1-19. 霧の中の罪人
森を切り開いた一本の道を奥へ進むと霧の中だった。
エリナによれば、この道の向こうから騎士団とやらがやってきてくれるのだという話だ。
ヨシヤは、つとめて呼吸を小さくした。
少しでも身体の調子がおかしくなってきたら踵を返して村まで逃げ帰るつもりでいたのだ。
心臓がバクバク鳴っていて痛いくらいだった。
「……なんだ。全然平気じゃん」
杞憂だった。
ヨシヤはてっきり、霧に入ったとたん肺が腐るとか、身体中に聖なる痣が現れて激痛にのたうち回るとか、そんなことを警戒していたのだ。
しばらく経ったが、身体は全く問題なくピンピンしていた。
深呼吸だって何度もしてみたが本当になんともない。
「大袈裟なんだよな」
拍子抜けだった。
あいつらは一体何を恐れているっていうんだ?
魔物やヌシとやらに鉢合わせないかどうかだけは気をつけておかなければいけないなと思った。
そんなときだった。
道端の茂みから、がさがさという音がした。
魔物か?
音はそれほど大きくなかった。
魔物だったとしても、あの大トカゲみたいなとんでもない脅威ではないはずだ。
ヨシヤは振り向いた。
そこにあった姿に、ヨシヤはまるで時が止まったみたいに動揺した。
女だった。
紺色のダッフルコートに黒いセーター、チェック柄のスカート。
肩まで伸びた黒い髪。
一瞬、ヨシヤの脳が理解を拒んだ。
嘘だ。
馬鹿な。
こんなところにいるはずがない。
でも見間違いのわけが……。
「……サオリ?」
目の前にいたのは、今年の1月まで交際していた大学の同級生。
サオリだった。
ヨシヤは訳が分からなくなった。
一体何が起こっている?
思い出したのはエリナと有為子の顔だった。
空から降ってくるみたいに、ヨシヤの頭にはある考えが浮かんだ。
……そうか。
異世界召喚だなんていうのは、やっぱり何かの悪い夢だったんだ。
深層意識を反映したような夢。
これから自分はこうして、現実で縁の深かった人と同じ顔に何度も遭遇させられるんだ。
そうとしか思えなかった。
サオリはヨシヤから目を背けると、信じられないくらい深いため息をついた。
それは、呆れや諦めの極地に至った者のため息だった。
もうお前と話すことはひとつもない、とでもいうかのような。
仲がよかった頃。
サオリは一度だってこんな態度は見せなかった。
それはたった一度、別れ際にだけ見せた顔だった。
ヨシヤは、何も言われずして、存在を全否定されたかのような気分になった。
怒りと焦りで頭がカッとなった。
「なっ……なんだよ!? なんか言いたいことあんのかよ!? あんなら言えばいいだろぉ!?」
「……別に。なんでもないですけど」
「なんでもないやつの態度じゃないじゃん!!」
サオリはずっと斜め下を見ていた。
目を見て話せよ。
ヨシヤはそう思いながらも一方で、サオリと目を合わすのが恐ろしくてたまらなかった。
「あっそ。そんなに聞きたいんだ。じゃあ言うけどさ」
心臓が大きく跳ねる。
生唾を飲み込んだ。
これから何を言われるのか、ヨシヤは恐怖していた。
そして、恐怖していることを認めたくなかった。
「ヨシヤさ、別に私のこと好きじゃなかったよね」
「は? な……なん、で」
「連絡するのも私。デート行く場所決めるのも私。デート中に話題振るのも私。なんか、私のこととかもうどうでもよさそうだなぁって」
「い、いやいやいや!! 結構俺から連絡してたろ!? お前、何言って……」
「一度セックスした後のこと言ってるのは分かってるよね?」
「ンッッッ……!!」
ヨシヤは何も言えなくなった。
サオリの声はみるみる冷たくなっていった。
「お前といると気が楽だ、って。なにそれ。そりゃ楽だよね、全然気遣ってないんだから。ちょくちょくありえないくらい適当な格好でデート来ることあったじゃん。あれ、出かける前に何か思わなかったの? 私だからいいやって思ってたの? 待ち合わせ場所でその格好見るたび毎回時間かけてお洒落していってる自分がなんだか情けなくなった。そのくせ5万円もするコート買ってるとか本当にどういうつもりなわけ?」
「よんッ……」
「あーもういいからいいから。私のこと大して好きじゃなかったってだけでしょ。もうちょっと早く分かってればなー……あーあ。いい勉強になったわ」
ヨシヤは涙が出そうになった。
なんでそんな酷いことを言われなきゃならないんだ。
確かに、自分にも落ち度はたくさんあったのかもしれない。
だからといって、2人の間にあった美しいものまでひとまとめに否定することはないじゃないか。
「そんなこと……言うなよ……」
ヨシヤの口から漏れ出た言葉はほとんど懇願に近かった。
「俺だってさぁ……お前といて、結構……楽しかったんだよ……なのにさぁ……」
「顔も覚えてないのに?」
「え?」
ヨシヤは、改めてサオリの顔を見た。
いや、違う。
自分がさっきからずっと、サオリの顔を見ずに話していたことに気付いたのだ。
サオリには顔がなかった。
代わりに、歪んだ渦のようなものが、本来顔のあるべきところでぐにゃぐにゃと蠢いていた。
「は、はは……」
ヨシヤは膝から崩れ落ちた。
サオリの顔が、思い出せない?
