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柔らかな日差しが、レースのカーテン越しにベッドへと降り注いでいる。
まどろみの中で寝返りを打つと、私の腰に回されていた逞しい腕が、逃がさないとばかりにキュッと力を込めた。
「……んっ」
「おはよう、私の愛しいヴェラテア。もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
耳元で響く、低く甘い声。同時に、首筋にチュッと柔らかな感触が落ちる。
「ヴォル、フレード様……くすぐったいですわ。それに、もう起きる時間では……」
「あと五分。いや、十分。二十分かな。君との時間はいくらあっても足りない。……いっそ、今日の公務はすべて中止にして、一日中こうして君を抱きしめていたい」
諸外国が恐れる「覇王」にして、ラディスロフ帝国の皇帝陛下。
その彼が、私の肩口に顔を埋めて大きな犬のようにすり寄ってくる姿を、他国の人間が見たら果たして信じるだろうか。
「いけません。今日は、南部の領主たちが、新しい帝国での、最初の新年の挨拶にいらっしゃる日でしょう? 皇帝陛下が遅刻するわけにはいきませんよ」
私が苦笑しながら彼の銀糸のような髪を撫でると、彼は心底名残惜しそうに長いため息を吐き、ようやく私を抱きしめていた腕を緩めた。
「君が甘やかしてくれないから、私は今日も孤独に玉座で冷酷な皇帝を演じなければならない」
「夜になれば、いくらでも甘やかして差し上げますから。……ね?」
私が上目遣いでそう告げると、ヴォルフレード様の瞳が、一瞬だけ危険な光を帯びて細められた。
「……その言葉、絶対に忘れさせないからな」
彼が私の唇に深く、甘いキスを落とした後、ようやく私たちはベッドから起き上がった。
ラディスロフ帝国の中心にある白亜の皇城。
私がこの国に来て、そして『重層素粒子結合炉』の暴走を鎮めてから、早くも半年が経過していた。
長年、分厚い雪雲と極夜に閉ざされていた帝国に太陽の光が戻り、大地は急速に生気を取り戻している。雪解け水は豊かな川となり、かつては氷に覆われていた大地にも、緑の若草が芽吹き始めていた。
私自身の生活も、劇的に変化した。
グランゼリア王国で、泥水とカビの生えたパンで命をつないでいた地下牢での日々が、まるで遠い前世の出来事のように思えてくる。
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「ヴェラテア様、本日はこちらのドレスをご用意いたしました。南部の領主様方がお見えになるとのことでしたので、少し華やかに、春の訪れを思わせる若草色のものを」
侍女のアンナが、嬉々として極上の絹で仕立てられたドレスを広げて見せてくれる。
「ありがとう、アンナ。とても素敵な色ね」
「ヴェラテア様の銀星色の髪に、絶対に似合いますわ! さあ、お仕度をいたしましょう!」
アンナたち侍女は、私をまるで壊れやすい宝石かお姫様(今は皇妃なのだが)のように、毎日これでもかと手厚く世話を焼いてくれる。
肌には毎日最高級の香油がすり込まれ、髪は真珠の粉を混ぜた特製の水で磨き上げられる。美味しい食事と温かいベッド、そして何より「呪い」を溜め込む必要がなくなった私の身体は、見違えるほど健康的で美しくなった。
鏡の前に立つたび、そこに映る自分が信じられないほどだ。
身支度を整え、ヴォルフレード様と共に楽しい会話を交えた朝食を済ませた後、私は皇妃としての執務――主に後宮の管理や、国内の慈善事業の書類に目を通す作業に向かった。
文字の読み書きや計算は、地下牢時代にこっそりと差し入れられていた古文書を読み漁っていたおかげで、不思議と苦にならなかった。むしろ、自分の知識がこの国のために役立っているという実感が、私に深い喜びを与えてくれていた。
────
昼下がり。
書類の束に一区切りをつけ、ソファでハーブティーを飲んで一息ついていた私の元へ、突然、執務中であるはずのヴォルフレード様がやってきた。
「ヴォルフレード様? 南部の領主たちとの謁見は終わったのですか?」
「ああ、無事に終わった。彼らは太陽の光と豊かな実りをもたらしてくれた『奇跡の皇妃様』に、山のような貢物を持ってきたよ。後で目録を回そう」
彼はそう言いながら、私の隣にどっかりと腰を下ろし、私の肩を抱き寄せた。
「それより、ヴェラテア。少し出かけないか? 君に見せたいものがあるんだ」
「見せたいもの、ですか?」
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ヴォルフレード様に手を引かれ、私たちが向かったのは、皇城の裏手に広がる広大な敷地だった。
そこは以前、ぶ厚い氷河に覆われた立ち入り禁止の区域だったはずだ。
だが、私の目の前に広がっていたのは氷河ではなかった。
「これは……!」
私は思わず両手で口を覆った。
見渡す限りの、一面の神々しい花畑。
薄紅、純白、黄金、鮮やかな青。数え切れないほどの色とりどりの花々が、春の暖かな日差しを浴びて風に揺れている。
蝶が舞い、甘い香りが空気を満たしていた。
