百七拾参 壊れた心
空っぽの着物は、襖をすっと開けると、衣擦れの音を立てながら出てゆく。襖はすぐに閉まり、元の静寂が訪れる。
あれは小袖の手……?
これは夢だ。おれはまだ夢を見ているに違いない……。
坊ちゃん……、坊ちゃん……。
その声に、おれは本当に目を覚ます。枕元には清さんが一人で座っていて、心配そうにおれの肩を揺さぶっていた。
「起こして申し訳ございませんでした。何だか、うなされておいでだったものですから。悪い夢でもごらんになったんでしょう。気分はいかがですか?」
おれは寝床から起き上がると、まだぼんやりとした意識のまま、部屋の中を見回した。
「気分はいいです。いいですが……」
「あのお嬢さんなら、もうお帰りになりましたよ。寅さんと美登里さんが来て、駅までお見送りになりました」
「そうなんだ……」
もうこのまま永久に会うこともないかもしれないのに、何の挨拶もなしに帰ったというのだろうか?
おれの表情を見て、気づいたのだろう。清さんが付け加えた。
「よくお寝みになってましたからね、お声を掛けるのを御遠慮なさったんです。本当にお優しい御立派なお嬢さんですね。でも、一箇月ぐらいしたらまたお見えになるそうですよ」
「えっ?」
「あの人形をお持ち帰りになったんです。ほら、首と両手がもげてしまっているうえに、着物もボロボロじゃないですか。だから、直してあげなければって」
「言われて見れば、確かにそうですね。でも、彼女が自分で?」
「いえ。知り合いの人形師さんにお願いするとおっしゃっていました。なんでも、最近になって人形の研究を始めたとのことで、それが縁で知り合いになったそうです。土偶や埴輪、形代からワラ人形まで、とにかく人の形をしているものなら、すべてが研究対象だとおっしゃっていましたよ」
彼女の専攻は民俗学である。人形が民俗学の研究対象になるのかどうかということは、門外漢のおれにはよく分からない。
寺社の研究ばかりしていると思っていたが、そうではなかった。何もかも昔のままだというのは、おれの勝手な思い込みだったのだ。少しだけ離れているうちに、彼女にも新しい世界が広がっているのであろう。
そもそも、彼女のことを知っていたつもりになり、何も変わらないと思い込んでいたおれが愚かだったのかも知れない。彼女の何を知っていたのだろう。何を理解していたというのだろうか。
まあ、可哀想に……。
京子は、あの人形を初めて見た時にそう言った。
確かに清さんの言うとおり、彼女は優しい女だ。その無限の優しさで真っ直ぐに迫ってくる彼女が、おれは逆に怖かったのだが。
彼女のことだけでなく、おれは自分自身のことさえ分からない。そんな自分自身が一番恐ろしい。
京子はいみじくも言った。彼女にとって、おれは大きな矛盾であり、無であり、暗闇であると。そんなおれを愛したがために、二人ともボロボロに壊れてしまう。そんな未来を想像し、おれは恐怖したのだった。
すると清さんが、坊ちゃん、とまた声を掛けてきた。
「まだ顔色がよくないようですね。お加減が悪いんですか」
「いえ、大丈夫です」
おれは彼女の顔を見ながら答えた。
歴史の波に翻弄され、大切な人生をボロボロに壊された人がここにいる。それに安太郎さん。そしてもう一人――。