そんなはずがあってたまるか。
こんなの、何かの間違いだ。
「こ、これはさ……違うじゃん、あれだよ……特別大事に思ってる相手ほどさ? 脳科学的になんかそういう……そういうのってあるだろぉ!?」
サオリはもう何も言わなかった。
顔がないというのに、こちらを哀れみの目で見下ろしていることだけが分かった。
「それで彼女もいなくなったことだから、そういえば自分に懐いてくれてる女の子がいたなぁって思い出して帰ってきたんだ?」
そのとき、ヨシヤの首を、細い両腕が後ろから抱きしめた。
ふわりとした感触が伝わる。
「はえ……?」
有為子だった。
首に巻きついた腕、その袖は、有為子が着ていたセーラー服のものだった。
「兄さん、ただでさえ友達少ないのに。大学で一番兄さんのこと構ってくれてたのってサオリさんじゃなかった? もうちょっと大事にしようとか思わなかったの?」
「ち、違うんだって!! ちょっと気が緩んで……ほら、仲良いぶんだけ安心しちゃったみたいな? あるじゃんそういうの!? それをさぁ……!! 悪いとこ全部直すって言ってんのに、友達に戻ろうって……何も言わずいきなりさぁ……!!」
「結構言ってたと思うけどなぁ」
「言ってねえって!!」
「聞いてなかっただけでしょ?」
今度は有為子が耳元でクスクスと笑う。
「なんだ。妹さんいい子じゃん」
「サオリさん、今から二人でお話しない? 兄さんの話、聞きたいなぁ」
「いいよー?」
「やめろォーッ!!」
ヨシヤの絶叫が霧の中に響き渡った。
有為子が横から顔を覗き込んでくる。
頬に唇が触れそうなほどだった。
「あはは。もう私たちのことはよくない? ……よかったね。美人のシスターさんに気に入ってもらえて」
「カヒュッ…」
美人のシスターさん。
エリナのことだ。
有為子の口から、一番聞きたくない名前だった。
聞きなくない? 何故?
どうしてそんな風に思うのか、それすらヨシヤは考えたくもなかった。
「……顔が好きなんだ?」
ヨシヤは心臓が止まりそうになった。
顔が好き。
エリナの顔が。
有為子の細い指先が、くすぐるような手つきでヨシヤの胸元を撫でてくる。
「エリナさんの、顔が好きなんだ」
「な、なんだよ……何が言いたいんだよ……」
それはまるで、胸の中に直接手を突っ込んで、「いつでもこれを握りつぶしてやれるんだぞ」と心臓を優しく撫で回すかのようだった。
ヨシヤは事ここに至って、霧が何なのかを理解しつつあった。
霧は罪あるものを裁く。
それがどういう意味か。
霧が人に何を見せるのか。
そして、どうして村の人たちがそれについて語ることを嫌がったのか。
ヨシヤは正しく理解し始めていた。
道の向こうから、子供のような足音が聞こえた。
ヨシヤは、びくんと肩を震わせた。
今度は誰が来るんだ?
次は誰に何を言われるんだ?
