九 手、手、手、手、手……
まさか新居を借りたらそんなことになるなんて、いったい世の中でそんなことを思う人間がどこにいるだろう。
そのうえ生涯特約を結んでいるから、死ぬまで契約破棄できないだって? たとえ瑕疵担保条項に書かれていたとしても、そんなのは公序良俗違反で契約無効の申し立てができるんじゃないだろうか。
それでとうとう思い余って、弁護士事務所に相談しに行くことにする。
対応した磯崎勉という弁護士は、おれの持参した賃貸契約書を机に置くと、首を振った。
「これは、法律の手が及ばない事案です。こちらでもお手上げですよ」
「えっ? いや、しかし――」と俺が言いかけた途端、
「まだ分からないんですか?」とぴしゃりとやられてしまう。
化野なんかとは違って、仕立てのいいスーツをきちんと着こなし、気障ったらしい銀縁の眼鏡をかけている。何だ、イソベンの癖に。
「あなたは嵌められたんですよ、この化野って奴にね。こいつは不動産仲介業を装っていますが、本当はこの世とあの世との仲介を行っているんです」
おれは化野なんかよりも、彼に対する反発もあって、
「だからこそ、困ってここに来たんじゃないですか。このまま手ぶらで帰れと言うんですか」と食い下がった。
すると向こうはさも人を馬鹿にするように、両手を左右に広げた。
「実はさきほど別の方が相談に見えたんですが、この世の人ではなかったので、お断りしたばかりなんです。
その方が、いまあなたの手をしっかりと握っています。どうぞ、手に手を取り合ってお帰りください」
それを聞いたおれは、思わず左右を振り向き、慄然とした。
何も見えないし、何も感じない。このおれにさえ見えていないものが、こいつには見えているのだ。ひょっとしたらすごい能力の持ち主なのでは――。
すると、化野だけでなくこいつまでもが、おれの心を見透かすように言った。
「なに、こんな能力など何の役にも立ちませんよ。私は弁護士ですから、あくまでも法律に従って行動するのみです。
それより、あなたこそ特殊能力をお持ちのようだ。御自身でもお気づきなのではないですか。何かを引き寄せる能力にね。どうぞ、御自分で解決なさったらいかがでしょうか」
こんなのに口で立ち向かっても叶うわけがない。おれは黙って引き退がるしかなかった。
せっかくあだ名まで付けてやったが、もう二度とイソベンなんかの世話になるものか。
いよいよ万事休すである。




