1
冷たい大理石の床に頬を押し付けられながら、私はどこかひどく冷めた頭で、頭上から降り注ぐ罵声を聞いていた。
「この忌まわしい化け物め! 貴様のような呪われた女との婚約は、今日、この瞬間をもって破棄する! そして、我が王国の真の光であるセルディアと新たに婚約を結ぶことを、ここに宣言する!」
王城の最も奥深く、限られた特権階級の者しか足を踏み入れることの許されない絢爛豪華な『太陽の間』。数多の魔石が埋め込まれたシャンデリアが眩い光を放ち、集まった貴族たちの色とりどりのドレスや礼服を照らし出している。
しかし、その美しい光景の中で、私――ヴェラテア・ゾルヴァンの存在だけが、決定的な異物として床に這いつくばらされていた。
「ギルザーク殿下……ああ、私のためにそこまで……。でも、お姉様もきっと反省していらっしゃいますわ。だから、どうか命だけは……」
私の背後で、銀糸のような美しい髪を揺らし、純白のドレスに身を包んだ義妹のセルディアが、両手で顔を覆いながら涙ぐむ演技を披露している。その声は小鳥のさえずりのように可憐で、周囲の貴族たちは「なんて慈悲深い聖女様だ」「あんな黒き魔女を庇うなんて」と、こぞって称賛の声を上げた。
私の婚約者であったはずの第一王子ギルザークは、セルディアの華奢な肩を優しく抱き寄せ、私を見下ろして鼻で笑った。
「セルディア、君は優しすぎる。この女は、我が王国の清らかなマナを濁らせる『泥闇の業』を持って生まれた忌み子だ。ゾルヴァン侯爵家が情けをかけ、今日まで生かしてやっていなければ、とうの昔に路地裏で野垂れ死んでいたはずのゴミ屑にすぎない。君が憐れむ必要など微塵もないのだよ」
ギルザークの言葉に、周囲から同調するような嘲笑が巻き起こる。
私は痛む体を僅かに動かし、自分の手を見た。かつては白かったはずの肌は、今はどす黒い瘴気に侵され、まるで泥を塗ったかのように変色している。着ているドレスも、侯爵家の令嬢とは思えないほど粗末で、あちこちがすり切れていた。
『泥闇の業』
それが、私が生まれ持った異能にして、この国で最も忌み嫌われている呪いの力だった。
触れたものの生命力を奪い、周囲の清浄なマナを黒く染め上げるとされる悪魔の力。実の親であるゾルヴァン侯爵家でさえ、私を見た瞬間に「化け物を生んでしまった」と絶望し、私は物心つく前から窓のない地下牢で育てられた。
だが、彼らは私を殺さなかった。
いや、正確には「殺せなかった」のだ。
このグランゼリア王国は、豊かな緑と魔法に恵まれていると他国から羨望されているが、その実態は酷く歪なものだった。大地の下には古の魔獣の死骸が埋まっており、そこから絶えず致死量の『瘴気』が漏れ出している。
本来なら、数百年前に国は瘴気に飲まれて滅亡していたはずだった。
それを食い止めていたのが、私だ。
私の『泥闇の業』は、単にものを腐らせる力ではない。ありとあらゆる呪いや瘴気、他人の抱える病魔や死の運命すらも、己の身に「吸い上げ、喰らい尽くす」という規格外の吸収能力だった。
「お姉様……ごめんなさい。私、お姉様から殿下を奪うつもりなんてなかったの。でも、私の『白光の聖魔法』が国を救うためには、殿下の支えが必要で……。だから、お姉様はこれからも、地下室で私たちのために祈っていてくださいね」
セルディアが私の耳元に顔を寄せ、周囲には聞こえないような微かな声で囁いた。その声には、隠しきれない優越感と悪意がたっぷりと滲んでいた。
彼女の言う『白光の聖魔法』など、ただのまやかしだ。
彼女は人々の前で美しく光り輝く魔法を見せ、いかにも病や呪いを「浄化」したように振る舞う。だが、実際には彼女の魔法はただの鎮痛作用と表面的な発光現象に過ぎない。
その裏で、彼女が「浄化」したことになっている致死の呪いや瘴気は、すべて地下牢で鎖に繋がれた私へと転送される術式が組まれていた。
私が毎日、骨の髄まで焼かれるような激痛にのたうち回り、血を吐き、肌を黒く変色させながら国のすべての汚泥を飲み込んでいるからこそ、この国は美しい景観を保っていられる。セルディアが「奇跡の聖女」として崇められているのも、すべて私が彼女の尻拭いをしているからに過ぎない。