やめてくれ、もう聞きたくない。
ヨシヤは足音のする方を見たくなかった。
なのに、見ずにはいられなかった。
媚びるような笑みすら浮かべて、そちらへギチギチと首を回した。
そこにあった姿に、ヨシヤは頭が真っ白になった。
「ユキ……?」
木々の間を伸びる道の先に、ランドセルを背負った少女が立っていた。
小学校時代のクラスメイト、ユキだった。
──ユキはいじめに遭っていた。
しかし、最初からいじめられていたわけではなかった。
きっかけは、クラスの友達から借りた筆箱についていたキーホルダーを無くしたことだった。
それは昼間の教室でのことだ。
「大事なキーホルダーだったのに」
「なんでなくしちゃったの」
悲痛な声で泣きじゃくる女子がいた。
アリサという子だった。
彼女は女子グループの中でも強い力を持っていた。
回りに立つ女子たちは揃ってアリサに味方し、ユキを糾弾した。
ユキは涙を溜めた目であたりを見渡して、そしてその視線はヨシヤに止まった。
「ヨシヤくん、この辺にキーホルダー落ちてるの見なかった……?」
ほとんどすがりつくようにたずねるユキ。
聞くに、キーホルダーは何かのアニメのキャラクターものらしかった。
「ええー? この辺でだろ? そんなん見た覚え……」
ヨシヤは頭をうんうん捻った。
そして、脳裏に電流が駆け巡った。
「……あ」
ユキから聞いたキーホルダーの特徴。
ヨシヤには覚えがあった。
今日、教室の床に落ちていたそれをヨシヤは確かに拾い上げていたのだ。
「なんだこれ。きったね」
しかしそれがあまりにみすぼらしいので、ゴミ箱に叩き込んだ。
「みっ……てないなぁ……」
嘘をついた。
ゴミ箱に入ってるよ。
そう教えてやるだけでよかったのに。
ヨシヤは、人の大事なものをゴミ箱に叩き込んだと知られることの方を恐れた。
「そっか……」
しゅんとして去っていくユキ。
ユキを睨む女子たちの一団。
ヨシヤはユキの背中を眺めて、胸の奥がぎゅっと重く締め付けられるような気分がした。
今すぐにでも引き止めるべきなんじゃないか?
だが、結局何もしなかった。
その日からヨシヤは、毎晩布団の中で、あのキーホルダーのことばかり思い出した。
キーホルダー、ゴミ箱、ゴミ収集車、焼却炉……そんな映像が頭の中から離れなかった。
ユキはいじめに遭うようになり、やがて学校に来なくなった。
彼女の不登校は小学校の卒業まで続いた。
中学は別々だった。
中学生になって、ユキは学校に行くようになっただろうか。
小学校の教育課程を飛ばしてしまった子が、これから中学でやっていけるものなのだろうか。
あのひとつのキーホルダーが、ユキの生涯に渡る大きな影を落としたとでもいうのか。
たかだかキーホルダーひとつで?
そのユキが、今、目の前にいた。
「……ヨシヤくん」
ユキがゆっくりと腕をこちらに向ける。
「そっ……れはお前が悪くない!? 人から借りたモンをさぁ!! 失くさなきゃよかったんじゃん!! 俺のせいにすんのお門違いだよね!? つーかなんだったらお前最初からちょっと嫌われてたからね!? 俺けっこう比較的仲良くしてやってた方だと思うんだけどなぁなんかいじめた奴が一番悪いのに俺が悪いみたいに言われんの心外だわそもそも」
「ヨシヤさん」
「ピャーーーーーッ!?」
背後からの声にヨシヤは飛び上がった。
振り返ると、そこにいたのはエリナだった。
── よかったね。美人のシスターさんに気に入ってもらえて。
そんな有為子の言葉が頭に響いた。
ヨシヤは絶望に包まれた。
サオリが、有為子が、ユキがこちらを見ている。
その中を、エリナが近付いてきた。
一体、この子に何を責められる謂れがあるっていうんだ?
あんなに助けてやったじゃないか!
「な、なんだよ……俺……お前になんかしたかよ……」
何か思い当たることはあったか?
いいや、ないはずだ。
けれど、そう思った瞬間、胸の奥に触られたくないものがあるような気がした。
「……ヨシヤさん」
「やめろよぉ!! もう聞きたくねえ!! 消えろ!! 消えろ消えろ消えろ消えろ!!」
「ヨシヤさん!!」
エリナの平手打ちが、ヨシヤの頬を打った。
べちんっ、という快音が木々の中にこだました。
遅れて、頬がじんと熱くなる。
あまりに生々しい痛み。
ヨシヤは急に目が冴えてきた。
サオリも有為子もユキも、いつの間にか姿を消していた。
「……あれ?」
目の前には、エリナだけが立っていた。




