわ大きなものになったのだった。この人のことをもう少し掘り下げてみなければ、今回のことは解決しないだろう。
これはどうしても、安太郎さんの手記を読ませてもらわなければ。今夜はゆっくり休むとして、明日になったらすぐにでも彼に頼んでみよう。
バラバラに引き離された人形の身体を、また元にしてあげさえすれば、何もかもが一気に氷塊すると考えていたおれの何と能天気なことか。
人形――。人の形をしているがゆえに、人の身代わりとなる。ハレの日に飾られるかと思えば、人の代わりに埋められもする。はたまた、おままごとなどの玩具にされるかと思えば、呪いの道具にも。
愛でられ、疎まれ、抱かれ、投げ捨てられ……。
そうか。あの人形は京子が誰かに頼んで修復してくれるんだ。着物は替えてもらうだろうから、完全な修復とは言えないかもしれないが。
それにしても、どんな着物に着替えさせてもらうんだろう? 人形はさぞ喜ぶことだろう――。
「清さん!」
おれは、小袖の手のことを思い出して言った。
「水色の地にオシドリの文。これは加賀友禅に間違いありませんね?」
「ええ、そうですが。どうしたんですか、急に」
「夢の中にそれが出てきたんだ。やっぱり心の中のどこかで、それが引っかかっていたんでしょうね」
「まあ――」
と、清さんは目を瞠った。それから、にっこりと笑って言った。
「夢は願望の表れとも言いますからね」
「それはどういう意味……?」
「御自分で勝手に期待なさっていたではありませんか。そのうち加賀友禅のほうから、やってくるだろうって」
清さんはそう言って、ますます満面の笑みを浮かべるのだった。