「驚いたかい? この半年間、君には内緒で、エルフたちとの交易で得た聖なる花々を、庭師たちを総動員して造らせたんだ。帝国の新しい気候に合うよう、品種改良も重ねてな」
ヴォルフレード様が、誇らしげに、けれどどこか照れくさそうに微笑む。
「私のために、造ってくださったのですか?」
「当然だろう。君はかつて、あの忌まわしい国で、窓一つない暗闇の地下牢に閉じ込められていた。太陽の光も、花の美しさも知らずに生きてきた」
彼の手が、私の頬を優しく包み込む。
「だから私は、この世界にあるすべての美しいものを、君に与えたいと思った。君が奪われてきた時間を、その何千倍もの美しさと喜びで埋め尽くしてやりたいんだ」
その言葉に、私の胸の奥が熱くなり、視界がじんわりと滲んだ。
私がグランゼリア王国で引き受けていたのは、国の絶望そのものだった。
私が苦しむことでしか、あの国の「偽りの美しさ」は保てなかった。
けれど今、私の目の前にあるこの圧倒的な美しさは、誰かの犠牲の上に成り立っているものではない。純粋な喜びと、私を愛してくれる人の途方もない優しさで作られたものだ。
「……あ、ありがとうございます、ヴォルフレード様。本当に……私にはもったいないくらい、美しい光景です」
私は涙をこぼさないように微笑みながら、彼を見上げた。
「もったいないなどと、二度と言わないでくれ。この世界のどんな絶景も、君の笑顔の美しさには敵わないのだから」
彼はそう言って、花畑の小道をゆっくりと歩き出した。私も彼と手を繋いだまま、その後を歩く。
色とりどりの、見たこともない美しい花々に囲まれながら歩いていると、ふと、足元に一際目を引く花が咲いているのを見つけた。
それは、私の髪と同じ、透き通るような銀星色の花びらを持った、不思議な花だった。
「この花は……?」
私が尋ねると、ヴォルフレード様は足を止め、その花を一輪摘み取って私の髪に優しく挿してくれた。
「この花園を作るにあたって、帝国の園芸師や錬金術師たちが新しく生み出した品種だ。まだ名前はない。是非、君に名付けて欲しい」
「私がですか?」
「ああ。君の髪と同じ色をした、この国で最も誇り高き花だ。……実は、南部の領主たちが持ってきた貢物の中にも、グランゼリアの難民たちの連盟から進呈されたという珍しい特産があったのだが、今はこの花の方がずっと君に似合うと思ってね」
グランゼリアの難民。
その言葉の響きに、私はほんの少しだけ目を伏せた。
あの国が自滅の道を辿ってから半年。
完全に瘴気に飲まれ、腐海と化したグランゼリアからは、国境付近に難を逃れた者たちが、すべてを失って他国へ逃げ延びたという、紛れもない事実。
だが彼らを待っていたのは地獄ではなく、救済。
『化け物』『汚れた国の者』として当初は忌み嫌われ、奴隷同然の扱いを受けようとしていたと後に聞いた。でも私やヴォルフレード様の迅速な介入で、そうした自体は避けられ、今や彼らは光をもたらした『救国の聖女』の民として、名誉ある扱いと、自立した生活を持っている。
あの王城の『太陽の間』で生きたまま腐り落ちていった父や、ギルザーク、セルディアたちの末路。一歩、運命が違っていたら難民たちは……。
「……どうかしたか?」
私の僅かな沈黙に気づいたのか、ヴォルフレード様が心配そうに覗き込んでくる。
「いいえ、なんでもありません」
私は首を振り、彼に向けて最高の笑顔を作った。
「ただ、過去の亡霊よりも、目の前にある幸せがあまりにも眩しくて」
私は彼からもらった銀星色の花にそっと指先で触れた。
「この花の名前……『ルミナス』というのはいかがでしょうか。古代語で『絶望を照らす光』という意味です」
「ルミナス……いい名前だ。そして君にもぴったりだ」
ヴォルフレード様は満足そうに頷くと、私の腰を引き寄せ、そのまま抱き上げた。
「きゃっ!?」
「さあ、花畑の散策はこれくらいにしよう。……朝、君が言った言葉を忘れたとは言わせないぞ」
「えっ、あ、あの、夜になったらと……今はまだ、お昼間ですわ!」
「太陽が昇っていようが沈んでいようが関係ない。私がこの国の覇王なら、私の望む時が夜だ。……それに、私はもう君の美しさに限界なんだ」
彼の紅蓮の瞳が、獲物を捕らえた肉食獣のように甘く、そして熱く燃え上がっている。
抗うことなどできるはずもないし、するつもりもなかった。
「……陛下は、本当に我がままですね」
「君を愛することに関してだけは、誰よりも強欲でいたいからな」
花々の甘い香りに包まれながら、私は彼の首に腕を回し、その熱い口付けを受け入れた。
奪われ、虐げられてきた過去はもう、遠い彼方へ消え去った。
今の私を満たしているのは、致死の呪いではなく、溺れるほどの深い愛だけだ。
「愛しているよ、ヴェラテア。私の命が尽きるまで、いや、魂の果てまでも」
「私もです、ヴォルフレード様。あなたと共に、この光に満ちた世界を歩んでいきます」
花畑を吹き抜ける春の風が、私たちの誓いを祝福するように優しく通り過ぎていった。
この先、どれほどの時間が流れようとも、この幸せな生活が終わることはないだろう。
なぜなら、私は彼に甘やかされ、彼を愛し抜くという「新しい呪い(しあわせ)」に、永遠に囚われてしまったのだから。