彼らはその事実を知っている。
侯爵も、ギルザークも、そしてセルディアも。
知っていてなお、私を「呪われた化け物」と蔑み、地下牢に閉じ込め、「生かしてやっているのだから、国のゴミ箱として一生涯奉仕しろ」と強要してきたのだ。彼らにとっては、黙って言うことを聞き、他人事で済む現状が心地よかったのだろう。
「ヴェラテアよ」
ギルザークが、私の黒く変色した細い腕を、磨き上げられた革靴で容赦なく踏みつけた。
「ぐっ……!」
「お前は本当に見苦しい。だが、安心しろ。我々はとても慈悲深い。婚約は破棄するが、侯爵家の地下牢に住まうことだけは特別に許してやろう。お前のような醜い化け物に居場所を与え、毎日の食事を与えてやれるのは我々だけだからな。我々の見返りを求めない救済に、涙して感謝するがいい」
見せかけの救済。
自己満足の慈悲。
彼らは私からすべてを搾取し、あまつさえ「助けてやっている」という優位性に酔いしれている。
踏みつけられた腕から、ギシギシと骨の鳴る音がした。激しい痛みが脳を焼くが、私の心は不思議なほど凪いでいた。
ああ、もう十分だ。
私の中で、張り詰めていた何かが、ふつりと音を立てて切れた。
「……殿下」
私は顔を上げ、ギルザークを真っ直ぐに見据えた。
そのあまりにも冷ややかで、一切の感情を削ぎ落とした漆黒の瞳に、ギルザークは一瞬だけ怯んだように肩を揺らした。
「なんだ、その目は! 恩知らずな化け物め、まだ何か言いたいことがあるのか!」
「ええ。一つだけ」
私は踏みつけられた腕に力を込め、ゆっくりと身体を起こした。ギルザークの足が持ち上がり、彼はバランスを崩してよろめく。周囲の近衛騎士たちが剣の柄に手をかけたが、私は意に介さず立ち上がった。
「私を『救済』してくださり、本当にありがとうございました」
「……ふん、ようやく自分の立場というものを理解できたようだな。ならばさっさと地下へ戻り――」
「ですが、もう結構です」
私の言葉に、ギルザークの言葉がピタリと止まった。
セルディアも、目を丸くして私を見ている。
「な、なんだと!?」
「言葉の通りです。あなた達のその『見せかけの救済』など、私にはもう不要だと言っているのです」
私はドレスの裾を払い、背筋を伸ばした。
何年ぶりだろうか。これほどまでに胸いっぱいに空気を吸い込み、堂々と前を向いて立ったのは。
「はっ! ついに頭がおかしくなったか、ヴェラテア! ここを追放されれば、お前は野垂れ死ぬ運命だぞ! 誰も、お前のような呪いの塊を欲しがる者などいない!」
「いいえ。いらっしゃいますよ」
「なに……!?」
私が微笑んだその瞬間――。
『太陽の間』の巨大な観音開きの扉が、轟音と共に吹き飛んだ。
「きゃあああっ!?」
「な、何事だ!!」
粉々に砕け散った木片と黄金の装飾が宙を舞い、貴族たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。土煙が舞う中、扉の向こう側から、圧倒的な密度を持った『冷気』と『覇気』が雪崩れ込んできた。
シャンデリアの光すらも吸い込むような、深い漆黒の軍服。
そして、見る者すべてを平伏させるような、氷のように冷たく、けれど燃え盛るような紅蓮の瞳を持った男が、悠然とした足取りで広間へと足を踏み入れた。
彼が歩を進めるたびに、大理石の床が霜を吹き、ピキピキと凍りついていく。
その異常な魔力と、威圧感。そして何より、黒地に銀の双頭竜が描かれた豪奢な外套を見た瞬間、ギルザークの顔色から一瞬にして血の気が引いた。
「な……なぜ、ここに……『極夜の覇王』が……!?」
ヴォルフレード・ゼイン・ラディスロフ。
北方の広大な領土を支配し、絶対的な武力と魔力で周辺諸国を震え上がらせている軍事国家、ラディスロフ帝国の若き皇帝にして、最強の魔術師と謳われている。
決して他国へ足を運ぶことのないはずの絶対者が、なぜ一介の王国の夜会に現れたのか。広間は水を打ったような静寂に包まれた。
ヴォルフレードは、怯えて後ずさるギルザークや騎士たちには一瞥もくれず、真っ直ぐに私の元へと歩み寄ってきた。
そして、誰もが息を呑む中、彼はゆっくりと片膝をつき、私の泥にまみれた手を取った。
「迎えに来たぞ、私の唯一にして至高の伴侶よ」
「……遅いですわ、ヴォルフレード様。もう少しで、腕を折られるところでした」
「すまない。この国境の結界が、思いのほか厄介でな。だが、もう二度と貴女を傷つける真似はさせない」
大陸全土が恐れる覇王が、呪われた化け物であるはずの私に恭しく口付けを落とす光景に、周囲の人間は誰一人として状況を理解できず、口をパクパクと開閉させていた。
「ま、待て……! 待ってください、ヴォルフレード陛下!」
ようやく我に返ったギルザークが、上ずった声で叫んだ。
「そ、その女は呪われています! 触れたものを腐らせる、悍ましい『泥闇の業』を持った化け物です! 陛下のような偉大なお方に相応しいのは、真の聖女である私の婚約者、セルディアの方で――」
「黙れ、愚者め!」
ヴォルフレードが氷の刃のような一瞥を向けた瞬間、ギルザークは目に見えない巨大な力で床に叩きつけられ、カハッと血を吐いた。
「ひぃっ!?」
「お、お姉様……! いったい、どんな妖術で陛下をたぶらかしたの……!」
腰を抜かしたセルディアが震える声で私を睨みつける。
私は彼女を見下ろし、心底哀れむように目を伏せた。
「妖術など使っていませんよ、セルディア。それに、この力は『呪い』などではありません。あなた達のような無知な者には理解できなかっただけです。この力は……万物を無に還し、世界を再構築するための神聖な力」
ラディスロフ帝国は、強大すぎる魔力によって国土の半分が暴走した古代魔法の残滓に侵されている。彼らはそれを制御し、完全に喰らい尽くすことのできる「絶対無効化」の能力を持つ者を、何百年もの間探し求めていたのだ。
数ヶ月前、地下牢のわずかな隙間から侵入してきた帝国の使い魔を通じて、私はヴォルフレードと密約を交わしていた。
帝国を蝕む古代魔法の残滓を私が喰らい、無効化する。その代わり、彼は私をこの地獄から救い出し、帝国の皇妃として迎えるという契約を。
「私の才能を、命懸けで正当に評価してくれる人が見つかりました。ですから、もうあなた達のゴミ箱になってあげる必要はどこにもありません」
私はそっと、足元に展開していた『吸収の術式』を完全に切断した。
その瞬間。
私という「安全弁」を失ったグランゼリア王国の地下から、溜まりに溜まっていた数百匹分のシェルウィング(巨躯有翼蠍)の瘴気が、どす黒い靄となって広間の床から染み出し始めた。
「な……なんだ、これは!?」
「く、空気が……息が、できない……っ!」
見目麗しかった貴族たちの肌が次々とどす黒く変色し、彼らは喉をかきむしりながら床をのたうち回り始めた。
これが、彼らが本来受けるべきだった現実。私が今まで一人で肩代わりしてきた、この国の本当の姿だ。
「助け……セルディア、早く浄化を……!」
ギルザークがすがりつくように手を伸ばすが、セルディアの『白光の聖魔法』など、この濃密な瘴気の前では蛍の光ほどの意味も持たなかった。彼女自身も瘴気に当てられ、美しい顔を醜く歪ませて激しく嘔吐している。
「ああっ、いや、嫌っ……! 私の美しい肌が……! お姉様、助けて! 吸い取って! 今までみたいに、あなたが全部吸い取ってよ!!」
鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしたセルディアが叫ぶ。その自己中心的な懇願に、私はただ冷たい微笑みを返した。
「さようなら、可哀想な人たち。あなた達の見せかけの救済に、心からの感謝と――同量の絶望を置いていきます」
私はヴォルフレードの手を取り、彼に抱き寄せられるようにしてその場を背を向けた。
これからこの国がどうなるか、私には知る由もない。ただ確実なのは、二度と夜が明けることはないということだけだ。
崩壊と絶望の悲鳴を背に受けながら、私はかつてないほど清々しい足取りで、新たな私の世界へと歩き出した。




